キラメイジャー43話を見て勿体ないと感じたこと
タイトル通り、『魔進戦隊キラメイジャー』43話を見てのお気持ち表明。特に生産的なことは書いてない。
保険のような前置きになるが、自分はニチアサとかにあまりケチをつけたくない。
コンテンツの中心にいるのは子供のためのものであって、自分ではないと感じるからだ。
「特撮は誰でも楽しんで良い」ということは重々承知の上だが、あくまでもその中心にいるのは子供であると思うし、常にそうであって欲しい。
だから、大人の自分が見て思う「粗さ」とか、それくらいの感情は口に出さなようにしているのだが、今回は「物語の打ち出すメッセージとして勿体ない」と思ってしまったので記録も兼ねてツラツラと書いている。
はじめに(自分語り)
※読み飛ばし推奨
自分は現在20代半ば。子供の頃はニチアサが大好きで、ガオレンジャーからゲキレンジャーの辺りがいわゆる「世代」だろうか。
しかし、小学生高学年になってもニチアサを欠かさず見続けていたため親から禁止令が下り、それ以来スーパー戦隊に触れる機会はあまりなくなってしまった。(その後もこっそりと見たりしていたが、シリーズを通して追うことは完全になくなった)
キラメイジャーは十年ほどの空白を経て見るスーパー戦隊シリーズになる。
きっかけとなったのはニチアサを見ていた友人。
共通の話題作りの一環として見ることにしたので、正直なところ期待値は高くはなかった。
しかし、いざ見てみると戦隊メンバー個々のキャラや関係性の掘り下げ、敵のデザインの秀逸さ、「好き」に対する温かなエールに魅了され、毎週日曜日が楽しみになっていった。
そして作品への脳内評価は変わらず高いまま、物語は最終局面に突入した…
43話を視聴して
この記事のメインとなる敵幹部ガルザについてざっくりと説明すると、宝石の国「クリスタリア」の王族であったが、闇の帝国「ヨドンヘイム」へと寝返り、実の兄であるクリスタリアの王・オラディンを殺害した…という感じのキャラである。
勝利のためなら卑劣な手段も厭わないタイプ。兄へのコンプレックスが強く、面影を感じる充瑠/キラメイレッドにも激しい感情を向ける。非常に良いですね。
42話では、ガルザがヨドンヘイムの皇帝(いわゆるラスボス)の肉体を乗っ取り、最強の敵としてキラメイジャーの前に立ちふさがることとなった。
一方でガルザの幼少期が描写され、かつては充瑠のように想像を自由に絵に描いていたことが判明している。
時系列が前後するが、41話はガルザと並ぶ敵幹部・クランチュラと充瑠が自由に絵を描くというクリエイションを通し、敵味方を超えて心を通わせるというエピソードであった。
このエピソードを踏まえ、42話でガルザの内に存在する充瑠との共通項が提示されたことで、両者が徹底的な戦いを回避できるルートは示唆されていたように思われる。
そして来たる43話、前回に続いて圧倒的な力を見せつけていくガルザだったが、充瑠との闘いの中で兄と共に絵を描き、空想を語り合う穏やかな過去を思い出す。
そしてガルザは自分が兄を心から愛しており、激しい憎悪はヨドン皇帝による洗脳であったと判明する。
結果としてガルザとは和解に至り、復活したヨドン皇帝が改めて「悪」として君臨することとなる。
不満点
端的に「ガルザが絶対的な善人だった」という点に集約される。
先にも書いた通り、41話ではクランチュラが充瑠と心を通わせるという展開を描いている。
これは善悪という固定的な二元論から脱したシチュエーションであり、個人的にとても大切なものだと思った。
自分は「バトルもの」が大好きだが、同時にその構造は歪んでいるとも思っている。
「敵、怪人」=「攻撃する、排除するもの」として単純化されて描くだけでは正直物足りず、そこに"浅さ"を感じてしまうのだ。
敵に対する「許し」と「罰/報い」のバランスが今の作品には重要なのではないかと思う。
とはいえ絶対的な悪というものもエンタメには必要だと思うし、そういった存在(キラメイジャーではヨドン皇帝が当たる)が登場して、それを主人公が打ち倒す展開が嫌いなわけではない。というか普通に好き。
ただ「分かり合える、許し合える」という要素を描くのならば大切に、丁寧に描いて欲しいといったところである。
話を戻すと、最終的にガルザは善であり、悪による被害者として充瑠と分かり合う形となった。
別に敵のままで良かったんちゃう?
敵との和解は一方的な攻撃を肯定せず、自分たちの延長線上に存在することを示すものだ。
43話の展開では、ガルザの被害者性はヨドン皇帝の悪性を強調し、倒すべき絶対悪として改めて物語に君臨させるものだ。
これが本当に勿体ないと思う。
子供の頃に兄と絵を描く喜びを分かち合えていたとしても、その後コンプレックスを抱くことはいくらでもある。
兄の方が絵が上手い、自分の想像に限界を感じる…そういった感情から性格が歪み、結果として兄殺しに至る…その道筋は決して不自然なものではないように思うのだ。
自分がそういった思考に陥る背景に存在するのが、更に遡っての40話だ。
40話では絵が上手い引きこもりの八太さんというキャラクターが登場する。
彼は漫画賞に応募するも落選、誹謗中傷によって社会への憎しみを自覚して怪人へと変貌する。
最終的に八太さんは充瑠に救われるものの、どこか後味の悪さを感じるこのエピソードは「アウトサイダーに対する社会の攻撃性」をはっきりと見せるなど毒気が強く、特に印象に残っている。
だが同時に、40話では「夢を追い求める大切さ」もメッセージとして発信されているのだ。
八太さんはこの回を通して大きな喪失を経験しながらも漫画を描き続けたことで、漫画誌の連載に至ったことが示唆されている(間接的な描写に留まっているあたりハッピーエンドとは言えないように思うが)。
それを受けて「変わらないこと」「自分を信じること」に意味があるのだと結論付けられる。
それを踏まえると、ガルザは折れてしまった八太さんになりえたのだ。そしてクランチュラと同様に、敵対関係の中で通じ合う展開へとつながることもあり得たように思ってしまう。
つまり、40話,41話での一種の前振りとも取れるの流れが、43話で断絶したように感じるのだ。
自分を信じることができなかった者を登場させ、多くの過ちを犯しながらも通じ合えるという展開であれば、それまでのキラメイジャーが発信し続けていたメッセージ性により説得力が増したのではないか。
大人になれば誰しもが抱えるコンプレックスを真正面から描写して欲しかった。
そう願ってしまうのは自分も折れてしまった側の人間だからだろうか。
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