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キラカードを背中に貼り付けてやろうか?

PCR検査の結果、いぼ痔でした。
どうも、あなたの勇者ぜろ子でございます。

先週半ばから体調が優れず、昨日今日と仕事を休んだ。
普段なら「まぁ、多分、そんなもんだろ」と思いながら働くのだが、こんな時期だし独居房で働いてる訳でもないので念の為に休んだという感じだ。

僕という人間は(心配性といえば多少は聞こえはいいが)かなりの小心者で、小心者過ぎて石橋を叩き割って道無き道を歩く感じになるのです。
咳が出るなぁ。体の節々も痛い。頭痛と倦怠感もすごいぞ!おやおや!これは!→杞憂でした。

そんなことで何日か偽物の病床に伏してたわけですが、(実際に体調は最悪だったので偽物とは違うけど)こうなると自分とはなんなのか、とか幸せとはなんなのか、とか途方もないことを考え出す。きっと何かしらの病気で身体がしんどいのを誤魔化す自己防衛なんだと思う。

いつも通りにウィトゲンシュタイン大先生やそれに影響を受けたような作品を読み漁ったり観たりをしていた。
今回の謎哲学期間ではウィ大先生の青色本に書いてあった「他人に『私が本当に言わんとすること』が理解できてはならない、という点が本質的なのである」ということに強く感銘を受けただけだった。(これだけ読むとなんなんだよとなるけど前後の文を読めばなんとなくわかる、はず)

僕の人生において自分と他人の存在は一生の命題になるかもしれないし、飽きて忘れるかもしれない。

そんなわけのわからん意味不明な謎の本を読みつつ、神聖かまってちゃんの『23才の夏休み』を聴いていた。
夏と言ったら神聖かまってちゃん!ほら、8月末だしよく合うでしょ!そんなことない?そ、そんなことないか。

23才の夏休み、この曲を初めて聴いたのは確か中学生の1年か2年か3年の頃だった。
当時は終わってる音質のギターと美しいメロディにウットリ、きっしょい顔しながら聴いていた。
今聴き返すと(厳密に言えば2年前、23才の夏)、歌詞に出てくる「君」と「僕」のうち確実に後者になっていることに気がついた。

君は今どこにいる何をしている
僕には関係ないのにね
君が僕にくれたキラカード
その背中に貼り付けてやるよ

「君」とは喧嘩をしたわけでも離別したわけでもないけど、なんとなく時間の流れで会わなくなった。
僕は予定なんてないけど、君は多分、日常を順調に過ごしているんだろうな。
あの頃は宝のように見えたキラカードも儚い。「君」はあの頃輝いていたキラカードのことを、「僕」を思い出すことはあるのだろうか。

僕は常々幼少期や思春期に戻りたいと思うが、かと言ってもう子どもでもない。
生活のことや税金、円滑な人付き合いなどを考えなければいけない。
そういう葛藤を抱えて前に進むしかない。

良い夜を

23才の夏休み / 神聖かまってちゃん

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