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吠えないのか

戦国時代のあいみょん、だいみょん。
どうも、あなたの勇者ぜろ子でございます。 

梅雨が明けた瞬間、バカみたいに暑い。コロナで僕の人生のささやかな計画は狂った。そのせいでありとあらゆる方面に嘘をつきながら生き延びる羽目になっている。なんというか生きることは僕にとってものすごく大変なので、嘘をつきながらでも生きることをまず褒めてほしい。正直に生きたらまともに生きられない二十数年であった。

大人になってからあんまり夏って楽しいものじゃなくなってしまった気がする。前職、今の職場ともに夏が繁忙期で休みもあんま取れないし、暑さをどれだけ室内で避けるかを考えている期間になってしまっている。小学生のころ、成績表と朝顔を抱えて持って帰る高揚感とか、焼けそうなアスファルトの匂いとか、手製の樹液を木に塗って翌朝見に行くときの胸の高鳴りとか、プールのあとに食べたチューチーアイスやポケモンパンとか、中学生のとき川沿いをめちゃくちゃ自転車で飛ばしてふとした風がすごく涼しかったとか、友達とアイスを食べながら帰ったとか、部活後のしみるくらいに冷やしたスポーツドリンクの味とか、いろいろ楽しいことはあったのにね。虫でも捕りに行こうかなぁ、ほんとに。

前置きが長くなったが、今日は少しだけ不倫小説の面白さと学びについて考えてみたい。調べると世界不倫文学全集というものは未だに日本ではまとめられていない。ジャンル的に笑いごとでもないが、なぜか僕が面白いと感じた本の構成要素は結果不倫が大きく占めていることがよくある。不倫の組み合わせとしては40-50代男性(主に知的職業)と20代未婚女性(ベビーシッターや学生が多い)、40-50代女性と20代未婚男性(ブルーカラー)のどれかであることが多い。

1.J・アップダイクのウサギシリーズ
このシリーズは傑作である。3000ページ強のひとりの男の人生、現代アメリカの40年である。僕はアメリカに行ったことがないので(そもそも日本から出たことがない)いい加減なことを言う。不倫という観点から見ると、主人公のウサギことハリー・アームストロングはめちゃくちゃである。娼婦から始まり、家出少女、友人の妻たち、そして最後は息子の妻である。そしてどの不倫の代償も概ね本人たち以外のものが損なわれることによって引き受けられるというのが興味深い。
2.J・アーヴィングの「ガープの世界」
この作品でも、両親の不倫によりひとりの息子が死に、ひとりの息子は片目を失った。そういうものなのかもしれない。

不倫文学の極地に立つのはやはり
3.ロレンス「チャタレイ夫人の恋人」だろう。
男性がここまで女性の心の機微をよく描いたなと思う。そして訳がいい。
4.フローベール「ボヴァリー夫人」アンニュイさがいい。
5.ウルフ「ダロウェイ夫人」これは決して不倫といったほどではないが爽やかな未練という感じがしていい。
これら西欧三作「夫人もの」も大傑作である。

6.J・アップダイク「結婚しよう」
これは駆け落ち不倫の話だが、なんとなく読んでいて救われない哀しい気持ちになる。
7.有島武郎「或る女」
僕が今まで読んだ本のなかでトップレベルに好きだ。ひとりの麗人が零落していく様がたまらない。
最後に
8.オブライエン「世界のすべての7月」の章、「ルーン・ポイント」
これまで何度読み返したかわからない。不倫中に不倫相手が死ぬ。本当に素晴らしい。

不倫を扱った文学なんて無数にあるが、不倫があればなんでもいいというわけではもちろんない。過剰な官能表現も別に好きではない。作品のメッセージを伝えるにあたって媒体として不倫がうまく機能していればそれでいいのである。全体として好きな作品であるかが先にあって、不倫が構成要素としてあったというだけのことである。

僕は不倫自体に興味があるのではない。どのような条件が揃えば人が不倫してしまうのかという過程自体に興味がある。よく不倫小説が好きだというと、不倫をしたいのですか?不倫に憧れているのですか?と聞かれるが、そういう欲望は今のところない。文春も読まないし、現実の人の不倫の話は聞いていて心躍りはしない。大体あいつらは純愛のような気でいるのだから堪らない。僕自身の関心は、人がどのように不倫に陥っていくのかということにある。どのような具体的な条件が揃えば人は不倫に手を染めるのかということである。もちろん個人差はあれど、ある程度その条件が概括できるものではないかと思いながら色々と読んでいる。

同じことは、戦争や心中やファシズムやテロのようなことにも言える。これらのことは多くの人間がこれまでに何度も指摘している通り、一部の頭の特別おかしい、心が特別弱い、倫理観の特別うすい人間が陥ることではなく、ある条件が揃ったときに発露するものである。「あのときあんなやつと付き合ってたなんておかしかったよな、はは」みたいな事態は誰にだってあるはず。程度の問題である。誰もが狂うべくして狂いうるのである。狂うべき状況になって狂うのが正気である。ショル兄妹になることは逆にある所の狂気がなければならない気さえする。

直接的被害がない限りにおいて、当事者を無垢の正義を以て責めることは、僕自身が条件さえ揃えばテロリストになるのであることを考慮に入れ続ける限り、僕自身にとってかなり難しいことのように感じる。差別をしている人間を見て差別はよくないのだということは簡単だが、向けるべき矢印はまず自分であったほうがいいという話によく似ている。狂気に当事者性を持つことで、僕は僕自身の正気を生きようとしている。

良い夜を

吠えないのか / sassya-


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