「ドールハウスの幽霊/The Phantom of the Dollhouse」3
ジェニィの世界が大きく変化していくターニングポイントは、小学校の入学だった。もちろん誰にとっても新しいことだらけ、不安だらけの経験だ。逐一みんなで揃えなければならないこと。食事の量や時間にも規定があること。ジェニィにとって学校のルールは、ドラゴンが口を開けている真ん中に置いた棒の上を歩かされるような心地だった。酷い事態だ。でも、なによりジェニィがビビったのは、平均という概念と出会ったときだった。
『正しさ』
今までジェニィパパやジェニィママからぼんやりと発信させていたそのアイディアが、学校という場ではより堂々と森羅万象の揺るがぬ法則のごとく打ち出されていた。
「ハロー!」
とびきり愛想のいい声で、両手をひらひらと振りながら『正しさ』は新一年生の前に姿を現した。教師たちの接し方から察するに、学校一の花形であることは間違いなさそうだと、ジェニィは思った。
「ハロー、ジェニィ!」
『正しさ』は、にっこり微笑んでみんなに声をかけていく。マスクでも付けているように微動だにしない笑顔を向けられると、ジェニィはぞくっと寒気がした。
「ワタシ『正しさ』ヨ。イッショニアソビマショ」
『正しさ』の声はかわいく優しかったが、どこか機械的で薄気味悪かった。ジェニィはとっさに俯いた。すると『正しさ』は、同じ可愛い声色ながらもっと顔を近づけ、
「ワタシ『正しさ』ヨ。アナタトオトモダチニナリタイノ」
と言った。ジェニィが頑なに俯き恐怖のあまり目をつぶっていると、『正しさ』はどんどん顔を近づけ、録音された声を流すように一寸違わぬ声色で、
「ワタシ『正しさ』ヨ。イマ、アナタノトナリニイルノ」
と言った。ジェニィは恐怖に疲れ、顔を上げた。『正しさ』の顔が本当に直ぐ傍にあった。『正しさ』の目が、じっと彼女を見ていた。『正しさ』は全く瞬きをしないその大きな目で、ジェニィをじっと見据え、
「ワタシ『正しさ』ヨ。コレカラズットアナタトイッショニイルノ」
と言って、すっと姿を消した。
『正しさ』の姿を、渡り廊下や音楽室の窓辺にちらりと見る度に、ぞっとして目をそらし、幻覚なのだと思おうとした。ジェニィには、邪悪なものに感じられたのだ。
『正しさ』が在ること。
それが彼女をとてもとても神経質にさせた。理由は定かではないが、ともかくジェニィは自分が平均的ではない、と感じていたらしい。だから、身体計測でも、スポーツテストでも、平均に収まることだけに注意していた。
「すごい!」
とクラスメイトに言われると顔面蒼白だった。
クラスメイトたちは素直に褒めていた。そう、彼女がかつて友人たちを褒めていたように。でも彼女は、
「やらかしたぜ・・・」
と意気消沈した。おそらくジェニィパパとママはやりすぎたのだろう。ジェニィはすっかり、
『人間には優劣があり、言動には正誤がある』
という彼らの信念を受け継いでしまっていた。自分が平均以上であることは「過剰」だし、平均以下だと「欠点」だと思うようになった。あんなにも他者のユニークさを見いだすことが上手だったのに、優劣でしか物事が見られなくなったせいで、自分の個性すら過剰か欠点にしか見えなくなっていた。
ただ一つの救いは、何が理由かはよく分からないけれど、ジェニィがどの年齢においても、周りの子より少し世間知らずだったことだ。社会に属すれば自然とダウンロードされていくはずの集団意識は、いつまでたっても彼女の思考回路に未接続のままだった。
「一般的にはこう感じるんだから、わたしはこんな風に振る舞っておこう」
「社会はこういう具合だから、僕はこの路線で行こう」
就学児童にもなれば、無意識に大人に気に入られるよう自分をコントロールしはじめるものだ。ジェニィは、頭は悪くないし身体の発育も良かった。でも、集団意識だけは未成熟のままだった。
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