<親鸞聖人『歎異抄』>偽善は捉え方ひとつで義善・勇善となる
※画像引用元:https://onl.sc/K9GQFgS
いつもお読みいただき、ありがとうございます🙏✨
タカミチです。
真面目な人ほど「自分が善いことをすると偽善になる」と考えて、人に思いやりや優しさを発揮することを躊躇われてしまうことが多い印象があります。
”偽善”とは”偽物の善”という意味になりますが、善い事をする見返りを期待している場合にこうした想いが浮上するかと思います。あるいは、「普段は善い人間ではないから、善い事をするのに違和感がある」という自己否定の場合も多いでしょう。
その一方で、偽善かどうかを考えたということは、その人は他人に対して、何か善いことをしてあげたいという想いがあるということになります。これは、果たして偽善でしょうか?
僕は、こうした自己否定の念を抱えながらの善行は、偽善ではなく”義善”だと感じます。”義”には「条理。正しい道。道理にかなったこと。人道に従うこと。」の意味があるとWikipediaにあります。つまり、義善とは義理人情による善であり、その人に”正義感”の強さがあるからこそ起きる真善・勇善だと思います。義勇の人です。
では”偽善”とは何なのかと言えば、これは「相手を騙して利益を得るために、見せかけだけの善行をすること」だと感じます。一時は相手が喜んだとしても、最終的には相手に大きな不利益を与えることになるとすれば、これは完全に”偽物の善”ですね。
なので、「私があの人に善いことをしても、それは偽善だしなぁ。。。」と悩まれる場合は、その悩んでしまうこと自体がとても素晴らしいことだと感じます。本当に善い人なのだと思います。人間ですから、自然と見返りを期待してしまうものです。
それに、世の中で聖人君子としてあがめられてきた偉人ですら、果たしてまったく見返りを求めていなかったか?ということは誰にも分かりません。内心ちょっと「民衆に喜ばれたら有名になるかなぁ?」と思っていたかも知れません笑
親鸞聖人ですら、自身のことを「愚禿(ぐとく)」と呼び、「私は煩悩を消せない凡人だ」と悩んでいたわけですから、誰かに善いことをしようとした時に「偽善になるから」と躊躇う必要がありますでしょうか。それは本当に素晴らしい”義善”ですので、胸を張って実行して欲しいと思います😊
そして、親鸞聖人の『歎異抄』の言葉「善人なおもって往生を遂ぐ いわんや悪人をや」の通り、悪人であっても、自身を省みて、偽善を行ってきたことに後悔と自責の念が持てるようになれば、その時が義善に変えて行ける絶好の機会となるでしょう。
あなたの心に、常に太陽が在る事を祈りつつ。。。
明日も善い一日となりますように😌
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