「君たちはどう生きるか」の解釈学っぽい楽しみ
宮﨑駿監督の最新作を公開初日、レイトショーで観てから、普段楽しみにしている映画系のYoutuberのお話を聞いたりしつつ、いろいろ考えていました。感想などは出さないつもりでしたが、少し面白いことに気づきました。皆さん本当に色々なことを考えるし、またその色々な考えが映画を彩っていくような感じがあります。つまり、これはメタもメタ、解釈学っぽい楽しみがある映画なんじゃないかと思い始めました。そこでちょっとここに表現をして、自分なりにこのお祭り?に参加してみたいと思います。
というわけで、以下ネタバレありで自由に書いていくことにします。
この映画には元ネタがあるようです。『失われたものたちの本』というアイルランドの童話で、主人公の背景や異世界への冒険という物語の大筋はかなり似通っているとのこと。そこで、私の考えを述べるのはちょっと勇気がいるのですが、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』に近い部分があると思いました。まず、主人公がやってくる高台の屋敷の隅の方に、奇っ怪な塔があって、そのなかは魔宮のようになっているということ。その塔が沢山の蔵書を持っていて、これまで知られていなかったような異世界へと繋がっているということ、また、本に取り憑かれた人が潜んでいること、最後に塔が燃え落ちること、などです。
またシンボルとしての薔薇は、主人公眞人が、塔の中で一瞬「大叔父様」の影を見るときに登場します。これはサン・テグジュペリの「星の王子様」からの引用かも分からないのですが、個人的には薔薇の名前を思いついたきっかけでした。
恥ずかしい話、これを書いている当人はあまり『薔薇の名前』の奥深いキリスト教世界の知識に詳しくはないのですが、そこで語られている清貧論争ですとか、普遍論争などは哲学的に深い意義があるのは分かります。
その内容はともかく、以下ではトピックごとにちょっと面白いかもしれない視点を取り上げます。
①眞人はマルチバースから選ばれた者だった?
さっそく一番トンデモな解釈からスタートします。大叔父様があの映画における「異世界」を作り上げた者だとして、その作り方を問題にしたいと思います。おそらく扉が並んだ回廊(物語後半で、ヒミと一緒に冒険しているところで登場)のようなイメージで、無数にある可能世界の中からあるパターンを選び出し、「異世界」にパーツとして組み入れることができるのでしょう。すなわち主人公眞人は、都合よく選び出された一パターンだったのかも知れない、ということです。アオサギが物語の最初の方で「やっと見つけた」というような事を言っているかと思いますが、それは彼が沢山の可能世界の中からそれらしいのを見つける係だったからかもしれません。
②大叔父様の物語
この線で考えると、大叔父様の物語はちょっとシュールなものになります。世界を維持するために一番都合が良いと思って選んだ眞人なのに、他の者とのつながり(キリコやヒミやアオサギ)を得てしまう。それによって世界を維持することは不可能になってしまう、という悲劇です。
しかし、眞人が自分で考える力を持っている以上、そういった可能性は常にあったのだ、と思うしか無いでしょう。そういう予測不可能性は、自分で世界を編み出している間は無いものですから、ある意味で他者との出会いでもあるわけです。そういった意味があると思います。
③解釈の図式が散りばめられている?
