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戦国武将は口が堅い。
戦国史を研究していて感嘆した事があります。それは、当時の武将達の口の堅さです。
関ヶ原の戦いで東軍・西軍と分けたのは江戸時代の軍記物の作者です。武断派と文治派の対立も創作で、それが教科書にまで載っています。2派に分かれた理由を、研究者の誰も判らなかった。判らないなら「不明」にしておけば良いのにね。
そもそも、本能寺の変で本庄惣右衛門が「明智軍で最初に寺に入ったけど、信長公とは戦ってません」と教えてくれているんだから、明智軍より先に信長と戦った部隊がいたんだなと考えるのが当たり前です。なのに、一次史料を無視して「犯人は明智光秀だ!」と決め付けてるから、その後の展開が意味不明になる訳で。
ちなみに『信長公記』に明智軍の旗が出て来ますが、アレは杉原家次(秀吉の叔父)軍が作った偽旗です。打ち合わせでは、明智軍と杉原軍は朝6時から“一緒に”本能寺を襲撃する予定でしたから。杉原軍が明智軍のフリをして、朝3時に本能寺を襲った訳です。
信長殺害の犯人は羽柴秀吉で、豊臣政権時代に口封じで家臣を殺しまくったから関ヶ原の戦いになったのが正解です。秘密を知っていた家臣(細川、黒田、福島etc)が東軍で、秘密を知らなかった家臣が西軍です、ハイ。
んで、大谷吉継と小西行長は本来なら東軍ですが、石田三成との友情から西軍に加勢しました。しかし、最後まで三成に「信長を殺したのは秀吉だった」とは教えなかったんですよ。それがずーっと不思議で。
「忠君の鑑」なんて大嘘で、秀吉が信長を裏切った事を教えれば、西軍は豊臣政権の為に尽くす気を失います。何故教えなかったんだろう?と、新たな謎でした。
最近になって「当時の武将達は、秘密を軽々しく他人に語る事を恥だと捉えていたのでは?」と考えるようになりました。
最高権力者の秘密を暴露すれば、息子の豊臣秀頼が怒ります。自分や一族が糾弾・処罰を受けない為に、みんな秘密暴露に慎重だったのかも知れませんが。
ちなみに、個人的には秀頼は淀君と大野治長の子供だと考えてます。それは淀君が秀吉の側室になった理由が、お市の方の怨みを晴らす為だったからです。
浅井長政が秀吉の嘘で信長に殺された事を、お市の方は生涯許しませんでした。賤ヶ岳の戦いで自害する前に、娘の茶々に「羽柴家を乗っ取るように」と遺言します。
茶々は3年間行方不明となった後、秀吉の側室となっています。その後秀頼を産みますが、身長150cm以下の秀吉に対して、秀頼の身長は197cm。信長に「禿げねずみ」とアダ名された秀吉に対して、秀頼は美青年でした。そして大野治長は淀君の幼なじみで、高身長&イケメンで知られた人物。しかも秀吉は所謂「種なし」だったようです。どっちが本当の父親かと言えば……となります。
当時は権力を奪う際には、権力者の首を晒すのが鉄則でした。明智光秀が信長の首を探し回ったのも、前の権力者が生存していると家臣達が従わないからです。しかし、大阪の陣で秀頼と淀君は、首を晒されていません。
恐らく事情を知っていた家康が、秀頼親子を殺さずに、鹿児島へ逃がしたのだろうと僕は考えています。