abc予想を生み出した数学者の動機とは何か
abc予想の内容についての解説は例えばここにあるように、ネットに溢れていますが、その一方で、「どうしてabc予想というものを数学者は考えるのか」という、いわゆるモチベーション=動機についての説明は殆ど見られないように思いました。そこで、それを解説してみようというのが今回の趣旨です。
※追記
NHKスペシャルがすごく分かりやすい解説をしていました。この記事を書いた後に見つけたけど、この番組のパクリと言われても仕方ないレベル。
abc予想のモチベーションを理解するためにまず理解しておくべきなのは、数学者には「足し算の世界と掛け算の世界があまりにも異なる」という認識があることです。
例えば17という数を考えてみます。
足し算の世界においては、
$$
\begin{align*}
17 &= 5 + 12 \\
17 &= 8 + 9 \\
17 &= 16 + 1 \\
\end{align*}
$$
のように、全く自由に2つの数に分解することが可能です。
一方で、掛け算の世界では
$$
\begin{align*}
17 &= 1 \times 17 \\
17 &= 17 \times 1 \\
\end{align*}
$$
という2通りにしか分解できません。
これは足し算の世界と掛け算の世界の大きな違いを表しています。
この「違い」をもっと理解するために、掛け算の世界で起きていることを少し詳しく見てみましょう。
上の17の分解について、2通りと言っても、これらは掛け算の順番を変えただけなので、本質的には1通りと言っていいでしょう。しかも、1✕▢という分解は17に限らず、どんな数に対しても行うことができる、いわば「アタリマエ」の分解方法です。17のように、アタリマエの分解しか出来ない数のことを素数といって、掛け算の世界では特別な地位を築いています。
特に整数論(数の性質を研究する数学の一分野)において、素数は、数学者が問題を解くために使う武器の中で、最も普遍的で強力なモノといっても過言ではないでしょう。
実際に、掛け算の世界で素数が持つ強力な力をお見せします。例えば、どんな数でも、素数の積にただ1通りに分解されます。
$$
208 = 2 \times 3 \times 5 \times 7
$$
この事実(素因数分解の一意性)を以て、素数は数の世界の原子であると言ったりします。
ちなみに、我々が現在知っている物理的な宇宙を構築する原子の種類は、周期表で示されている通り百数十種類(安定に存在できる数だけ考えればもっと少ない)ですが、数の世界の原子である素数は無限にあることが分かっています。しかもその証明は紀元前に既に知られていたというのですから、昔から素数がどれほど数学者の間で重要視されていたのかが分かるというものです。
科学者が物質を研究するためにまずそれを分解するように、ある数の性質について知りたければ、それを素数に分解=素因数分解するというのが常套手段です。しかし残念なことに、遠い過去から現在に渡る数学者達の不断の努力にも関わらず、現時点の人類の数学的なレベルでは、「どんな数でも高速に素因数分解する方法」は見つかっていません。
しかし、兎にも角にも、掛け算の世界においては素数が主役であり、素因数分解を利用して数の性質を明らかにする、という基本方針があるわけです。
次に、足し算の世界と掛け算の世界で、素因数分解がどんな性質を持つのか見てみましょう。すぐに分かることですが、2つの世界で、素因数分解事情が全く異なります。
そして実は、このことがabc予想のモチベーションを理解する上で一番大切なポイントになります。
まずは掛け算の世界から見てみましょう。
今、2つの既に素因数分解された数$${a,b}$$を適当に用意します:
$$
\begin{align*}
a &= 6 = 2 \times 3 \\
b &= 10 = 2 \times 5 \\
\end{align*}
$$
そして$${ab = c}$$という掛け算をした結果である$${c = 60}$$は次のように素因数分解されます:
$$
60 = 2 \times 2 \times 3 \times 5
$$
つまり、掛け算$${\bm{ab = c}}$$においては、$${\bm{a}}$$と$${\bm{b}}$$が持つ素因数は$${\bm{c}}$$に完全に引き継がれるのです。
さて、同じ$${a,b}$$で今度は足し算$${a + b = c}$$をしてみるとどうなるでしょうか?
$$
c = 16 = 2 \times 2 \times 2 \times 2
$$
Oh, NO!
どうやら足し算では$${a}$$と$${b}$$が持つ素因数は$${c}$$に引き継がれないようです。
この足し算の性質が、整数論の研究に大きな影を落としています。
素数は掛け算の世界においては、まさに快刀乱麻、非常に使い勝手の良い武器ですが、ひとたび足し算の世界に入るとナマクラに変わってしまうのです。事実、今見たように掛け算では綺麗に引き継がれていた素数の情報が、足し算ではぐちゃぐちゃに壊されてしまいます。$${a,b}$$を知って、$${c}$$を知るということが出来ません。
素数という武器が使えないとなると、これは数学者にとって、大問題なわけです。
実際、例えばゴールドバッハ予想
『5より大きな自然数は3つの素数の和として表すことができる』
他には、フェルマーの最終定理
『3以上の自然数数$${n}$$について、
$$
a^{n} + b^{n} = c^{n}
$$
を満たすような自然数の組$${(a,b,c)}$$は存在しない。』
といった整数論上の難問には、足し算が絡んでいます。(特に前者については2022年現在未解決。)
足し算というのは、掛け算と違って全く素因数の情報を引き継がない、非常に「素行の悪い」モノだと言えるでしょう。
……いや、本当でしょうか。というのは、掛け算と違って「完全に」素因数が引き継がれないだけで、足し算についても、何かしらの情報は引き継がれていないのでしょうか。それとも本当に、「親」である$${a,b}$$と「子供」である$${c}$$の間には、何の関連性も無いのでしょうか。
この疑問に対して一つの回答を与えるのが、まさにabc予想なのです。
ざっくりと言ってしまえば、abc予想は
足し算においても、素因数の情報は「ある程度」引き継がれている
と予想するものです。掛け算の世界のように完全ではなく、「ある程度」引き継がれるというのがミソです。ではどの程度なのか、というのが気になるところです。100%ではない、0%でもない。一体何パーセントなのか。
この「ある程度」を数学的に正確に表現するためには、少し準備が必要で、特に根基$${\operatorname{rad}}$$というややこしい数学的概念を導入する必要があります。
ただ、abc予想のモチベーションを説明するという意味では、ここまでで一定の成果を上げたと思うので、これ以上の詳細についてはまた次回ということにします。