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「正しく生きる事は刺激がない」という事の真相を説明してみた
いつもお読みいただき、ありがとうございます🙏✨
タカミチです。
「刺激のあるエキサイティングな人生」という表現がありますが、刺激のある人生を送られていますでしょうか?
先日の記事「<禅語:処処全真(しょしょぜんしん)>この世は鈍感になって生きるくらいがちょうどいい」で、「物質社会から距離を取った方が幸せになりやすい」という旨を書かせて頂きましたが、上述の”刺激”とは概ね物質社会の中にこそあります。例えば。。。
グルメを楽しみたい
旅行やアクティビティに行きたい
ゲームや映画、その他趣味を楽しみたい
意中の人との恋愛や性体験をしたい
挙げればまだまだ出て来ると思いますが、これらを楽しむにはお金がそれなりに必要になりますし、多かれ少なかれ贅沢の部類に入ってきます。
現代社会は、これらの贅沢が飽和しているため、それらを何としても、誰よりも享受したいと考える人々が激増したために、”勝ち組”という概念が生まれました。
これの何が問題かというと、”勝ち組”の概念が登場したあたりから、ネットの発達と並行して急速に、社会の倫理観が暗に廃れて来たことです。
それはイコール、人々の心から神性が急速に失われて来たことを指します。
「刺激のある人生」を求めること自体は問題ないのですが、感謝や謙虚さ、倫理観が失われてしまっては、その人は物質的には楽しいかも知れませんが、精神的には不幸のどん底に落ちている事になります。
その一方で、感謝や謙虚さ、倫理観を大切にする、節度ある慎ましい生き方というのは、対照的に刺激的では無くなる傾向があります。
今回お伝えしたいことはここですが、この物質世界においては、、、
良い子ちゃんな生き方は、刺激が少なくなる分、物質的楽しさは減少する
悪い子ちゃんな生き方は、欲に忠実で刺激的なので、物質的楽しさが増す傾向が強くなる
何が言いたいのかというと、「人は何も考えずに生きれば、後者を選択し勝ちになる」ということです。
これは何故起こるのかというと、ほとんどの人が「死んだ後の人生があるとは、夢にも思っていない」からです。
あるいは、ある程度はあの世を信じている人でも、それは観念的なものに留まっており、リアリティを感じることが出来ていないためです。
この世の物質的刺激を謳歌している人にとっては、「死んだら無に還るんだから、今を楽しんだもん勝ち!」と思っている人が大半でしょう。
だから、倫理観に背くことを目の前にした時、「これぐらいいいよね!」と、良心のブレーキが利きにくくなります。
そして、そのブレーキが完全に壊れてしまうと、犯罪に走るわけですね。
例えば、他人を悪どく利用して成りあがり、政界にも進出してさらに財を蓄え、愛人との豪勢な不倫を日常茶飯事にしている悪い子ちゃんが居るとします。
こうした悪い子ちゃんが死んであの世に行くと、経済的に恵まれないながら、慎ましく謙虚に生きた平凡な良い子ちゃんと、立場が完全に入れ替わることになります。(同じ次元には居ませんが)
この世とあの世は陰陽の関係にありますので、肉体欲に忠実に生きた人と、精神的向上を常として生きた人では、魂の次元に天と地ほどの差が生まれます。文字通り、天国と地獄、です。
つまり、この世では慎ましく生きて、刺激が少なかった良い子ちゃんは、あの世では苦がなく楽しい事しかない次元での、(倫理的に)刺激的な生活が始まることになります。(刺激的という表現が適切かは別として)
これが、あの世とこの世における生き方の、陰陽の入れ替わりです。この世の低刺激が、あの世の高刺激に変わります。
そうは言っても、頭では分かっていても、この物質社会で低刺激な生き方をするのには、ストレスが溜まるものです笑
そのため、倫理的に問題ない範囲で物質的な刺激を取り入れつつ、あらゆる事に感謝をしながら節度ある生活を送る、というのが理想ということになるでしょう。
面白いことにこうした生活を続けていると、おのずと精神の深化が進み、唯物的なものへの興味が薄れていき、唯識的(精神的)なものへの価値観が高まります。
そうした感覚が身に着き始めますと、低刺激な生活にも慣れて、物質社会と程よく距離を置きながら、幸せを感じながら生活ができるようになるでしょう。
実は、比べようも無いほど、唯識的な生き方の方が楽しいことに気づきます。
少しでも、参考になるところがあれば嬉しいです😌
あなたの心に、常に太陽が在る事を祈りつつ。。。
明日も善い一日となりますように😊