暴力は伝染する
我ながら物騒なタイトルだ。
物騒な話をするから、物騒なタイトルにした。
公開からそこそこ経ったが、『ハロウィン』という映画の話をしたい。
ここで言う『ハロウィン』は2018年版の作品のことである。
!この記事には残酷な表現、個人的な意見が多く含まれます!
!少しでも嫌な予感がした方は読まずに引き返してください!
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『ハロウィン』は、もともとは1978年に公開された、殺人鬼ホラーだ。マイケル・マイヤーズという名の殺人鬼が、精神病棟から脱走し、ハロウィンの夜に人々を惨殺する。とても単純明快なスプラッタだ。
ハロウィンマスクをかぶり、作業用のつなぎを着た大男は、なんの感情も見せず、淡々と人を殺す。おそろしい怪力、不死身の肉体、動機のない殺人。そんなマイケルを、人々は恐怖から”ブギーマン”と呼んだ。日本でいうところの「おばけ」みたいなものだ。特定の形がない、恐怖の象徴そのものに対する呼び名を、彼につけたというわけだ。
唯一、女子高生のローリーは生き残るが、そこは主人公補正である。
(実はローリーはマイケルの妹なのだが、妹だから助けたわけではない。
むしろ肉親のローリーを執拗に狙うのが、マイケルの不気味なところだ)
2018年版の『ハロウィン』は、この生き残った女子高生ローリーと、再び精神病棟に収監されたマイケルの、40年後を描いた作品だ。
40年たったローリーはもう女子高生ではなく、ティーンエイジャーの孫を持つおばあちゃんだ。ただし、普通のおばあちゃんではない。マイケルに襲われたことをきっかけに、あらゆる銃を取り揃えて不死身の化物に対応できるよう家を改造した、スーパーおばあちゃんだ。
マイケルも、同じく40年経って、青年から老人へと変わっている。しかしその肉体は未だ衰えず、見るからに筋骨隆々といったたくましいジジイだ。
精神病棟では「殺人鬼の心理の研究」のためにマイケルはそれなりに丁重な扱いを受けていたが、親身に接する医師サルテインに対してマイケルは40年間、一言も話すことはなかった。
そんなマイケルが、ハロウィン前夜に病棟をうつることになる。ご丁寧なフラグだ。案の定、患者の輸送車は横転し、マイケルは自由の身となる。
かつて被っていたマスクを取り戻し、マイケル=ブギーマンは復活する。
そうしてハロウィンの夜、惨劇は再び起こる。
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ざっくりとしたあらすじはこんな感じだ。
要するに、かつて殺されかけた者(ローリー)と、殺そうとした者(マイケル)の40年ぶりの因縁の対決の話である。
この映画は、4月に上映がはじまり、わりとあっさり終わった。
(少なくとも、自分の印象では”あっさり”だった)
名探偵コナンは何ヶ月でも上映されるが、日本の映画館は海外ホラーをそこまで長くは取り扱わない。まあ、客入りを考えると仕方ないかもしれない。
私は残念ながら、原作の1978年版『ハロウィン』を見たことはない。
ただ、ショットガンババアVS不死身のジジイというSNSでの宣伝文句につられて見に行っただけである。
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結果としては、もう、最高に良かった。
見たかった殺人鬼ホラーはこれだ
、と帰り道で何度も何度も噛み締めた。
殺人鬼ホラーの代表といえば『13日の金曜日』のジェイソンや『エルム街の悪夢』のフレディが挙げられる。『悪魔のいけにえ』も入るだろう。
だが、私にとって最も好ましい殺人鬼はマイケル・マイヤーズ。彼だ。
彼は獲物も凶器も選ばない。完全なる無差別殺人鬼なのだ。
目の前に斧があったから、それを拾って頭をかち割る。入った家に包丁があったから、それを使って家主を刺す。武器は基本、使い捨てだ。そのへんで拾って、使って、また拾う。素手で殺すこともある。
登場人物のひとりが、顎を怪力で砕かれるシーンはトラウマ必須だ。
マイケルにおびえてトイレに隠れた人物に対し、彼は拳をほどいて何かを手のひらから落としてみせる。ぱらぱらと床に散らばるのは人間の歯だ。トイレの扉の隙間ごしにそれを見て、失禁しないでいられるだろうか?
