才論

凡才秀才鬼才天才神才。
色々言われるが。

まず個性って何?がある。
個性は幾ら真似をしても出てしまうもの。
個性は出そうではなく出てしまうのが個性。
だから癖も個性だが。
癖は習慣なので習慣を変えれば直る。
個性はその者がその者としてある事そのものである事に拠る。
その者そのものが変われば個性も変わるが、その者がその者としてある事としてが個性。

まーだから逆に完全にコピーして真似る事が出来るのであれば、それはそれで才だけどね。
もしそれが表層だけではなく深くまた微細なものまでであるのであれば。
ある種の憑依能力とも言えるかも。
これはこれで。

で、凡才はそういう意味で個性ダダ漏れ。
え、個性的って言われない?というのは書いた様に既存のものをやっても出てしまうのが個性だから。
既存に個性が乗るだけ。
既存の軸に個性をベタベタ乗っければ個性的であると思うのが凡。
でも本当の個性というのは、既存をやり尽くさないと分からない。
個性のつもりが既存の下手な真似事というのはよくある話。
そういう意味でも、既存を沢山取り込むのはやった方が良い。
そううすると本当の個性が見えて来るから。
そのやり尽くす、が出来るのは秀才。
でもやり尽くすには処理能力も必要だから。
だからやり尽くすまでも行かない、中々。
天才はその既存をやり尽くし、それでも埋めきれないものを見出し、それを軸に取り込んだ既存を再構築出来る。
だから新しい機軸を打ち出す事が出来る。

でも最初から凄いのいるよね?
というのは異様に処理能力が高いか既存素材を余り取り込まずに個性を軸に構成してるかのどちらか。
処理能力高い系はハイスペマシンの様にサクサク進むのでそう見える。
後者は鬼才。
鬼才は基本同じバリエーションの使い回し。
引き出しは1つだけどそれが深い系。

でも処理能力高い系でも全てを取り込む事は無理なので、囲碁とかの読みの様に読み筋を絞る。
この絞る力が筋を捉える力。
天才を超えた筋を捉える力が天才を超えた神才。
神才は全てに通じる筋道を捉える。
故に一般的には万能の天才系に見える。

オーラで見ると才能は黄色。
天才と言われる者って、顔中黄色のオーラが出てる。
サッカーだとマラドーナとか。
将棋だと顔中黄色は羽生善治・藤井聡太・加藤一二三。
他の歴史的にも著名な将棋指しのオーラも見たが顔中黄色はこの3人だった。
勿論顔のどこかに黄色が出てるというのはある。
東大京大生のネットに落ちてる写真見ると、8割ぐらいは顔のどこかに黄色が出てる。

で、この黄色って本当は受けるオーラなのだよね。
つまり才能は一般的には受ける力。
既存のものを取り込む力でもある事が分かる。

額に黄色のオーラが出ていれば、だから思考力が高い。
でもそれとは別に白のオーラが額に出ているのもある。
これは才知というよりも聡明なオーラ。
天才的頭脳というのと、思考がフラットで賢人として考える事が出来る力は違う。
それは才能というよりも賢い・聡い者。

黄色の才能オーラは出る部位に拠ってその才は違う。
ざっくりだと。
額に出ているのは頭脳。
目の周りに出るのは見る目が。
頬に出ると咀嚼力。
顎に出ると後天的努力で身に付いた才能。
そして書いた様にその全てが出てると顔中黄色の才能の塊に。

因みに作家の才だと目の前に黄色のモヤの様に出る。
言語学者だとこれがくっきりサングラスの様に。
言語的能力は目らしい。

神社から出る基本オーラは白と黄。
白は通す力。
黄は受ける力。
神社に通るとその両方が受けられる。
そして参拝後はそれを受けて参拝した者のオーラが良い方に増す事が多い。
特に子供はよりそれを通してもらえるので、子供は良い神社によく行く事推奨。

白隠が仏教の経文を読むのに下根中根上根の読み方を話してる。
下根の者は経文を只読み読経し書いている内容をそのままに。
中根の者は自身の心と照らして見る。
上根の者は経文を透過してその本当の理そのものを捉える。

