絵葉書音楽序論 その2
前回、絵葉書音楽という言葉をいきなり出してしまったので、わたしが言う「絵葉書音楽」とは何か?について書きながらまとめていきたいと思います。
ここでわたしが想定する絵葉書とは、特にまだまだ気軽に海外へ行く事が難しかった時代の絵葉書の様なものです。
海外の観光地や景勝地の絵葉書は絵画の場合はもちろん、写真であってもある種の楽園の幻想に偏ってしまいます。悪趣味なジョークの場合を除いて、その地のスラムだとか工場と労働者だとかそんなものを出す訳にはいかないでしょうし、観光客のステータスのトロフィーとしては都合が悪いでしょう。
異国情緒という言葉、この「情緒」という部分が大事なのです。
音楽にお話を戻しますと、クラシックの時代から異国情緒=エキゾチシズムは大きな要素です。門外漢のわたしでも「くるみ割り人形」の幻想的な異界としての異国の踊りや「シェラザード」のオリエントの解釈とか幾つか例を挙げられる程です。
ただ、わたしはバカなポピュラーミュージック好きなので、主に取り扱うことが出来るのは俗っぽい大衆音楽です。例えば皆様おなじみのこの曲とかでございます。
霧島昇 渡辺はま子 / 蘇州夜曲 1940年
同曲、1974年発売の雪村いづみ with キャラメル・ママのヴァージョン(お気に入りです)
同曲、Martin Denny / Soshu Night Serenade 1958年
とても良い曲です。ただ、この曲が成立した背景を考えると、これは幻想の絵葉書でしかない事にも気が付かされます。1940年公開の映画「支那の夜」の挿入歌で、李香蘭主演の満州映画協会(理事長は皆様ご存じ?甘粕正彦)製作の、いわゆる「国策映画」です。
絵葉書音楽を考える上で、わたしはその裏側、切手が貼ってあり、アドレスが書かれ、スタンプが押されている面をも見ていきたいのです。
異国情緒の甘い幻想を楽しみながらも、実はそれは植民地主義的な勝手な幻想であることも考えていきたいのです。
(続くと思います 続きました