厳冬

どうも、あなたの勇者ぜろ子でございます。

疫病や自粛や寒さに耐え忍び僕たちは生きている。体があって心があって確かにここに生きているが、最近死んでいないという感覚が強くなっている。
冬の突き刺す寒さは好きだが、冬は嫌いだ。

冬は嫌いだ。僕は新年早々そう思って大学に行き、特に学友と話すわけもなく、たんたんと講義を受けていた。いつものような寒い日だった。何事もなく今日は終わり、また同じような今日が来ると思っていた。
今日は何となく彼女の家に行かずに久しぶりに家族に顔を見せようと家へ帰った。帰ると騒がしく母が僕の元に駆け寄り、新聞を見せてきた。
いきなりなんだよ!と思ったが大人しく読んでいると、ある交通事故の犠牲者に高校時代の友人の名前が載っていた。

僕は中高一貫でそのまま高校に入ってきた人と入試組が半々の高校にいた。クラスは内部組と入試組で完全にグループができていたが、僕はそのノリについていけず孤立していた。最初は中学時代の友人に買い与えられたばかりのiPhoneで「友達できん!!w」とかふざけていたけれど段々しんどくなり、自閉するようになった。そんな僕に声をかけてくれた内部組の友人。その日から僕は高校が楽しかった(Twitterにもどハマりしていたが)。昼になるとドロリッチをかけたジャンケンをした。体育祭ではクラスの応援をサボって体操場のトランポリンで遊んだ。古典の授業で雨月物語って面白いじゃん!って2人で笑った。部活の試合で負けて隠れて泣いていたのも知っている。そんな友人が事故で死んだ。

葬式には出たくなかった。多分、絶対自分が傷ついて落ち込むから出たくなかったが、友人を見送りたかったし友人のことを忘れたくなかった。死んだ人にとって、記憶すること、生きていた証が深い傷のように刻まれることが救済だ。他人の記憶に住み着く、他人の世界を破壊する。破壊こそが存在意義で死人が唯一他人に干渉できる方法だ。

1月になると古傷が痛むように友人のことを思い出す。でも、この古傷は僕が死ぬでずっと残っていてほしい。「時間が癒してくれる」なんて言葉は死人に対しての侮辱で、僕に記憶の脆弱性を突きつけることになる。楽しいことも辛いことも傷として残していく。冬は嫌いだが、友人のことを忘れていないんだなと安堵する。


今年もまた嫌いな日がやってくる。今の僕を見て友人はなんと声をかけるのだろう。僕の悩みの数々は誰かが解決できるものでもないし、相談すること自体諦めている。結局のところ悩みは自分で解決するしかない。でも、友人がいたらと少し考えてしまう。人に甘えたい気持ちと諦念。この先もこれが続くのだろう。

良い夜を

光 / haruka nakamura

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