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映画感想『怪物』

英題「MONSTER」

◆あらすじ◆
大きな湖のある静かな郊外の町。シングルマザーの麦野早織は、小学生の息子・湊の不可解な言動から担任教師の保利に疑念を抱き、小学校へ事情を聞きに行く。しかし校長や教師たちの対応に納得できず、次第にいら立ちを募らせていく早織だったが…。
愛する我が子の異変に気づきある疑念を抱いた母親が、やがて学校側と対立していくさまを、母親や教師、子どもたちなどそれぞれの視点からミステリアスに描き出していく。



是枝監督の新作『怪物』がカンヌ映画祭のクィア・パルムを受賞した時点でめちゃくちゃ楽しみだったけどこれは間違い無く【傑作】だと思う。

カンヌ脚本賞も納得の坂元裕二の描写構成!

或る時点から何故か涙が溢れて1人で鼻グスグスしてた(笑)


                        *


大人と子供の住む世界の次元が違い過ぎた。

どんなにニュートラルで在るつもりでも大人には“経験”と言う価値観が備わる。

そこから来る先入観や偏見は少なからず言動に現れるのだ。


親子間の確かな不協和音
夫婦の歪んだ愛のカタチ
学び舎の保守と不条理さ

そして“嵐”と言うメタファー・・・


是枝監督が坂元裕二氏と手を組みここまで感情を揺さぶる作品を作り出してくるとは!

単視点で観客を誘導し方向性を示すがそれを多視点で描き換え、如何に世界が広く自分の知識や経験などちっぽけなものかを思い知らされる。

だから自分の価値観を人に…それが子供であっても押し付けてはいけない。

親の何気無いひと言が子供の心を抉る。
親は子供の悩みが他者との関係性だけだと思ってしまいがちだ。

子にとって親は唯一の味方と言えるが裏を返せば最優先の要警戒人物なのだ。


自分の“当たり前”が他者のそれとは限らない。
或る塾では「今日、学校で何があった?」と言う良く聞く質問はしないそうだ。
何故なら学校に行っていない子も居るから。
訊くのは「今日、何があった?」で良い。

今作にも母親の台詞に「お母さん(亡くなった)お父さんと約束したの、みなとが結婚して普通に幸せな家庭を持って欲しいって」とある。


普通とは何か?
その言葉は要るのか?

「好きな人と幸せになって欲しい」ではダメなのか?

何かを限定する言葉は何かを否定する言葉だと知る事が多様性を謳うこれからの世界を創るのではないだろうか?


【怪物】とは誰でも無く、しかし誰でもなり得るモノなのだ。



2人の子役の存在感はとにかく素晴らしい!
子役発掘上手な是枝監督の成せる技か?


緑の木々を陽光照らすあのラストが彼等の生きる道そのものであって欲しい。




そして晩年は子供達を支援する活動をしていた教授の曲が染み渡るのだ。




⚠️ネタばれ


“嵐”と言うメタファーと前述したが、この物語の早い段階から嵐が来るという状況設定があった。

あくまでも個人的見解だがマイノリティ(今作では特にセクシャルマイノリティ)と言われる人々にとって生きる上で覚悟するべき嵐=苦しみが訪れると言うメタファーがそれだ。
もちろん誰にとっても大なり小なり嵐も壁も現れる。

偏見の塊である依里の父親は巻き込まれ続けたら恐らく死に繋がる程のハリケーンだが…。


今作では、いつ訪れるか分からない嵐、いつ立ちはだかるか分からない大きな壁を幼い2人が乗り越えるのか否か?と言う問題が描かれていた様に思える。

あの秘密基地が唯一の彼らの場所だとするならば彼らはそこで嵐(苦しみ)から逃れ2人だけで寄り添いこの世界を捨てる事も出来る。

生まれ変わりに拘る台詞もかなり効果的だ。

だが…

あのラストをどう捉えるかは観る側の感性だろうが私は作り手の「彼らがマイノリティとしてではなく陽光輝く下で生きられる世界を作ろう」と言うメッセージに思えた。
彼らにとっての嵐を捻じ伏せて先を歩く者達が作っていかなくちゃだめなんだと言ってる様に思えた。

歪んだ世界など誰の為にもならない。



この物語で唯一彼らの“想い”に気付き理解したのが担任の保利だと言う描写にその糸口を匂わせてる。保利先生はちょっと可哀想にも思えたけどね。
でも彼の様な教師がチカラを削がれてはイケナイ事も描いてる。


そして校長のあまりにも人間臭い描き方も【人の本能】の汚さを一手に引き受けてて興味深かった。



人間の中に在る善と悪、常識と非常識、不条理と合理・・・紙一重の表裏。

流される人間と流れを作る人間。

どうせ作る流れなら生きる追い風になればいいな。



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