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青い蝶を追って

七月の終わり頃、と言っても、1970年のこと、午後の暑い陽射しの中、金やんの家に向かった。自転車のフレイムがぐにゃぐにゃしてペダルを踏む足が覚束ない。あまりの暑さに金属が溶けはじめたのではないかとも思えたが、よく考えてみれば、ぐにゃぐにゃしていたのは自転車ではなく猛烈な熱射に悲鳴をあげつつあった私の脳みそだったのかもしれない。
「かーねーこーくん あーそーびーまーしょっ」と玄関の前で声をかける。がらりと引き戸が開いて、割烹着姿のお母さんが顔を出した。「つよしならいないよ」
昨今では些か奇異に見えるかもしれないが、約束もなく友だちの家を訪うことは、当時はそう珍しいことではなかった、というより、むしろ、小学生にとってはそれが標準だったろう。他のエリアのことはよくわからないけれども、少なくともうちの近所では当たり前の光景だった。そして、それが空振りに終わるのも、また当たり前のこと。

まっすぐに帰ればいいのだろうけれどもうろうろと自転車で徘徊する。徘徊という言葉はあまり子どもには使わないような気もするけれども、あれは徘徊というのがちょうどよかったな。無目的にうろうろ。他に何かフィットする言葉があるだろうか。彷徨というのもちょっとちがうな。ほっつく。ぶらつく。うろつく。どれもいまひとつ。

特に用事もない小学生の身、時間に縛られずにあちらこちらを進む。曲がらなくていい角を曲がり、路地で行き止まったり。そんなことも新しい発見として受け入れ、楽しんでいたんだよなあ。今はねえ、曲がるところをまちがえて行き止まったりすると、ちっ、なんて舌打ちして、しくじったぜ、などとネガティヴにとらえてしまいがちだ。一体、いつからこんなふうになってしまったのだろう。

ふらふらとゆらめく白光の中、ふらふらと進む私の眼前をふらふらと青い蝶が横切った。強い陽ざしの反射のせいなのだろうけれど、それは眩く煌めく青さで、私が知っているどんなアゲハチョウよりも一回り大きくぴかぴかと輝いて見えた。息を飲んだ。唾を飲んだ。ごくりと飲み込む音以外の全てが消えた。
ペダルを踏み込み、追跡を開始する。
ふわふわと高みを舞う青い蝶は電柱をよけ、家々の屋根を越えたり電線をくぐったりしながら鬱蒼と木々が並ぶ古い屋敷に舞いこんだのだった。整備されていない町はずれには変てこな小路が残っているものだ。頻繁にうろついているのに気づかずに通り過ぎていた場所はまだまだいくらもあった。この場所には一度も来たことがない。少なくともそう思えるような、馴染みのない景色がそこにあった。ところどころ鈍色に燻んだ万年塀によじのぼり中を覗きみる。想像したほど広くはなさそうだ。母屋と小さな離れのような建て物。奥の方に雑木が立ち並ぶ一角。あたりは雑然としていて、放置された空き家のような佇まいだったけれど、離れには人の気配があった。風が木々の葉を揺らすかすかな音に包まれて。
塀の上に腰かけて蝶の姿を探したがみつからない。ぬるい風が頬を舐める。そのとき、離れの扉がゆっくりと開いた。男の人と目が合った。塀の上の私は硬直したものの、その人はうっすらと微笑んでいるようだった。
それが杖田さんとの出会いだ。この人とこの夏の多くの時間を過ごすことになるとは知る由もなく。


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