こんなにも残虐な行いが続くのに、そこにはなんの感情も読み取れない。快楽を覚えている様子は全くないし、何かの罪やトラウマに苦しんで行っているようにも見えない。
かつて殺しそこねた存在であるローリー、そしてその娘や孫を殺すためだけに、マイケルは動く。その過程で殺される人間はただの巻き添えだ。通るのに邪魔だったから。たまたま入った家にいたから。なんという悲劇。
彼がローリーたちを執拗に狙う理由は視聴者にはわからない。少なくとも、映画内ではきちんとは説明されない。因縁としか言いようがない。
さて、数多の人間を巻き添えにしつつ、マイケルはついにローリーのもとへたどり着く。英才教育を施された娘のカレン、そして普通に育った孫娘のアリソンを守るため、ショットガンを構えてローリーはマイケルを迎え撃つ。
しかしマイケルの肉体は強靭で、ローリーはいかに鍛えていても女性だ。力の差は歴然、近距離で戦えばローリーに勝ち目はなく、もみあった末に彼女はむなしく窓から落ちる(生存フラグ)。
カレンは英才教育を受けたはいいが、いざ殺人鬼に襲われるとなるとそんなに冷静ではいられない。恐怖で叫び、悲鳴をあげ、それでも娘のアリソンを守ろうと必死になる。
最終的には、窓から落ちたはずのローリーが助けに入り、カレンは「こんなことできっこない!」とパニックに陥ったと見せかけ、マイケルが十分に近づいたところで突然冷静になり「Gotcha(捕まえた)」というセリフと共に撃つ。策士である。
かくして、ローリー、カレン、アリソンはマイケルを地下に閉じ込め、火を放ち、逃げ去ることに成功する。だが不穏なのは、マイケルの死体の描写がないことだ。彼は本当に焼け死んだのか?それは謎のままだ。
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さて、2018年版『ハロウィン』の物語はこんな具合だ。
私は”最も好ましい殺人鬼はマイケル・マイヤーズ”と先ほど書いた。
ちなみに、殺されたいわけではないし、憧れているわけでもない。
ただ、マイケル・マイヤーズという存在の完璧さと、彼を主軸とした『ハロウィン』という映画の偉大さに感銘を受けるのだ。
私はスプラッタ、バイオレンス系の映画が大好きだ。
これらは、フィクションだからこそ楽しめるという面がある。
しかし、『ハロウィン』に限っては、フィクションでありながら、なにかゾッとさせるものがあり、それでいて妙に惹かれてしまうのだ。
マイケルはハロウィンマスクを被ることで、顔を隠している。
彼の顔は、フレディのようにケロイド状になっているわけでもなく、醜い容貌をしているわけでもない。むしろ整った顔立ちと思われる。なぜ「思われる」なのかというと、彼の顔はまともには映されないからだ。
彼の顔は輪郭や、かろうじて斜め後ろから見える程度のもので、そこには匿名性が宿る。さらにマスクをかぶることで、彼は完全なモンスターになる。
そして彼は、一言も喋らない。殴られてもうめき声ひとつあげず、問いかけには一切応じることはない。マスクのせいで表情も見えない(そもそも、素顔のときも表情を動かしている様子が感じられない)。
ブギーマンというあだ名は、マイケル・マイヤーズにぴったりだ。
形のない、恐怖の象徴。人の姿をしていても、何を考えているのかは一切わからない。彼は恐怖そのもの、殺人鬼という概念とすら言えよう。
殺人の道具や方法にこだわらないところも、恐ろしい。
フレディは鋭い鉤爪、ジェイソンは鉈(なた)と、殺人鬼は往々にして特徴的な武器を持っている。しかしマイケルは、そのへんのものを使って人を殺す。キッチンに置かれた包丁は、いとも簡単に人の命を奪う。私にも、誰にでも、やればできてしまうかもしれない。そういう恐怖がある。
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マイケル・マイヤーズは恐怖そのもので、殺人鬼という概念だ。
そんな恐怖に立ち向かうにはどうすればいいか?
