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#11 【アメリカ生活】 日本に家族を残してくるということ

つい先日、夫が神妙そうな顔で話しかけてきた。

「あのさ、話しておかないといけないことがあって・・」

次のその言葉は、私の中の想定を超えていた、最悪のものであった。

・・・


・・・

 ■ 突然の知らせ

ここ2日のあいだ、noteの投稿を小休憩していた。

書こうとはしていた。別のテーマでいくつか文章を綴ろうともした。
でも、どうしても身が入らなかった。


その日、私は夫の職場に荷物を届けるために何往復か車出しをしていた。

夫は至って普通だった。

いつものように冗談を言っては笑い、「いけね、あと10分後からミーティングだ」なんて言いながら、慌ただしく仕事の準備をしている。その様子は、どこを切り取っても普段と変わらない。

しかし、だ。

仕事が終わり、あとは帰るだけ――そう思っていた、車のエンジンをかけて、アクセルを踏もうとしたその時だった。

「あのさ、話しておかないといけないことがあって・・」

夫がそう言った。

「・・何?」
聞くのが怖かった。
夫がワンクッション前置きをするときは、決まってネガティブな知らせのときだからだ。

「おかんにね、胃がんが見つかったんだ。それも普通の胃がんならまだ良かったんだけれども、タチの悪いやつだったんだ。」

その瞬間、頭の中が真っ白になった。


 ■ 受け入れ難い現実

恐らく、医療従事者であればこの夫の言葉を聞いて状況が理解できるのではないか。

昨今、これほどに医療技術が進歩していることは言うまでもない。

がんの早期発見や治療成績は向上していて、過度に恐れる必要はない。

そんな言葉を、誰もが一度は耳にしたことがあるだろう。

だが、胃がん、しかもタチの悪いものであるとその深刻さは一変する。
見つかった時にはすでに進行していて、その後も早いものだとされている。


考えたくない。どうしても、受け入れられない。

「・・誤診じゃないの?」

何度もそう思った。何度も何度も、そうであってほしいと、心から思った。


夫は医師だ。専門は違うが、今、この状況を一人の医者として冷静に受け止めているように見える。
感情を外に出そうとはせず、むしろその冷静さを保とうとしている。

その気持ちは、私にもとてもよくわかる。
もし私が同じ立場であれば、おそらく同じように振る舞うだろう。
まずは冷静になり、最善の策を見つけるために、一歩一歩確実に進んでいかなければ、と思うであろう。

感情を優先させると、冷静になれずなにか大切な機会を逃すことになってしまうかもしれない。
それをわかっているからこそ、夫の姿勢にも共感する。


けれども、実際の私は違った。

泣きたかった。受け入れたくなかった。
心の中で、何度もその現実を拒絶している。
でも、夫を飛び越えて、私が泣いていたらダメなんだ。

夫は、このnoteのことを知らない。

今、こうして文章を綴っている最中にも、泣いてはいけないと思いながら、目の奥に涙が滲み出てくる。


 ■ 義母と私

義母は一人で暮らしている。
つい先日のできごとなので、まだ今後の治療方針の目処は立っていない。

この知らせを受け取る前は、春に一時帰国をしようと丁度その準備を進めているところであった。

海外に住むということは、ある程度こういったことも織り込み済みであるはずだが、それでも義母はまだ若く、これまで健康体であった。
あまりに急な話だ。

一人で不安な日々を過ごしているのかと思うと、心がギュッと締め付けられるように痛くなる。


今の時代にふさわしくないかもしれないが、夫は医師家系であり、私のところはサラリーマン家系という背景から、もともと結婚前、私は義母にあまり良くは思われていなかった。

それでも一緒に旅行に行ったり、頻繁に連絡を取るようになったり、人生の先輩として色々と相談もさせてもらうような関係になった。

「頑張ったね、本当にありがとう。」

息子を出産したときの義母の言葉が今でも忘れられない。

結婚後、すぐアメリカへ引っ越し、これまたすぐに息子を出産。
あまりのスピード感であったため、まだ義母と家族としての関係はスタートしたばかりだった。

義母は、息子をアメリカで出産したあと、一週間の仕事の休みを取って育児の手伝いに来てくれた。
アメリカで初めての育児、右も左もわからず心細い思いをしている私にとって、義母と過ごした1週間はかけがえのない時間であった。
わずかしかない新生児の息子と過ごす時間を、義母と共有できたことがとても嬉しかった。


私は、嘘偽りなく素直な気持ちを義母へメッセージした。
とても悲しく、心を痛めているということ。自分にできることがあれば、何だってするということ。
必ず治ると信じて、毎日お祈りしていますということ。


 ■ 自分にできることを考える

何もできない自分に嫌悪をただただ感じた二日間だった。

ネットで病気のことを調べては、不安になる。
夫には気の利いたセリフも言えない。

夫は表に出さないが、私よりもはるかにショックを受けているはずだ。
夫が悲しむ顔を見ることも心が痛むが、夫が我慢をしていると考えてみても悲しさが溢れてくる。

受け止められない→現実に戻る→やっぱり受け止められない→・・・
をずっと自分の中で繰り返していた。

しかし、そこに何も進歩がないことに気づいた。
ただただ、時間を無駄に消費しているだけだ。
当たり前だ。
何もできない自分に嫌悪感が溢れる、そこで終わらせていてはその先に進めない。


本当はこうやってnoteを書くことも、匿名でありながらもなんだか良くないことのような気がしていた。
悲しみを外に漏らすことは、我慢ができない人のすることであり、感情を表に出すことは、弱さのように感じていた。

しかし、実際に文章に書き出してみることで、何もできない自分の存在がただそこにあるという現実を、俯瞰して見ることができた。

現に、義母は病気に打ち勝とうとしている。
これから季節ごとの行事だって、家族のお祝い事だって、旅行だって、まだまだ一緒にやりたいことがたくさんある。
息子の成長を、一緒に見て喜びを共有したい。

義母の絶対に治すというその意志を、全力でサポートしたい。


 ■ 未来があるということ

未来があることほど、私たちに希望責任を与えることはない。
未来は今の瞬間の積み重ねであるから、今を大切に生きること。
一瞬一瞬が尊いものだと、改めて思い知らされる。
そしてその”今”の延長線上にさまざまな可能性が広がっている。

期待だけではなく、今回のような”不安”もまた、未来へ向けて現在の行動を促す動機となると感じた。

悩むことこそが、原動力そのものだ。

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