『ウマ娘』と運動能力前提社会
セイちゃん強い(挨拶)
今年もはや8月。
毎年のことだが、1年は長く感じる癖に思い返すと何も成しえていない絶望感に襲われる。
「絵を描きたい」「歌が上手くなりたい」「映画を見たい」「本を読みたい」…などとやりたいことが溜まる一方、目前に控えるタスクは遅々として進まず結果として虚無だけが残るのが世の常。
しかし驚くべきことに、今年は何とかジョギングを継続できている。
本当に自分にしては「やるじゃん…!」という進歩的な成果だ。
家の近くのデカい公園の外周約2kmを毎日…と言いたいが雨の日とかは普通に走らないし、夜に予定が入ってたり疲労で寝ちゃったりした日もパスしているので平均して週5回くらいのペースで取り組んでいる。
前々から「何か運動しないとヤバいよなぁ」という漠然とした健康意識はあったものの、生来の運動音痴+運動嫌いによって、ジョギング・筋トレなどは『たぶん一生やらないリスト』入りしていた。
思い返せば、大学の文化部サークル対抗ソフトボール大会ですら4年間1度も参加しなかったし、後輩にキャッチボールに誘われても誤魔化しで毎回逃げていた。
マトモな運動が高校の授業以来だとしたら、だいたい5年ぶりくらいになるのだろうか。
邂逅
自分がジョギングを始める契機となったのが『ウマ娘プリティダービー』である。
ウマ娘にちゃんと触れたのは今年に入ってアニメ2期が放送されたタイミング。
前々からアニメの評判を聞いていたし、ちょうど時間的な余裕もあったので1期から通して視聴してドはまりした。
当然、ゲームも今日に至るまで続けている
ゲームでは、ウマ娘たちが全力で走るレースを何度も見ることになる(基本スキップしているけど)。
歯を食いしばって最終直線を駆け抜け、勝利する姿も敗北する姿も何回も見るのだ。
プレイヤーはレースまでにステータスを上げることしかできず、本番のレースは眺めることしか出来ない。
自分は物語に共感して楽しむタイプなので、それでも喜びや悔しさはこみ上げてくるし、やっていく内に色々と感化されていくのである。
そう、私は「走って気持ちよくなりてえな…」という心境に至り、ジョギングを始めたのだった。
いざ、実走
クソしんどい。
何が楽しいんだ…コレ……というのが今日まで変わらない感想だ。
走るたびに"死"に近づいているように感じる。
片付けを始めると最初は更に散らかるように、継続することで余裕ができて"走る喜び"を感じられる…と自分自身に言い聞かせて3ヵ月が過ぎた。
残念ながら、未だ私が苦しみから解放される気配はない。
すぐに脇腹とか痛くなるし、呼吸は苦しいし、夏場は特に汗が気持ち悪いし、帰ると30分くらい動けなくなるし、次の日の午後まで足の重みは消えないし………
「走り続けるとアドレナリンが出て気持ち良くなる」「頭が空っぽになってリフレッシュできる」などの言説に抱いていた希望は脆くも崩れ去った。
アドレナリンが排出されるには30分くらい走り続ける必要があるらしく、そんなに走る体力も時間も無い。
足を動かす以外に音楽・ラジオを聴く程度しか他に何もできないので、むしろジョギング中は思考に割くリソースがかなり多くなる気がする。
しかし、脳に苦痛と疲労がフィードバックされている訳で、へたへたになった脳はネガティブな思考に陥っていくのである。
走る目的やら情けなさやら仕事のことやら負の思考と肉体的な疲労によって、たかだか15分程度のジョギングで心身がボロボロになっていく。
これでよく続けてるなコイツ。
貧弱な生物
設定として、ウマ娘は本能的に走りたいから走っているらしい。
彼女らは走るのが好きというのが大前提で、その上で誰よりも速くなることを目指している。
走るしんどさを実感しても、やっぱりウマ娘のアニメやゲームでレースを見てると羨ましくて仕方がない。
そんな憧れに支えられ、惨めなジョギングを続けていくにつれて、私は内在する運動へのコンプレックスの深さを自覚した。
自分は子供の頃から運動がメチャクチャ苦手だ。
そもそも体が弱かった。
やたら風邪ひいたり、喘息やら水疱瘡やらで親に迷惑をかけていた。
幼稚園の時点で既に運動への苦手意識は芽生えていた覚えがある。
小学生の頃はドッジボールやキックベースや何やらに励んでいたが、友達と遊びたい欲求が苦手意識を上回っていただけで、運動そのものに喜びを見出した経験は無い。
