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古井由吉 杳子 を読んだ

取りつかれたように竹細工 編み物をする人と
同じような没頭具合か 編み物をしないので
分からないが妻が編みに入る後ろ姿は拒絶
をしょっているように見える それからちょっと
身の丈よりやや上の読書 古井由吉は娯楽と
しては読めないが 文章のひとつひとつ セン
テンス その構造を分解するように読むと頭が
疲れて 仕事の後のような疲労感がある 賃金
は発生しないが

杳子 を読んだ 以下あらすじ 山に登って帰り
に 岩山に囲まれた沢の少し広場になったよう
よところで 女がうずまっているのを発見する
女は離人感というか 現実感を失って見当識
障碍になってうずくまっている それを見てみず
からも同様な異和を抱えつつも女を従えて吊り橋
を手を引いて渡ってゆき 同じ電車で帰路に就く
その後 町で偶然女と再会し 同じ喫茶店で
逢う事になっていく 女は杳子 精神を病んでい
るように見える 道順や動作など無意識にでき
ることが出来なくなってきている 男もそのよう
な異常感覚を以前より感じていて 近親憎悪に
似たような愛憎を感じていく そうこうするうち
連れ込み旅館で情交するのが習慣となり そ
れも習慣化するうちに距離を二人は置くように
なる 男は一人で登山し 杳子は家に閉じこも
る 姉夫婦の家にいる 男は山小屋で雨にふ
られつつ内省し自分の異常感覚を自覚し 杳子
の精神の病みを確認する その後 電話し合う
ようになり 杳子の家を訪ねると 杳子の姉が
S ここでようやく男の名前が出てくる と対話する
杳子から聞いていた姉ははやり杳子と同様の
病をしたが いまは 健康 になっている と
ここでSと杳子が久しぶりに逢ったとき 連れ込
みに行かずに海に行ったエピソードを書くの
忘れてた とまれ 杳子は病んだ姉を軽蔑し
憎んで 姉は杳子は病気だから Sが杳子を
何とかしてくれ と古くからの知り合いのように
頼み込む そして Sは病んで風呂にも入らず
ネグリジェ姿の薄汚れた杳子と二人きりで
部屋で相対する・・・

ほぼ全部書いてしまった ネタバレ注意 今さ
ら遅いか まず私が感じたのは杳子の病気は
精神的なものなのだろうが どんな病気なの
だろうという事だった 幻覚が出るでもなく
知能に遅滞があるわけでもない 言い忘れたが
どこかの女子大生という設定だ 離人的な見当
識障碍なのかなどと思いながら読んでいた 手順
や持ち順にこだわるところなどは少し神経症が
入っているかもしれない 食事を見られるのを
嫌がったり 急に意固地になったりする この
小説が書かれたのは1970年代の初めで この
ようなエキセントリックさが病という根拠づけで
その当時は書かれえたのか という何か 感心
というか感嘆があった もうすっかり忘れているが
アンドレブルトンのナジャ を想起した ブルトン
はシュルレアリスムの親玉で ナジャは ナジャ
という不思議な女を描いた小説

もう一つは現在的なジェンダーの雰囲気から
いえば これは 男性小説 とでもいうべき小説
だなと感じた 描写は細密で身体感覚 特に異常な
感覚についての描写はとても丁寧に書き込まれて
いる まずそれが偏執的で その偏執が月並み
な感想ながら女性をじろじろと凝視する男性的な
視線から成り立っているような気がして それは
多分私にもある偏執なのだろう それゆえの
偏執的視線がとてつもなく男性的に感じられた
こと さらに 二人は情交を重ねるが それがとて
も するり としていて 杳子は男のなすがままに
されて まるで壊れた冷たくて柔らかい人形で
も抱いているような それでいて視線は細密で
描写が男性の視線に大きく傾いて ちょっと精神
の変調のある女性を言い方はアレだけれど
何だか いいようにしてしまってる ような風に
読めてしまった というのは私の中にも当然内在
する妄想にしたがった読み方を私がしていたか
らなのだろう

微細な感覚 不意に訪れる異和 何かかが崩れ
る 欠ける そのような微かな心理をここまで
細密に書いているのはその当時としては画期
的だったのか それとも小島信夫や後藤明生
そのほか同時代としては普通の事だったのか
内向の世代 と言われる人たちをほとんど読ん
でいない私は知らないのだけれど 言えるのは
描写は今も古びることなく きっぱりとややこしさ
や儘ならない感覚を見事に今にも伝えきってい
たという事だ そして 真似したくなる 全く及ば
ないのを承知で 何だかね 真似したくなるんで
すね 麻薬的なのね 面白かったかは微妙だ
けれど こういうのが文学を読む という体験
なんだろうか 不思議な充実を感じた

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