入管法改正案について

 【入管法改正についてどう思いますか?】と世間の皆さんから強く問われているように思う。私は一市民に過ぎないけれど、改めて考えてみないといけないことだと思ったので、ここで試みたい。

 沢山の問題が絡み合っているけれど、とにかく改正しなければいけない何かがある、という点についてほぼ皆の意見が一致している、という点についてまず確認したい。今のままではいけない。Tamen por kiu ni shanghu la aferon?(けれど、誰のために改正しようか?)
 よく話題になっているのは、難民申請中は強制送還がされない、という現行の状態を変更して3回目以降の場合は難民申請中も強制送還処理が可能になる、という点だ。
 改正案賛成派は、この変更によって制度悪用を減らし、犯罪者を効率よく国外退去させることで治安向上につながるとする。対して、改正案反対派は、そもそも日本において難民認定が極めて少ないなかにあって、辛うじてこの状態を利用している人々にとって非道い宣告になると警告している。
 向いている方向が違うようだ。そもそも賛成派は、難民になりうる人も含めた、いわゆる「外国人」以外の日本の人々の安全を守ろうとしている。対して、反対派は不安定化する国際情勢のなかで弱い立場に置かれたいわゆる「外国人」の権利を守ろうとしている。
 そもそも向いている方向が違うということが分かったが、さらに遡るとどうだろうか。その点を次に取り上げる。

 入管法改正案について説明してる出入国在留管理庁のホームページでは、最初に次の文が見える。

外国人を日本の社会に適正に受け入れ、日本人と外国人が互いに尊重し、安全・安心に暮らせる共生社会を実現することは非常に重要ですが、どんな人でも入国・在留が認められるわけではありません。

出入国在留管理庁HP「入管法改正案について」

 とても分かりやすいとは思う。よく考えられていると思う。しかし、私なら少し違った言い方をすると思う。まず外国人という言葉を不用意に使ってしまっているが、私なら「外国から来て在留する方」とする。法的な意味での「外国人」は単に日本国籍を有さない者のことだが、民間では「外の者」というニュアンスになってしまうためだ。次に、それと対応する言葉として不用意に「日本人」を使ってしまっている。これも民間では大和民族をイメージさせてしまう。日本列島には様々な民族がいるし、法的にも大和民族でない日本人は沢山いる。私なら「日本人と外国人」と分けて書かずに、「日本社会で暮らす人々」と一緒に書いてしまう。最後に「どんな人でも〜認められるわけではない」の文章は、そもそも否定形で書く必要がないのであって、裏側にはもっと大きな問題を含んでいる。一先ず私なりに書くなら以下のようになる。

外国から来て在留する方々を社会に受け入れ、日本社会で暮らす人々が互いに尊重し、安全・安心に暮らせる共生社会を実現することは非常に重要です。このために、出入国をする方々を適正に管理することが求められています。

筆者

 入管法の「本来」の方向性を、私は既に少し考えてしまった。いわゆる日本社会の人々と、それ以外の人で日本社会に滞在する人々の間でバランスを取り、調和させるということ。それが私の考えるところの主観的な入管法のイメージである。
 入管法について改めて調べてみると、その正式名称は「出入国管理及び難民認定法」といって、その冒頭には以下の文が見える。

(目的)
第一条 出入国管理及び難民認定法は、本邦に入国し、又は本邦から出国する全ての人の出入国及び本邦に在留する全ての外国人の在留の公正な管理を図るとともに、難民の認定手続を整備することを目的とする。

出入国管理及び難民認定法より

 残念ながらこの「目的」はかなりテクニカルなものであって、理念との関係性が見えない。法的な「日本人」が外国に出ることも、また法的な「外国人」が日本に入ることも扱う。文字通り出入国管理というわけである。しかし、前者については既に警察が相当の管理をしているのであって、入管法の対象が自ずと「外国人」に偏るのも当然である。事実、難民について特に扱うという書き方からも、その偏りが分かる。
 理念についての記述が少ないということは、逆に言えばそれについての議論を常に行って、コモンセンスを作っていく必要があるということである。だから、私がここで仮に提出した主観的なイメージも、それはそれとして、一つの意見として認めていただければと思う。

 さて、以上の意見から改めて今回の法改正を見たとき、私はこの法律と強い関係にある出入国在留管理庁の動きに気がかりな部分が多いと思う。もちろん働いている方々が大変な苦労をしていることは分かる。だけれども、組織である以上は本来の目的・理念についての態度が問われている。たしかに法的には入管法は「外国人」を扱う部分が多い。しかし、組織としての入管はその手続を通じて社会全体と関わっているはずである。
 今のバランスを見ると、難民認定者はあまりにも少なく、入管が特別に許可している滞在者があまりにも多い。また国外に退去すべき「外国人」の全件収容の方針がある一方で、いわゆる逃亡者も続出している。
 日本社会の許容度、という何らかの客観的な指標があるわけではない。治安の良い日本、というイメージに沿って法的に雁字搦めにしようとして、かえって逃亡者などの管理の外に出ていく人を増やすのでは意味がない。法改正案に入っている「監理措置」は、その点で「外国人」により近い支援者に管理を一部移管するという発想であって、その内容が誠実なものであればうまくいく可能性はある。
 しかし、こちらのページにあるように、現在の支援者の間ではこの監理措置の監理者になるかどうかについて、9割がなりたくない、と考えている。理由を想像すると、支援者にとってはそもそも収容されるような人々ではないし、収容に類する事柄に関わりたいとも思えないのではないか。これも、結局は現在の入管の組織としての態度と、収容についてのイメージがあまりにも悪いことが元々の原因ではないだろうか。そもそも、難民認定が認められることがあまりにも難しく、国外退去を要請される人々の大半が実際に退去していると言われている。それでも退去できない一部の人々を支援するのがこれらの支援者なのであって、ここには「彼らと私達」という深い溝が既にできてしまっているのである。

 あまりも長くなってしまった。結局、ここには日本社会のなかでの入管の態度・イメージについての、また支援者たちに対しての先鋭化されたイメージがある。それらは、それぞれに必要に迫られて動いていて、本来入管法等が果たすべき目標・目的から離れていく傾向にあるようだ。
 結局は政治的な問題である。だから政治家が話し合いながら、交渉と駆け引きのなかで最善の方策へと近づいていくのが大事である。
 ただ、私としては、移民や難民認定についてのポリシーはもっと寛容で問題ないと思っている。そして、それが何よりも重要である。日本には優しい人も多いし、外国の方々が入っていけるコミュニティも沢山ある。だから、入管法についての諸々の改善案などがあって、それが一部では実際に役に立つことがあるにしても、そもそも交渉のテーブルに、このポリシーの変更が乗っていることが条件であると考える。そうすることによって、私や私の友人、エスペラントで知り合った沢山の方々に、日本社会の寛容さを共有する方策が増えたことを報告できるなら、入管法を改正しても良いのではないかと思っている。
 したがって、現在の入管法改正案については、その中身についてはたしかに良い部分もあったとしても、政治的な場が不十分にしかなっていないという意味で賛成できず、態度としては否定よりの保留になる。

 
 


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