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「たわわなるたわごと日和」1
子供の頃から薔薇は、ときどき目を覚ますと青いセーターの中で迷子になっていることがあった。そんなときに母親はいつも、薔薇の部屋に椅子を持ち込み、雑誌を読んで彼女がセーターから出てくるのを待った。
ふわふわの迷路の中を駆け回り、ようやく出口を見つけて飛び出すと、薔薇はぶらぶらとゆれるなめらかなシルクストッキングの脚を探す。娘がセーターから出てくると、母親は困ったような眉の形と、どこか安心したような眼差しで出迎えた。
薔薇が一時間以内で青いセーターから出てくれば、母親はすぐさま朝食の乗ったトレーを差し出す。オレンジ二切れ、トーストにはピーナッツバターとピンクペッパー、黒糖入りのカフェオレ。冷めたトーストなんて彼女もきらいだ。でも、この時ばかりは仕方がない。
薔薇が幼稚園の制服に着替えている間に、母親が電話でタクシーを呼ぶ。ご贔屓にしていたのは、この街の人々が『花売り娘』と呼んでいるカーキ色のバンだった。このカーキ色のタクシー、以前は花屋で使われていて、車体のおシリにはラヴェンダー色で『ライフ・アーティストになろう!』とペイントされている。
運転手はたくましい腕に入れ墨のある元船乗りだ。車椅子だろうが、中で小柄な老女が二人でお茶会できるくらいの特大のキャリーバックだろうが、ひょいと片手で掴んでバンに積み込んでしまう。誰もが花売り娘に乗るときには、この「ひょい」が見たいあまりに、つい荷物を大きく、重たくしてしまいがちだった。出先で必ず後悔する癖にみなやめられない。
「ひょい!」
これがなかなか爽快なのだ。
娘とポシェットをタクシーに放り込んだあと、母親は時間をかけて髪の毛をカールさせ、曇り空色スカートコレクションの中から一枚選んで適当な柄シャツと合わせて仕事に出かける。彼女の仕事はファブリックデザイナーだ。主にノートのデザインをしている。子供の頃から真っ白ノートのときめきが好きだった彼女には天職である。
もちろん娘である薔薇も、真っ白ノート好きの少女に育った。新しいノートを埋めていくことは、船で大海原にこぎ出していくことに似た壮大さがある。このささやかな興奮を、老いも若きも、男も女も、
「わくわくする!」
という単純な言葉で表現するだろう。変化のプロセスを前にした時、人間という不器用な装置は歓びを感じるようにできているらしい。
薔薇はこれまでに、さまざまな表紙の真っ白ノートを、文字の練習帳や、スケッチブックや、想像上のお友達(例えばユニコーンだとか、妖精だとか)へのお手紙用ノートとして、旅してきた。とはいえ、すべての旅は途中で忘れられたのだけど。
最初の数ページの熱量とバランスを取るように白紙のページを残したままのノートが、彼女の机の引き出しの中には何冊もある。途中で飽きてしまうのだ。それらは薄く平らだったが、彼女には長く大きな白い尾をした海洋生物が座礁している様子を思い起こさせた。旅、また、旅。交差していく旅。旅の途中で旅が始まり、またその途中で新たな旅が始まる。そんな具合。
青いセーターの中で一時間以上迷った日には、彼女は幼稚園を休んだ。母親がもう出かけている時は、まず職場に電話をかけて脱出したことを報告する。ヨシ、これで仕事終了。それからの時間、彼女はアパルトメントを統治する小さな女王陛下になる。冷めた朝食も、ネットでおもしろ動画を見ながら食べるなら悪くない。
この青いセ―タ―ほど、数限りない受難をうけた衣類も無いだろう。父親は切り刻んで袋詰めにしコンクリートを付けて海に沈めたし、母親はオーブンで焼いたり、鍋で何時間も煮込んだり、紐で縛って火で炙ったりした。けれどこのセーターは、翌日には傷一つ残らぬ姿で薔薇の部屋のタンスの中に鎮座していた。
まさに不死鳥のごとき羊毛だった。両親は戦うことを諦めた。唯一の救いは、薔薇の一風変わったこの癖が、年齢と共に徐々に改善していったことだ。そんなわけで、薔薇が小学生になると、この癖による被害者が現れる。猫だ。
幼なじみの二人は、毎朝一緒に学校に通っていた。待ち時間を有意義に過ごすために角のパン屋を待ち合わせ場所にして。二人はときどき遅刻した。薔薇が寝坊した上に、青いセーターの中で迷子になった日に。
「ごめんなさいね。遅れそうなときは、気にせず一人で先に行ってちょうだい」
顔を真っ赤にして目にいっぱいの涙をためた薔薇の代わりに、曇り空色スカートを履いた母親から猫は言われた。けれどこれが、まだ幼い猫には難しかった。
「あと五分待てば?」
「長い針がもう一回動いたら?」
あと少しかもしれない、もうすぐそばまで来ているかもしれない、そう思うと、なかなかその場を立ち去れない。一人で歩く通学路は、なにせ味気ない。彼は遅刻の不安を感じながらも、ぎりぎりの時間まで薔薇がやってくるのを待ち続けてしまうのだった。
やがて二人は、画期的な解決方法を思いつく。青いセーターを、猫の部屋のクローゼットに置いておくことにしたのだ。ありがたいことに、青いセーターは猫の家を気にいり、大人しくクローゼットに収まっていてくれた。これでもう猫は、やきもきしながらパン屋の前で待つ必要が無くなった。
彼は器用な少年だ。ほどなくセーターを物差しの先でつついて出口を案内する方法を編み出す。それからの二人は遅刻することもなくなり、青いセーターは二人の友情の象徴となった。
十四歳になった頃には、目覚めればセーターなんて日も年に数回というほどになっていた。もうどんなに寝ぼけていても三十分以上迷うことはない。
まだ朝夕肌寒い初夏のこの日は、三ヶ月ぶりのセーター迷子デイだった。猫は朝起きると、まずはクローゼットの青いセーターがもぞもぞしていないか確認するのが習慣になっている。久しぶりにその兆候を発見しても、彼は顔色一つ変えない。歯磨きをしながら、物差しでちょいちょいとセーターをつつく。数分後、袖口から薔薇の指先がのぞいた。
「おはよう」
猫はそう声をかけ、二人分のコーヒーをいれにキッチンに向かうのだった。
銀ボタンの付いたブルーグレーのジャケットに、淡いレインボーカラーのシャツ。茶色地にすぐに逃げ出すグリーンのチェック柄が付いたプリーツスカート。グレーのリュックサック。水玉模様のスニーカー。薔薇の制服も鞄も教科書も、もちろん猫の家に一セット置いてある。二人は制服に着替えてコーヒーとシナモンロールの朝食をすませ、家を出た。