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細川家の謎解き(その1)

細川興秋が大坂の陣で豊臣軍に味方をした理由について、『歴史人』の渡邉大門先生の解説を見てみましょう。

渡邉先生によると、細川忠興の後継者は長男の予定でしたが、加賀征伐の余波で長男が廃嫡に。忠興が代わりに三男を後継者にしたので、不満だった興秋が忠興と険悪となり、出奔・出家した事になっています。そして大坂の陣で豊臣軍に参加した後、切腹したとなっています。

一方、高田重孝先生は九州・天草に逃れた後の細川興秋について論文を発表しています。高田先生によると、興秋は不可思議寺と言う寺を建てたり、島原の乱では村人達に一揆に参加しないように説得したとして、各村々で説得に応じた人数も書いています。

更に三男が天草にいる興秋に送った手紙だったり、興秋の墓があったり、庄屋になった興秋の子孫が、家系図を奉行所に提出した記録も残されています。
さて、切腹した興秋の幽霊が天草で活動したのでしょうか?

結論を書くと、細川興秋は大坂の陣後に切腹していません。細川忠興は徳川家康に「切腹させました」と嘘を付いて、密かに天草に逃がしたのが正解です。『細川家記』には切腹したと書いてあるのは、ちゃんと理由があったからです。

興秋は細川家の当主になれなかったから出奔したり、豊臣軍に参加した訳じゃありませんて。むしろ逆です。

先ず真相を知る必要があるのは、1599(慶長4)年9月の「家康暗殺計画」についてです。
これは大坂城に登城した家康が増田長盛から暗殺計画を密告された事件です。

暗殺計画のメンバーとして名前が上がったのが、前田利長、大野治長、浅野幸長など。彼等は配流や蟄居などの処分を受けますが、首謀者の前田利長に対しては、加賀征伐が検討されます。

更に忠興の長男・忠隆の嫁さんが前田利家の娘だったので、細川家にも嫌疑が掛かります。細川家滅亡の危機か!?

ところが、この暗殺計画事件はグダグダな終わり方をします。何と前田利長は母親のまつを人質にしただけで加賀征伐が中止。細川家も細川幽斎が弁明しただけで許されます。

家康暗殺を企てて未遂に終わったなら、一族処刑が当然です。では何故グダグダな終わり方をしたのか?……その答えは、暗殺計画なんて大嘘だったからです。

徳川家康も、増田長盛も、前田利長も、大野治長も、細川忠興も、み~んなグルで、一芝居打ったのが真相です。

その狙いは、暗殺事件を理由にして、家康が大坂城に居座る口実を作る為でした。そして北政所の居る二の丸に居座った家康は、勝手に天守閣を建てたり、豊臣秀頼との主従関係をジリジリと逆転させて行きます。(続く)


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