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忘れられないみきが もいちど流行る

数年前インドネシアYouTuber・Rainych(レイニッチ)という人が、なぜか松原みきの40年前の流行歌『真夜中のドア』をカバーし、リバイバルで話題になったのだとか。

なぜインドネシアの歌手が?
なぜ今頃に松原みき?
ああ、この人は日本の流行歌をたくさんカバーしている人なのか。
懐かしいやら40年前よりコンプ効いてるやら「最近の人はケロっても気にならないんだな」と首かしげるやら隙間なくビッチリ音埋めてるやら...といろいろ思いながら。
40年前に本当にごくごく一部の人が聞き込んだ松原みきのことを、忘備かねがね少し書き留めておこう。


当時のオリジナルより高音が持ち上がり気味ながら、現在聞けるこの動画が松原みきVer.として聞き易い。

耳の肥えた人ならお気づきと思うが、1/8音ほどボーカル音程が高い。いわゆる「声がずっと上擦っている」。
当時の制作関係者(作曲編曲は林哲司)も気づいていただろうが録り直すこともなく、当然ながらマルチトラック磁気テープ録音のこの時代にデジタル・ピッチシフターなどもなく、そのままプレスされている。

結果的に『真夜中のドア〜Stay With Me』はデビュー曲にして松原みきの最多セールスとなり、長く「最高傑作」呼ばわりされる曲になる。
個人的には1ヶ月後にシングルカットの『愛はエネルギー』、1年後発売の『ニートな午後3時』らのほうが上擦った声も落ち着き、編曲もこなれ楽曲品質が高いように思うがなぁ。

『愛はエネルギー』『ニートな午後3時』はいずれも当時大流行のヒットセールス手法「大企業キャンペーンとのタイアップ」。
『愛はエネルギー』は西友、『ニートな午後3時』は資生堂のCM用。「爽やかな路線CMサウンドってこんな感じだったね」時代を彷彿させる。


松原みきはデビュー時から「ジャジー」をセールス文句に謳うシンガーだったが、時代はフュージョン歌謡全盛。スタンダードジャズの香りなど微塵もない「西海岸Room 335の呪い」にガッツリ縛られている。
レコード会社の意向か「自称ジャジーそのじつフュージョン歌謡路線」はその後も続き、セールスに陰りが見えだした2年後にはその名も『Jazzy Night』と題したジャズ風味皆無のベタベタ80's歌謡曲も発売する。

同じくベタベタ歌謡旋律ながら「ただの歌謡曲にはしねえぞ」と制作スタッフの反骨アレンジが光る『10カラット・ラブ』も今聴くと趣深い編曲だ。

「自称ジャジーそのじつフュージョン歌謡路線」にもやがてテコ入れが入る。
この時代のシンガーが誰しも受けた通過儀礼「ピコピコシンセ・テクノ歌謡路線」へ方向転換し『Paradise Beach(ソフィーのテーマ)』をシングルカット、日立マクセルのタイアップまでつけての発売をするも、デビュー時ほど奮わない。

松原みき自身が作詞を手掛け始めていたこともあり、その後2~3年に1枚ほどのペースでアルバム制作、デビュー時のジャジーの謳いどおりスタンダード・ジャズ・アルバム『BLUE EYES』などもリリースしながら、1988年アルバム『WiNK』を最後にフロントシンガーとしての活動を停止、制作スタッフ側へ回る。
時はバブル崩壊直前、日本じゅうが調子こきまくり最高潮の頃。
テレビ番組主導の歌謡曲は邁進し、テレビ放送局が我が世の春を満喫謳歌の時代。その後30年も不況が続き、テレビ放送メディアが凋落を辿るとも露知らず。


80年代の羽振り良く浮かれきる数年を駆け抜けたひとりの歌姫・松原みきは2004年に逝去。
享年44歳の若さだった。

ネット黎明期に訃報に触れ、当時を知るごくごく一部の者だけが、広いおでこと2本出る前歯の愛くるしい、背伸びし大人びた歌を歌っていた往年の歌姫の逝去をひっそりと悼んだんだ。
久し振りにカセットテープやCDやLPを引っ張り出し、悲しげな面持ちで。

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