これを才に置き換えると。
下根の者は只既存のものを知識などとして取り込むだけの者。
中根の者はその得たものを理解し利用する事が出来る者。
上根の者はその背理そのものまで見通す事が出来る者。

この背理を透過して見る事がポイント。
ニュートンが林檎が落ちるのを見て、万有引力の法則を見て取った様に。
現れているものから、その現れとしてある事の理をこそ捉える。
禅問答が一般的には難解で意味不明に見えるのは、透過しての視点が書いてあるから。
だから透過してその様になる背理の視点を捉えるとストンと書いている事も分かる。
そして公案をひたすら持ち続ける。
そうするとある日ストンと透過して分かる。
脳認知領域思考によって分かるのではない。
非認知領域から認知領域を捉える様に分かる。

仏教では認知領域は第六識意識まで。
第七識末那識執識
第八識阿頼耶識蔵識
第九識阿摩羅識浄識
という非認知領域まである。
密教では第十識まで立てたりするけど、これは私的には識いうよりも神性の筋道の捉えへの入り口なので。

西洋的アプローチは認知領域から非認知領域を覗きこむ。
東洋的アプローチは非認知領域そのものに入って認知領域との出入りを見てる感じ。
非認知領域の入りによってそのレベルもある。
仏道的悟りだと第九識阿摩羅識浄識まで入る。
これは普遍の捉えの世界。
だから仏教では普賢の領域と言う。
普賢大菩薩の捉えを以て、仏道的悟りとする。

この非認知領域と認知領域の出入りは誰でも普段からしている。
だから思い出したり忘れたり。
PCのデスクトップ画面に似ている。
見えている領域はモニターに映るデスクトップ画面だけど、そこに見えない所で動いているのがパソコン本体。
デスクトップ画面はそこにアプローチする為のUIでしかない。
人間の意識の認知領域もそんな感じに捉えると分かり良いかも。
勿論UIは大事だし、それによって使い勝手も全く変わる。
でもそれは本体ではない。
本体はその裏で見えない所で働いている領域。

才とはその領域と認知領域意識との出入りとの関係でどこまで繋がってどの様に出入りしているか。
そしてより奥の階梯に入ろうと思うと、その時の領域でを全てやりきる。
そうすると、その領域では解ききれない所が出てくる。
そこがより奥の領域に入るカギとなる所。
禅で公案を持ち続けるのもその為に。
それが満ちた先に尚進む所に透過がある。

インスピレーションはどこから来るのかと言われたりするけど。
それは非認知領域から来る。
そしてその非認知領域にも階梯がある。
そして更にそれを超えての世界の筋道道理の神性レベルがある。
そして神性、というか世界そのものに通る筋道にもより奥へがある。
それが人間のそれぞれまで通じてある。
それがどの様に通ってあるか。

私は天才ですか?
と問われても天才ではない。
天才であるにはその通りのインスピレーションを以て実際に構築して行く力がいる。
どの様な閃きも実際に具象化できないとそれは才とは成り得ない。
その為にはあるものを取り込む力が必要。
だから才はオーラでは受ける黄なのだろう。
神懸かりのオーラは青。
私は普段はオーラが出てないオーラコントロール系だけど、思考する時は額が青く。
神的思考で考えているオーラ。

時々目の上がアイシャドウの様に青いオーラが出ている者がいる。
神がかった視点で見る力があるという事だろう。
女性が化粧で青いアイシャドウするのはそういった事の名残の現れかもしれない。

つう事で神視点で思考して見れても、それは天才としてとは。
まあでも一般とは違った視点では見て思考として構築はしている。
まあ一般社会ではそれは紙一重系かな笑。

なので、神がかりがあった上でそれを実際の形に構築出来るなら、それは本当の意味で凄い天才として捉えられるかも。
でも同時代に理解を得られるかはわからんが。
先に行き過ぎた才は同時代からは理解されないのもある話。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?