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拝啓、二岡智宏様 〜いちばん読んで欲しい人へ、わたしが理学療法士になった理由〜

 キナリ杯に向けて、一筆したためることにした。

わたしには、この文章をどうしても読んで欲しい人がいる。たくさんの目に付くであろう場所にこの文章が載れば、ひょっとするとその人の目にも止まるかもしれない。そして、その人がとても素晴らしい人であるということを、たくさんの人に知ってもらえるかもしれない。

 で、“その人”というのは、タイトル通り、読売巨人軍現三軍総合コーチの二岡智宏さんだ。以下、『二岡』とする。

 彼との出会いはわたしが中学2年生の春、東京ドームでのことだった。それまで大して興味もなかった野球観戦に、親戚のイベントか何かで連れていかれた。わたし達が座ったのは指定席C、三塁側の4階席でグランドにいる選手のほとんどが米粒と大差ない。めちゃくちゃ遠い。遠いけど、なぜかわたしは恋に落ちた。

恋はするものではなく落ちるものだ。わたしはそれを二岡から教わった。もともと椎名桔平とか、最近ならば高橋一生とか、薄い顔が好みだった。野球選手の顔なんてゴジラ松井以外みんな同じに見えていたけど、二岡は違った。めっちゃ好きだと思った。背番号7を背負った白いユニフォームの上着はマントに、下のズボンは白馬に見えた。グローブは盾に、大きく振り回すバッドは悪党めがけて振りかざすサーベルに見えた。要するに、一夜にして彼はわたしの王子様になったのだ。

 それからのわたしは健気だった。二岡の活躍に一喜一憂するために深夜までスポーツニュースを眺めたし、朝には新聞を舐めるように読み回して打率を計算してあげた。中畑清が二岡を褒めれば自分のことのように嬉しかったし、江川卓にディスられた夜には枕を濡らすぐらいに悔しかった。

 もう、二岡のこと以外考えられなかった。考えられなかったから、自分の進路のことも真面目に考えられなかった。どうしたら二岡に近づけるか、あわよくば嫁にして貰えるのか、そればかりに頭を捻っていた。

 そんなとき、二岡が怪我をした。左手首の骨折、打者にとっては致命傷だ。後々、二岡は当時のことを「目の前が真っ暗になった」と語っている。そしてわたしも、同じように「目の前が真っ暗になった」と語らせていただいている。

 その後、二岡は一生懸命リハビリをして、翌年のシーズンには実戦復帰、当時長嶋監督から原監督へ代替わりをした1年目の読売巨人軍の飛躍は目覚ましく、あっという間に日本シリーズ出場を決めていた。二岡はシリーズで夥しいほど活躍し、MVPにも輝いていた。

 さすがはわたしが見染めた男、怪我で出遅れた分も無事に取り戻すことができただろう。二岡の野球人生は安泰の道へと舵を切った。そして、いつの日かわたしを嫁にもらってくれるはずだと確信した。なぜなら彼が戦線離脱したその期間、わたしも彼と結婚するまでの人生を詰んでいたのだ。

 シーズン途中で1軍から登録を外れた二岡はリハビリに勤しんだ。たぶん、怪我をしたところを痛くないように少しずつ動かして、衰えた筋肉を鍛えたり硬くなった関節を柔らかくしていったのだと思う。そういう大変な作業は、野球選手だけではできない。トレーナーもつくだろうが、医学的な見解も必要になる。そんなとき、彼の傍らで常にその過程を見守っていたのが“理学療法士”だった。二岡のリハビリの様子を『月間ジャイアンツ』で知ったわたしはこう思った。

「あ、理学療法士になったら、二岡とリハビリできるじゃん?そしたら、たぶん結婚もできるんじゃね?」

 調べてみると理学療法士になるには専門学校か大学に通って国家試験を受験する必要がある。当時、わたしの取り柄といえば勉強くらいしかなかった。顔はダメだからアナウンサーは無理、運動音痴だからトレーナーとかはなれないだろうな、でも「理学療法士だったら、なれるんじゃね?」という不純な動機を抱き、わたしの将来の夢はあっさりと決まった。

