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(オランダ生活)日本が好きなのに帰りたくない、ただひとつの理由

(沖名ギス)

おひさしぶりです・・・!

交換日記、そういえばあったねえという話になり、なんとなく書いてみようという気分になりました。

ふだんのくらしで、
「ん?」と考えさせられる場面には、
山ほど遭遇するのだけれど、
それを見つめて、整理して、格納して・・・
という作業を面倒がっているうちに
砂の城のごとく跡形もなく消えてしまう。

30歳をすぎてしばらく経ちました。
だんだん短期記憶が衰えてきて、
あたらしくした電話番号を
3ヶ月たった今も覚えられないくらいだから、
気づいたときにメモしておかなければ、
考えさせられた事実そのものさえもなかったことになる。
そんなことを繰り返しているこのごろです。

小学生のころ、体育の準備体操で中年のおばちゃん先生が肩甲骨を伸ばしながら
「あー、いてててて」
と絶叫するすがたを横目に
「えー、まったく痛くないじゃん。なんでそんなに痛いの?」
と冷めた驚きを感じたのをいまだに覚えているのですが、人間、30を超えると当たり前に肩甲骨も痛いし、ものもすぐ忘れるし、そういうふうにできているのですね。

こうやって人は、より多くの人の感情を理解できるようになっていくのかね。

閑話休題。。。

考えさせられる場面というのは、「気づきの場面」と言い換えてもいいかもしれません。
気づきの場面に立ち会ったときに、僕がいつも抱くのは、お腹の辺りの違和感です。
ぼんやりとした感覚で、脳みそで言葉という目にみえる形に処理される前の状態です。

そうした感覚は、これまで自分がなんとなくよりどころにしてきたものとは、異なる考え方に触れた時に生じることが多いのです。

そこで、お腹の違和感を、脊髄を通して脳みそに意識的に送ってやります。
すると、脳みその中に常駐しているカウンセラーがお腹の住人に対して
「あなたが感じている感覚は、”悲しみ”ですか?」
と問診をスタートするのです。

「それは悲しみか?」という問診に対して、お腹の反応にじっと耳を澄ませると
「いや、悲しみという言葉じゃないような気がする。合っているような気もするけど違うような気もする」
ということになり、
「じゃあ”悲哀”だとどう?」
と聞き返す。
お腹の「直感」と脳みその「客観」を行き来しているうちに
「半笑いの諦め」
というフレーズに辿り着き、そこでようやくお腹がスッキリする・・・
みたいな体験が幾度かあり、それで僕はときどきそういう「セルフかかりつけ医」をノートとペンでやることにしています。

ちなみに、ここでいう違和感には、ネガティブなものだけでなくポジティブなものも含まれると考えてください。
フィルターバブル、タコつぼ、村社会、半径5メートル、言い方はなんでも良いのですが、そうした慣れ親しんだゾーンの外側の空気を吸った時に、自分の身体と脳みそに起きる反応を「気づき」とか「違和感」という言葉で表現しています。

世の中は、大きなものから小さなものまで、そうした気づきで満ちあふれています。
それが対人であろうと対モノであろうと、気づきは自分の内部で覚知されるものなので、世界共通の基準があるわけではなく、自分だけのものであり、また対象物を問いません。

AさんとBさんが、同じ場所で同時に地震を体験したとして、地震に慣れているAさんが
「思ったより小さかった」
と評価して終了するのに対して、たまたま外国から日本を訪れていたBさんが
「死を意識して地面にひれ伏して泣き叫びたくなった」
という反応を示すことは、なんら矛盾しません。
なぜなら、気づきはきわめて個人に属する内面的な作業だからです。

僕は1年半前から外国ぐらしをスタートしたのですが、ふだんのくらしで、こういう認知の違いが頻発するのです。
そのたびに違和感を抱くので、とてもカロリーを消費する生活を送っています。
だけどそれを放置せずに、きちんと回収して言葉という容器に保管しておくことはきっと自分にとって必要なことだろうと思うのです。

この生活を、僕は案外・・・というか、とても気に入っています。
まるで毎日が理科の実験のようだからです。
被験者である沖名ギスに、シドニーにおいて「日本人は他者を最も尊敬する民族だ」と目を輝かせながら語るオーストラリア人に遭遇するというリトマス試験紙を当ててみたら、沖名ギスは、お腹の辺りに痛烈な違和感反応を示したーー。
オランダにおいて長期旅行でヘトヘトの状態でようやく駐輪場にたどり着き、もうすぐ家に帰れるという安堵感に満ちた状態で、自転車をパクられるという体験を投与すると、お腹の底が抜けるような別の違和感反応を示したーー。
のような感じです。

理科の実験の後に待っているのは、国語の時間です。
それぞれ微妙に異なる違和感反応が、いったいどの言葉に付合するのか問診するのです。
シドニーの違和感は
「日本人に対する過剰な期待を背負いきれない申し訳なさ」。
オランダの違和感は
「治安の良さを盲信した愚かしい自分への気づきと護身の覚悟」。
自分のお腹がしっくりくる適切な言葉が見つかるまで、終わりません。