2018年版の『ハロウィン』で、ローリーが答えを提示してくれている。
自分自身が、相手と同じモンスターになることだ。
言葉も心も届かない相手には、力で対抗するしかない。
だからこそローリーはショットガンを手に取り、ためらいなくマイケルを撃つ。娘のカレンも同じく、銃でマイケルを撃退する。
「彼女たちはモンスターを倒すべく武器をとっているだけだ」「だから彼女たちをモンスターと呼ぶのは間違いだ」という意見もあるだろう。
確かに、彼女たちは単純に身を守るために動いているだけだ。無差別に人を殺したりしているわけではない。マイケルとは違う。
しかし、私が最も注目したいのは、孫娘のアリソンだ。
彼女はローリーやカレンと違い、全く戦いについての知識を持っていない。普通の家庭で、普通に育てられた、普通の女の子だ。
そんな彼女は、当然マイケルからはひたすら逃げ回り続ける。怯え、泣き、震え、母の背中に隠れる。それが普通だ。
だが、彼女はラストで、家族を救うために包丁を手にとり、マイケルの手を思い切り刺す。それがとどめとなり、マイケルは地下室へ閉じ込められる。
フラフラになりながらも逃げる3人は、助けに来た車で一息つく。
もうマイケルは追ってこない。少なくとも、今すぐには。助かったのだ。
しかし、アリソンの手には血まみれの包丁が握られたまま。
その包丁を意味深にアップで見せてから『ハロウィン』は終わる。
彼女は、なぜ包丁を捨て去らないのか?
安全な場所に逃げてなお、なぜその手には凶器が握られているのか?
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暴力は伝染する。
2018年版『ハロウィン』を見て、そう思った。
ローリーは40年前にマイケルによって恐ろしい目に合わされ、結果として武器を手にするようになった。これがまず、はじめの伝染だ。そして彼女は娘にもそれを強要した。
ただ、娘のカレンはそれに疑問をいだき、その伝染を彼女自身の代で止めた。アリソンは普通の子として育てられた。にも関わらず、彼女は最後、包丁を握りしめて終わっている。マイケルという怪物に出会ってしまったからだ。娘の代で終わるはずだった運命は、結局孫娘へ受け継がれた。
アリソンが次のブギーマンになる、だとか、そういう話ではない。
そういう話ではないが、彼女はもう、紛れもなく「暴力を振るう側」の人間になったのだ。より正しく言うなら「振るえる側」だろうか。もう彼女は、子羊ではない。モンスターとまでは言えずとも。
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ブギーマンは、実体が決まっていないからこそブギーマンだ。
『ハロウィン』においては”マイケル・マイヤーズ”という名前を持ってはいるが、我々が彼の顔を見ること、声を聞くことはない。少なくとも2018年版では。
どこにでもある凶器で、どこにでもいる人を、なんの理由もなく(もしかしたら彼なりの理屈はあるかもしれないが)殺す。そこに感情や背景はない。だからこそ恐ろしい。実体がないということは、裏を返せば「誰でもそれになり得る」と言えるのではないか?
もしかしたら、『ハロウィン』を見た私も、伝染しているのかもしれない。
晩飯を作ろうと包丁を手に取るたび、少しヒヤリとしたものを感じる。
とてつもなく恐ろしく、とてつもなく完璧な殺人鬼”ブギーマン”を生み出した、ジョン・カーペンター監督に捧ぐ。泥水でした。