儚小町
松本隆さんが、日本舞踊の若柳佑輝子さんに書き下ろした新作長唄の初演に足を運びました。小野小町を題材にした「儚小町(はかなこまち)」は、藤舎貴生さんが作曲ということで、12年前の「幸魂奇魂」が思い出されます。
入場の際に渡されたパンフレットをロビーの隅っこで開き、歌詞にザッと目を通したところ、友人の「これって、『風立ちぬ』じゃない?」という声に「あ、ほんとだ!」と頷きました。カタカナで3種類の花の名前が並んでいる行だけ異彩を放っています。ご案内役の葛西聖司さんによる解説でも、やはりそういう解釈でした。失恋はしたけれど新たな一歩を踏み出そうと決意する松田聖子ちゃんの歌と、深草少将と小野小町との恋愛感情がどうのように交錯するのか?期待度MAXのうちに開演したのでした。
三味線、箏(琴)、笛、それぞれの奏者一人ずつと、唄い手が定位置につきます。鼓、太鼓のない最小限の和楽器による静かな演奏。佑輝子さんは橋掛りという通路から登場しました。一切の無駄を削ぎ落とした渾身の舞と演奏にひたすら圧倒されっぱなし。息をするのも忘れていたかもしれません(いや、してたけど)。感情を押し殺した所作が、逆に想いの激しさを想像させます。時折、切り裂くような笛の音色に驚かされたり。
帰宅してからじっくりと歌詞を熟読しています。文語調ではあるものの、現代口語。定型詩のように見えるけれど、そういうわけでもない。不思議な文体です。そして冒頭で触れたカタカナの3種類の花の名前が、平安の世と現代を強引に結びつけます。古典芸能のフィールドで、こんなことやっちゃっていいのでしょうか?
松本隆さんは、日本語によるロックを生み出したり、歌謡界の構造を根底から変えるような偉業を成してきました。しかし、クラシック音楽など伝統ある芸術に関わる際は、敬意を表して、無茶なアプローチはしていません。と見せかけて、いつもその世界をちょっとだけ自分の方に引き寄せています。「あ、ここんとこ、松本さんだ!」と思わせる部分を行間に含ませています。今回は行間と言わず、かなり直接的にスパイスを効かせましたね。
もうひとつ。作中で何度も花を散らせており、悲しい恋の終焉を示しつつも、その後で花を風に舞わせています。「散る」の言葉からは終わりや死を連想しますが、「舞う」は躍動や生を感じ取ることができます。舞うためには一度散らなければなりません。失恋から一歩踏み出す『風立ちぬ』とつながっているではありませんか。
以上は、令和6年10月28日(月)18時30分より、京都金剛能楽堂で行われた「日本舞踊若柳流 第一回 秋の夜 佑輝子の會」のうち、新作長唄「儚小町」を鑑賞しての拙い感想でした。日本舞踊はもちろん、古典芸能に関する知識ほぼゼロなので、見当違いかもしれません。違っていたらゴメンナサイ!
他の演目も見応えありました。佑輝子さんも素晴らしかったけれど、共演した若手男性陣もサイコー!私の知らない世界で若い才能が生まれている様を肌で感じることができました。若いのにブレイキンとかに行かず、よくぞこっちにいらっしゃいました。早い所作も、スローモーションのような流れの中でも全くぶれない軸の強靭さに感服しました。テレビ画面からは決して伝わってこない機微を体験するには生で見るしかない、と痛感した次第です。