とにかく、運動が無理な人間なのだ。
体育の支配
今はどうか分からないが、少なくとも自分の通っていた時代の学校はなんやかんやと高校までずっと"足が速いイデオロギー"が根付いていた…と思っている。
ここを深く突っ込もうとすると多分ジェンダー論や能力主義とかに首を突っ込む必要があると思うので雑に流すが、運動できるヤツが正義・偉大ではなくて、運動できるのは"普通"みたいな価値観は無意識かもしれないが存在しているよね、という主張がしたいのです。
とにかく、学生時代をずっとこうしたイデオロギーで過ごすのだから社会に出て運動する機会が大幅に減少しても、運動くらい誰でもある程度できる…という意識は死ぬまで変わらないだろう。
職場で私は野球部に強制的に参加させられているが、実際にそう感じることがままある。
野球部と言っても緩くて練習自体がほぼ無いし、全体的に面倒な行事だとメンバーも理解して配慮してくれている(辞めることは認められないが)。
そこで、励ましとして先輩に「できるようになればそんなに嫌じゃなくなるよ」と言われたのが未だに忘れられない。
能力の無い人間ができるようになる為には、並の人の何倍も多く練習しなければならなくて、そんな時間もモチベも無いのにどうやって?
自分にとって野球はメチャクチャ複雑で難易度の高いスポーツだ。
幼少期にクラブに在籍していたとかで基礎を知らない以上、”できるようになる”のは過酷を極めると考えていた。
一方でスポーツクラブにも在籍している先輩としては、社会人の空いた時間の練習でも全然できるというのだ。
余りにも衝撃的だった。
先日は会社の別の人に「お前は細いから長距離とかやればそこそこ行けそう」と言われ、またショックを受けた。
実際「やればできる」というのは一面的には間違ってないだろうし、やっていけば少しは上達はすると思う。
ただ、根本的に「体を動かす」こと自体にネガティブで苦痛を伴う人間の存在が想定されていないことがキツかった。
ジョギングを続けているという話から始めておいてなんだが、私は運動の中でも「走る」ことを特別イデオロギー的で苦手に感じる。
特別なプロセス・ルールが要らず、誰でも「走る」という行為自体は可能で、強さが残酷なまでにハッキリと出る。
あらゆる運動の基礎的な立場に位置するのが「走る」である(たぶん)。
それは当然、私のコンプレックスを育てるのにも重要な役割を果たしていた。
小学生の体育の授業で一番最初かは思い出せないが、少なくとも最初の頃に走らされた記憶がある。
当時ソニックとナルトのアニメを見てあの走り方がマジで速いと信じた私は、実際にやってクラス中に笑われた。
コンプレックスの根源の一つだろう。
高校の時には、1000m走をクラス平均が5分以下になるまで走らせると体育教師に宣告された。
走ることだけでなく、速く走ることが義務化された絶望感は未だに忘れられない。
幸運にも私のクラスは一度でパスすることができたが、当然の如くタイムオーバーしていたので、結果を見るまで自分が存在してはいけないような気持ちでいた。
こうした積み重ねを経て、私は根深い「被害者意識」を抱えて生きることになったのだった。
ウマ娘の背に乗って
その"走る"という一種原始的なスポーツをウマ娘は取り上げ、ドラマを作り、ゲームとして完成させた。
そこに私は夢を見ている。
走る喜び、速くなる喜び、勝利する喜び、そんな自分が知りえない熱情を感じた気にさせてくれる。
ウマ娘を通して初めて、私は運動に正のベクトルを向けられている。
運動を前提とするイデオロギーの前では、これは空虚な錯覚と断じられるのだろうか。
それでも、私にとっては革命的な出来事だ。
ウマ娘を通すことで少しだけ負け犬的視点から脱却することができるかもしれない。
走りたい。速くなりたい。
そんな先行していく感情に追いつくために、私は吐きそうになりながらジョギングを続けている。
どうか今後も、暗い夜道を情けない姿で走る男を支えて欲しい。
《追記》
2021/08/06 タイトル修正:『ウマ娘と運動前提社会』→『ウマ娘と運動能力前提社会』
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