 とりあえず、良い大学に入った方が読売巨人軍に近づけそうなので、高校受験を頑張った。その甲斐あって、県内2位の偏差値を誇る公立高校の理数科に入学した。進路相談では、担任に「二岡のお嫁さんになりたいので理学療法士になりたい。なので大学は〇〇大学の医学部保健学科理学療法学専攻を受験します」と丁寧に説明もした。

 3年間、ご飯を食べるように勉強し、それなりに名の知れた国立大学を目指すことになったのだが、事件は起きた。センター試験の数日前になぜか二岡がテレビ東京のアナウンサーと入籍した。しかし、駿馬のごとくマークシートを埋めていたわたしは気にしなかった。とういうか、ここで気を削いだら一瞬で負けるとわかっていた。だから、親も担任も、離れて暮らす祖母まで心配して電話をしてきたが、胸を貼って「無問題!」とお伝えした。馬鹿ほど怖いものはない。

 で、なんとか無事に大学に合格し、いろいろあって理学療法士になることができた。スポーツに携わりたいと戯言のように唱えていたのに、いろいろあって東京のリハビリテーション病院に入職した。夫に出会って結婚して、今は5歳の娘がいる。結局、二岡とは結婚できなかった。二岡にもいろいろあったのだ。何があったか知りたい人は、どうぞGoogle先生にでもお尋ねください。

 二岡への恋心がいつ冷めてしまったのかわからない。否、冷めたという自覚はない。現に2018年、打撃コーチとして彼が育成した岡本和真が大活躍したときは涙を流して喜んだし、その翌年BCリーグの富山サンダーバーズの監督に就任した経緯や思いを知ったときも涙を流して「ああ、わたしやっぱりこの人のこと好きだな」と思ったりした。

 少女が胸に抱いた淡い恋心は、その火を絶やさぬままいつの日か尊敬の眼差しへと変貌した。それと同時に少女も立派な三十路の女へと成長した。そして今、二岡に伝えたいことがあってこれを書いている。

 長くなりましたが、ここからわたしが本当に書きたいことを書いていきます。

拝啓、二岡智宏様。
 あなたに恋をしてから18年、わたしはとても幸せです。
 誰かに胸をときめかせる切なさと苦しさと、そして束の間の喜びを、触れはせずともあなたは教えてくれました。そして、あなたを追いかけて追いかけて、“理学療法士”という仕事に就きました。
 リハビリテーションは、直訳すると『全人間的復権』。その昔、魔女として疑いをかけられ火あぶりにされたジャンヌダルクがその死後に、「魔女ではない」と人間としての権利を取り戻したことに語源があります。
 この仕事に就いてから、病気や障害によって人生に「待った」をかけられた方々を多く見てきました。そして、その方々が「待った」を乗り越え、再び社会で各々の生活を取り戻していく様子も拝見いたしました。
 病気や障害を負うことは、必ずしも不幸なことなのでしょうか。困難な状況にあっても、それぞれのやり方でときに受け入れ、ときに乗り越えて「幸せだ」と仰る方がいます。理学療法士は、そういった方々の人生の1ページに携わることができる、素晴らしい仕事です。悔しい思いや辛い経験もたくさんしたけど、本当に素晴らしい仕事だ、と胸を張って言うことができます。
 あなたがいなければ、わたしはこの仕事に出会えませんでした。そして、今まで出会った大切な友人やお世話になった方々、何より愛しい夫や娘にも出会うことはありませんでした。
 わたしは今、この人生にとても満足しています。そしてこれからも、満足し続けられうように、生きていきたいと思っています。
 二岡さん、全てのきっかけはあなたです。あなたが野球選手になって、わたしの前に現れてくれたから、今のわたしがあるのです。
 本当に、ありがとうございます。これからも、わたしはずっとあなたを応援しています。どうか、お身体にお気をつけて。 

読んでいただきありがとうございます。まだまだ修行中ですが、感想など教えていただけると嬉しいです。