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ぜんぜぜんの卒研 社会実践デザインラボ合同ゼミを経て

こんにちは、こんばんは、おはようございます。
ぜんぜぜんです。

2024年7月16日に福田ゼミと横溝ゼミ合同で卒業研究について議論を交わしたので、少しまとめようと思います。

「自分で思ったこと」

まず初めに、表現の媒体を定めていなかったなと思った。今まではデジタルアナログどちらもで表現をしていたが、卒業研究では「アナログ」で進めようと思う。
アナログの良い点として
・書き直すことができないので、素直な自分から出た模様になる
・人とその場で関わりながらの活動ができる
・三次元でも表現できる

というものがある。模様表現は完成図を定めて行うものではなく、失敗というものが基本的にないため、書き直す必要はない。自分の思ったように書けなくても路線をどんどん変更していくことで面白い新しい作品ができるのである。そして別に平面に表現しなくてもいいので立体物に描くのも面白そうだなと思う。

僕はアナログで描いたほとんどの作品はピグマで描いている。ベタ塗りのところはたまに筆ペンも使用する。裏移りしないかつ塗りむらが出にくいというのが理由である。今後はキースヘリングみたいな絵を描くときに使えるペン先が円柱になっているようなものも使ってみたい。

そして今後どうしようかと思っているのが「色」である。自身としてはモノクロで進めていきたい。色を加えると目立つ色に焦点があたり、模様内に差が生まれてしまう可能性がある。伝えたいものを明確に表現するという技法ではないので、色は排除しても良いと思っている。

「議論を交わして」

・中学で模様を描く授業があった、絵がかけなくてもみんなできてた、いろんな人が挑戦できるものであると思う。
・ぱっと見で完成しすぎてると、鑑賞の対象になってしまい、自分もできると思いにくいかも

このような意見があり、確かに小中学校での図工や美術でも模様を書いてみるという授業があったことを思い出した。しかし、完成しすぎた作品を提示すると鑑賞の対象になってしまい、自分ごととして見れなくなるかもしれないので、WSを開くとしたら、さ自分でもできそうと思わせられるような形式にする。
初めから簡単な図柄を複数用意しておき、組み合わせるだけでできるようにするなどがいいかもしれない。

・アイヌでオリジナルの模様を作った。四つ折りにした紙に模様描いて、切って開くと無意識の模様ができる。

無意識という単語の意味に違いがあると思った。自分の中にある無意識(無自覚)な表現と、自分の手を離れ、違う作用によってできた無意識の表現は別物だと思う。スパッタリングなどはよりオートマスティム的であるが、自分な中にある無意識から生まれる直観ではなく、自然の原理などから生まれているので、その人の展開方法とは異なる背景を持たない作品になってしまうと考える。
今回はその人に背景を持った、自身の無意識な部分の表現についての模様なので自分の手で描いて完成させるものに限ろうかなと考えている。

・ゼンタングルはパターン化する、その人っぽさがでる

確かにそうかもしれない。自身の作品にも自分らしさというものがあり、どの作品にも入っている図柄が存在する。パターンかするのがいいことか悪いことかでは、いいことかもとは思っている。その人らしさがその人の表現の背景につながるからである。僕の場合は図1のような模様が様々な形に変化はしているが多用されている。これは「地図みたい」と言われ、僕自身の地図好きな面が滲み出ている結果に思える。その人らしさから、模様を生み出すにあたった直観の背景が見られるかもしれないので調査したい。

図1

・シュルレアリスムの歴史をもっと調べ、どのあたり時代の思考が今の研究に近いのかを調査する。シュルレアリスムでは限界があったから終わりを迎えた、なぜ現代になってそれをやるのかを言語化したらいい。

まだシュルレアリスムやオートマスティムについて文献調査などが詳しくできていないので進めようと思う。ジョアン・ミロの表現に通ずるところがあると思うが、なぜ、シュルレアリスムの中でも変わった部類に通じるのか、それが人の関わりを深める可能性がある理由などもしっかりと考えていく。

・余白もデザイン。だけどこの表現では余白を考えずに模様を充填している。余白を無視して充填させる作品は珍しいと思う、充填させることから得られる発見なども見ていったらいいのでは。

あまり気にしたことがなかったが、確かに「埋める」という表現になっていた。足助町の作品(図2)も足助という文字の中を隙間なく埋めている。余白を作る理由としては伝えたい、見せたいものを焦点化させるためである。だが僕の作品は意味を持つ存在を見せたいのではなく、いい意味で見えにくくさせて発見してもらう、全体で一つの模様にするために、一律な表現にしている。なので色をつけないという理由と同じように余白もなくしているのだと思う。
余白をなくした、充填の作品。複雑な世界から伝えたいものを焦点化させる作品ではなく、複雑な世界を複雑なまま表現している模様は他にはない発見が生まれそうである。


図2

・誰もができる表現ということを言っていたが、誰もができるものとして確立させたいのか。また、自分の作品や技法をより深めてアートとして研究したいのか。

今の考えとしてはどちらでもない。
誰もができる可能性を持つ表現として、色々な人の認識や表現を見てみたいと思っている。いろんな人に表現してもらうのは、誰もができると思うような伝え方やWSの運営をしなければいけないと思う。誰もができるものとして確立したのではなく、可能性の一つとして使っていきたいという考えである。
自分のアート作品を作りたいわけでもない。元々作品を作りたい欲はとても少なく、なんとなくやろうと思った時にやる程度である。なので技術を磨いてより良い作品を作りたいという気持ちは本当にない。僕が気になるのはこの模様表現というものの可能性はどれだけあるのか、そしてその可能性はどのように活かせるのか、という点である。自分の作品集を作って研究とはしたくない。人との関わりを持つ活動の場で模様表現を活かせたら面白いなと思っている。

「着地点はどうするか」

着地点はまだ定まっていない。
今後の予定
・シュルレアリスム、オートマスティムについてより深く調査
 →自身の表現との比較や現代で活用する意味を考える
・自身でも表現活動を重ね、展開プロセスの明確化と表現の幅について調査する。
 →WS開くための準備にもなり、着地点での活動にもつながる
・他者における模様表現への認識や展開方法などを調査し、模様表現が持つ可能性を他者を交えて省察する。
 →学祭でWSを開こうと考えており、デザイン学部以外の人にも模様表現について触れてもらい調査をしたい。

予定としてはこのようになっている。これらでは、模様表現の位置付けと意味付け、他者も交えて模様表現の持つ可能性を見出すところまでできる。そして見出された可能性から最も現実的で効果的な方向に進んでいきたいと考えている。

現時点でも
足助町の作品のように、その土地を模様で表現する活動をして、人との交流や地域に根差した作品を制作できそう。
森町の廃材を用いた作品(図3)のように、廃材などの価値がないものに模様を描くことで価値を持たせたり、それを用いて人と交流ができそう。
大勢で模様を描き、大きな共同作品を作る。そのような活動では通常の会話だけの交流とは違う何かが得られそう。
などできそうなことはある。
しかし、方向性を決めてしまうのではなく、まだ出てきていない模様表現の可能性を知ってから、その可能性をより発揮できる活動にしたいと思っている。

図3

なのでまずは9月21,22日の学祭までに調査と準備を進めていこうと思う。

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