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いつまでたっても書けないので、書きながら考えることにした。自分史のような、告白のような。

このnoteは、当初詩を書くスペースとして開設した。
私が私を救うために書こうと思って書き始めたのだけど、理由あって一度全部消し再スタートしました。

誰しも多面性を持っているもので、TPOに合わせた顔を持っている。ありのままの自分で堂々と生きられる人なんていうのは今の社会でそう多くはないのかもしれない。だから堂々としている人を尊敬しているし、行動を起こすよう意識している。

子供のころから、敏感で周りのことによく気が付く女の子だった。少し周りの子と違う考え方をするなと思ったこともあった。自分で言うのも変だけど、明るく元気ないい子に育った。

周囲の大人にとって都合のいい子供を維持するために、小さな体の中で自己を分離することを覚えた。器用なのか、不器用なのか。生きづらさを感じているということは、不器用なのかもしれない。

分離した自己は、どんどん剥離していって、一方を放置するとボイコットが始まり、片一方の自分を責め立てる。

分離させる、という対応はきっと間違いだった。でも幼かった私には、そうすることでしか自分を守れなかった。仕方なかったのだ。

自己理解をしようと、世間的に後ろ指さされるようなこともやってみた。100考えるより1体験した方が真理に近づくと思った。自己分析もやった。心理学も学んだ。精神医学もかじり始めた。HSS型HSP、ADHD、アダルトチルドレン、境界性人格障害(ボーダー)、サピオセクシャル、どれも自分に当てはまるが、一つでは私を論理的に説明できる要素にはならなかった。自分を理解するパーツになったことは確かだけれど。「私は○○です」と言いふらすことは、本意ではない。

自分の言葉で話す場が、必要なのではないか。

みなどこかでバランスをとっている。経営者の男性が夜の街のお姉さんに甘えてみたり、鬱憤たまった人たちがSNSの裏アカウントで吐き出してみたり。バランスがとれなくなったとき、心身を病む。

分離した自己の剥離感が顕著になったと実感したこの頃、これまでに起きたことや、人前では語らない想いを形にしてみようと思った。おそらくこれは自分のためだと思う。同時にこんな文章でも、見てくれたあなたの心に少しでも触れられたら本望、という願いも込めて書いている。

岡本太郎さんの名言「人生は積み重ねより、積み減らしだ」という言葉がある。いろんなものを背負い過ぎているなと思う。あれも欲しい、これも欲しい、あったらいいなを加えていくうちに、人間は自在さを失う。

人生も半ばを過ぎた。積み減らしてもっと自由になり、最期は真っ白なキャンパスのようにゼロになって生を全うしたい。

このnoteでは、自分史や内省・考察を書く。人前では伏せているアンダーグランドを排泄をするように書き殴るので、暗い内容や性的な描写が含まれます。不快に思われる方はそっと閉じてください。

生きるために、大事な人たちを傷つけないために、私は私を分離した。
器用に使い分けて生きてきたつもりだけど。
今は間違ってたと思う。人に言えないことが増えていく。
間違いと認めることは自分の生き方を否定することになって、正直つらい。だけど今はこの痛みすら、生きている証だと思えていて。麻痺しているのか、病んでいるのか、強がっているのか、わからないけれど。今日もオーバーグラウンドの私は、笑顔でたくましく生きている。

書くことが弔いになるのか、行く先は見えない。書きながら考える。


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