そうした海外生活を1年半続けていると、この先日本に帰りたいのか、帰りたくないのかと人から聞かれることがよくあります。
正直、そんなの完全に時と場合によるので、はっきりと帰るだの帰らないだの言うつもりはさらさらありませんし、自分でもわかりません。
ただし、まさに今今の気持ちで言うのならば、圧倒的に「帰りたくない」が優勢です。
不思議なことに、日本を離れる時間が長引くほどに「日本に帰りたくない」というお腹の感覚が増しているように感じています。

理由は
「生きやすいから」
のひと言に尽きるのですが、
僕にとってなにが「生きやすさ」を構成しているかといえば、圧倒的な「自由」の感覚だと思っています。

それは、さまざまなものからの「自由」なのですが、代表的なものを一つ挙げるとするならば
「同調圧力からの自由」
です。これは、僕にとって一番大きく大切なポイントの一つです。

1年半の間に、オーストラリアとオランダの二つの国で暮らしを送りました。
多くの人と触れ合う中で、僕が印象に残っている言葉は
「If you really want to do」(君が本当にしたいならね)です。
例えば、「一緒にご飯行かない?」と食事に誘われるとき。
「お店手伝ってくれない?」と仕事の相談をされる時。
「私たち家族の記念写真を撮ってくれない?」と写真をとってと依頼される時。
場面を問わず、この言葉を添えてくるのです。

要するに、「決定権は、あなたにある」と言うことを、かなり頻繁に明示してきます。
「私はこれがしたいが、あなたはどう?」
「あなたの気持ちが偶然一致するなら素晴らしいけど、一致しなくても問題ない。
だって人間同士なんて、そういうものでしょ?」
というものの言い方をする。
そうした土台が、初対面の相手であっても当たり前に共有されているという安心感は、なにごとにも代えがたい価値があると感じています。

日本にいた時は、どうしても
「ここで上司の誘いを断ったら申し訳ない」
とか
「今後の人間関係にヒビが・・・」
とかいうように、
社会的な要求と自分が見なすものに自ら服従する営みを繰り返していました。

もう少し細かく分析すると、
「実際に社会が自分にそういう要求をしてきたかどうかを気にしていた」わけではなく
「社会が自分に対してそう要求しているだろうと自分が見なしたものに対して進んで服従していた」ということです。

両者は似ていますが、完全に違います。
前者の場合は
「上司が飲みに誘ってきた。断ったら上司が怒った。だから自分は申し訳ないと感じた」
という話に回収できますが、後者の場合は、
「上司が飲みに誘ってきた。普通、こういう場面では、上司の誘いを断るのは失礼とされており、自分は上司よりも下の立場の人間だから、上司の期待に応えなければならない。さらに世間的には、喜んで参加する姿勢を示す方が望ましいとされている。だから、自分はそうした世間的な優等生を演じることにする」
という話です。
これが、「社会が自分に対してそう要求しているだろうと自分が見なしたものに対して進んで服従していた」という言葉の意味です。

オーストラリアとオランダでは、少なくとも、こうした圧迫感に苦しめられることは今のところ一度もありません。
何かに服従しなければならないと感じたことはないのです。
見えない誰かやなにかのために身を捧げるのではなくて、あくまでも自分のために、自分の人生を、自分の好きなように生きるということが肯定される社会だと感じています。

これを一言で要約するならば
「世間の不在」
と言えると思います。
日本にあって、オーストラリアとオランダにないもの。それが「世間」です。
世間は、実態のつかみどころがないにもかかわらず非常に強制力の大きな魔物だと思います。
その魔物は、往々にして大きな主語を引き連れてきます。
「日本人なら〜して当然だ」
「ふつうの人間なら〜しなければならない」
「ふつうの男なら〜でしょ」
「良識ある女なら〜すべきだ」
「新人は〜するものだ」
のように。
でも、こういう大きな主語を使う人に限って
「私は〜と思う」という言葉の使い方はしません。
大きなことを主張する割には、自分で責任を取ろうとせず、日本国とか世間とか一般常識という言葉にすり替えて他者を攻撃します。
言論の自由と、責任のバランスが合っていないように思えてなりません。

ただ、僕は日本が大好きです。母国だし、懐かしい。
そしてなににおいても、歴史や文化資産にあふれています。
日本語ほど繊細に感情を表現できる言語はないのではないかと思います。
(繊細な日本語のポテンシャルを生かしきれない自分にもどかしさを感じることもたくさんありますが)

長くなりましたが、「世間」に関する気づきは、日本の外に出て初めて腹落ちしました。
その一点だけでも、本当に海外で生活して良かったと思っています。
そして、まだまだ海外生活を続けたいなと(にこっ)。

さて来月、日本に一時帰国します。
良かったら遊んでね。
でも、本当にそうしたいと思ったらね!




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