愛とは? シャカイの言葉とセカイの沈黙を繋ぐなにか。

愛とは何か。

それを知るには、まず愛がどこに存在するのかを考えなければならない。

愛はシャカイの中にある。

シャカイは、愛を言葉にし、形にし、伝えようとする。「愛している」と言葉にすることで、それは相手に届き、誓い、契約、制度となり、人々を結びつける力になる。

しかし、愛はセカイの中にもある。
セカイは、愛を語らずとも在るものとして見守る。母が子を抱くとき、長い年月を共にした者たちが、言葉もなく寄り添うとき、そこに愛があることは、誰の目にも明らかだ。

愛は、シャカイの言葉にも、セカイの沈黙にも宿る。しかし、それはどちらか一方だけでは完結しない。

愛は、シャカイとセカイを繋ぐもの。

シャカイがなければ、愛は形を持たずに消えていく。セカイがなければ、愛は意味を求めすぎて不自由になる。

たとえば、愛する人に「好きだ」と伝えるのはシャカイの行為だ。言葉や行動にすることで、相手はそれを理解し、関係は深まる。しかし、その言葉が本物かどうかを決めるのはセカイの働きだ。そこに偽りがあれば、どれほど美しい言葉も意味をなさない。

逆に、言葉にせずとも通じ合う関係は、セカイの領域だ。長く共に過ごした者たちが、ただの仕草や気配だけで気持ちを知る。しかし、それがシャカイの中で成立するには、お互いの間に積み重ねられた時間や約束が必要となる。

どちらか一方が欠けると、愛は歪んでしまう。シャカイに偏れば、愛は義務や取引になり、セカイに偏れば、愛は曖昧なまま形を失う。

愛は、シャカイとセカイを繋ぐもの。

言葉にすれば、シャカイに引き寄せられ、
沈黙すれば、セカイに溶け込んでいく。

けれど、愛はどちらかに属するものではなく、そのあいだに存在する。

言葉にしなくても、伝わるものがある。
形にしなくても、感じられるものがある。
証明されなくても、そこに在るものがある。

それは、言葉で確かめながらも、言葉に縛られないもの。

形を持ちながらも、形に囚われないもの。
理解されることを望みながらも、説明し尽くせないもの。

愛は、どちらかに属するものではなく、
ふたつの世界の間に架かる橋のようなものなのだ。

そして、その橋の上で、私たちは誰かと向き合い、ときに言葉を交わし、ときに沈黙を分かち合いながら、愛を知っていくのだろう。

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