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賽は投げられた

ソフトなウシジマくんみたいな仕事をしております。
どうも、あなたの勇者ぜろ子でございます。

『人生で起きる出来事は必然なのか。自由意志は本当にあるのか。』

日々生きている中で、自分をコントロールできることというのは余りにも少なく、(当たり前だが)人は全てをコントロールすることはできない。
自分の人生の手綱をある程度自分で握られるのなら、それに越したことはない。人生という道程の中で躓いたとき、ふいに嵐に襲われたとき、自分にはもっと何かできることがあったのではないか、いや、それとも全てはなるべくしてなったのか、という問いがいつも頭の中に浮かぶ。
この問いに、一つの答えを提示している哲学者がいることを最近本を読んでいるときに知った。その哲学者は、九鬼周造である。

九鬼によると、人の一生の中で起きる出来事は、全て偶然によって決まるという。自分の人生に起きる出来事は予め決まっているわけでもなく、かといって、全てが僕達の手に委ねられているわけでもなく、最後の瞬間までどうなるかわからないということだ。けれども、人は全ての出来事が偶然によって定められ、かつ自分の存在さえも偶然によって生み出されるということが受け入れ難いから、自分自身や出来事に必死に意味を見出したりする。しかし、そんなものは無いという。

しかし、彼は同時にこう述べている。一人の人間に降りかかる出来事は無数の可能性の中から生み出されたものであり、その生じた出来事自体はその人にとって運命だと。無限の可能性の中から自分に生じたものだからこそ、それは奇跡であり、その運命を愛そう。そして、他者に降りかかった運命は、ひょっとしたら自分にも降りかかるものだったのかもしれないのだから、その他者の運命にも敬意を表そうではないかと。

彼の哲学は一見残酷な現実を突きつけているように聞こえるかもしれないが、その本質は強さと優しさに満ち溢れているものだと思う。全てが偶然によって決まるなら、それは全て奇跡だからだ。さらに、自分以外の誰かが苦しんでいる時、それは他人事と捉えるのではなく、相手の苦しみに寄り添うことができる。そして何より、自分に降りかかる出来事がどんなものであれ、それを愛そうとする強い覚悟が彼の哲学にはある。

僕はこれまでの過去を悔やむことが多い。後悔や反省を何度も繰り返し、起きてしまった運命を愛することはまだできていない。しかし、自分の運命を愛することができるように、今こうして自分のやりたいことやできることをやっていこうと思う。神がサイコロを振るのではなく、人生そのものがサイコロだというのなら、どんな目が出ても愛せる自分でありたい。

良い夜を

territory / 藤原ヒロシ

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