さらに「異世界」の構造自体についても、考えてみると面白い点がいくつかあります。まず、物語終盤に突然登場する「13の石」ですが、これは大叔父によって大切に守られた世界の解釈の仕方と考えます。悪意に染まっていない世界の見方、あるいは、マルチバースの中でも特に純粋な形の世界のことかもしれません。物事を解釈する際に人はいくつかの枠組みを用いますが(例えばアリストテレスのカテゴリー論)、そのことを意味しているのかも知れません。
マルチバースと何度も言っていますが、これは最近のSFものでよく使われている意味とは違っています。おそらく「異世界」から見て色々な世界のあり方が見えるということは、それ自体が世界の解釈の仕方の多様性を意味しているのだと思います。ある世界では、炎は道具で扱うだけでなく、その中で活動するものでもある。ある世界では、キリコは漁師をしている、というわけです。そうした解釈がありうるということが、それ自体、そのパターンの世界の存在を肯定してしまうようなマジカルな世界、それが異世界というわけです。
異世界の塔の中と、外には、墓所があります。そこには「ワレヲマナブモノハシス」と書かれた扉、ないし深い赤色のベールがあります。これが何を意味しているか。おそらくは、人間の感覚では知り得ない「真理」、ないしは物自体を意味しているのかもしれません。
④「正しい解釈=正しい世界」からの解放
大叔父の作る「異世界」は多様ですが、同時に窮屈でもあります。それは正しい解釈のみを重ねた世界、均衡が保たれている世界です。真理に近づきすぎた者は暗い「真理の前」に置かれてしまう。また、ペリカンはワラワラを食べる他はなく、インコたちは塔のなかから出ることができません。それはつまり、中世的、父権的な仕方で統制された世界ということです。
これに対して、一方ではインコたちに代表されるように、内部からの反抗が生じます。それと同時に、先程述べた大叔父自身の選択からの予想外の帰結としても、「異世界」は終わりを迎えることになります。
インコの大王の暴挙は、ちょっとアレクサンドロス大王のゴルディアスの結び目についての逸話のパロディのようにも感じます。
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さて、以上のように好きに解釈することもできるわけですが、これが結構うまく成り立つようにも思えるのです。また、普遍論争や清貧論争など、『薔薇の名前』の時代には、聖書は人々にとって身近なものではなく、それを自分で読んで理解するということは想定されていませんでした。解釈学とは、唯一無二の正しい解釈を超えて、理解とは何なのか、それはどのようにして正しいかを問います。
解釈学的(っぽい)という意味で、「君たちはどう生きるか」は、ドグマで支配された「異世界」を脱して、苦しくても自由なイメージの世界を生きようというメッセージを持っているのではないでしょうか。
この考察に従えば、アオサギはギリシア神話におけるヘルメス、告げ知らせる者、また辻に置かれて道行きを見守る神を意味するでしょう。俊足で雄弁な彼は、古い時代の神さまに従属しているようでいて、実は新しい生き方の可能性を後押しする存在だったりするのかも?しれません。解釈学(ヘルメノイティーク)の語源がこのヘルメスだったりするのです。
と、ここまで好き勝手に解釈をしてきたのですが、この捉え方はある意味相当な無理があるかもしれません。「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」などを見ても宮﨑監督は神道に沿った世界観を作り出してきた方ですから、あまり西洋的な伝統に則ったことはしないようにも思われます。しかし、私が想像するに、高度に純化(抽象化)されたイメージは洋の東西を超えて共鳴することがあるはずです。もしかしたら意図していないのだとしても、現に表現されている事柄から繋がりを見つけ出し、新しい視点を得ることも間違いではないかもしれません。それはまた、解釈学的な考え方ではあたり前のことでもあります。解釈の目標となる「作者自身以上に、作者を理解する」ということは、ある程度の距離と視野の広さによって可能になってきます。
さらに続けます。ヘルメスについて少し調べていますと、「リプリースクロールの謎」というページに出会いました。イギリスに残る錬金術に関する絵巻物です。ここでは、伝説の神人ヘルメス・トリスメギストスが錬金術を用いて「白石・黒石・赤石」からなる賢者の石を生成する様子が描かれているようです。この記事の内容とは勿論リンクしてくるわけですが、それは西洋的な伝統から言って驚くほどではありません。ただ、少し見てみると不思議と「君たちはどう生きるか」の世界にオーバーラップされていくように思われます。例えば、ヘルメスの鳥に人の顔が描かれているところなんて、ちょっと似ていると思いませんか。ガマガエルもいます。
そうすると、劇中に出てくる白い石というのは賢者の石の材料だったのでしょうか?
関係はよくわかりませんし、もしかしたら何にも関係しないのかもしれません。しかし、死と生に関するイメージの連鎖として、これはこれで面白いように思うので、ここに記録しておきます。
以上、映画からの連想を楽しむ記事でした。
front image: "Tower" by Domiriel
link, trimmed for upload (CC BY-NC 2.0)