TOKYO
トーキョーは、「ん〜こうやって歩いてると、あんまし福岡とかわんないな〜」ってことと、「トーキョーといってもこんなに自然がきれいなところがあるんだなぁ」「街の中なのに、こんなにかわいい花が咲いてる!」ってこと、「どっひゃー!こんなとこに住むっていくら稼いどるねん!」ってこと、「どっひゃー!こんな服誰が着るねん!」ってこと、「こ、この建物は、同じ白米を食べる民族が考えるんか?!どんなおかずを食べたらこんな建物が思いつくんや!?それともパンの国のひとか?!麺の国の人か?!イモの国の人か?!」ってこと、
街によってコロコロと表情を変える、とても面白い街だった。
トーキョーは街中に「TOKYO2020」のタペストリーがパタパタしてて、至るところ、タクシーの一台一台にも東京オリンピックのマークが。
渋谷や浅草は「ここはうちの近所と同じ日本かい?!」と思うほど外国の方が困らないような(むしろ外国の方が居心地よく感じるような)整えかたをしていたし、東京オリンピックにむかってるんだなぁというのが肌身にしみる空気(同調圧力?w)だった。
九州にすんでてオリンピックのチケットの入手戦にも参加してないわたしからすると、東京オリンピックは同じ日本のことだけど外国でやるような「まだ予熱も十分でない感じ」なので、「あ〜東京は成功のためにがんばってるんだなぁ」とえらそうに応援側からものをみたりした。
きっと、5ヶ月後には、手のひら返したようにわーわーきゃーきゃー言ってると思います。
ザ・にわかファンとして。
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初日、飛行機から降りてその足で、東京都現代美術館へ向かう。
ミナペルホネンの展示会をみようと思い。
ふつうだったら、最終日前日だし土曜だし、混んでる予想がつきそうなものなのに、それが旅の目的ではなかったからか、展示を見ることへの切実さとか緊張感が足りなかったからか、ミナペルホネンを舐めていたのか、完全にお上りモードのわたしには不思議と不安もなく、えらそうに向かう。
混雑は予想できなかったけど、東京にはムートンブーツを履いてる人が一人もいないことにはすぐに気づく。
(ムートンブーツって、流行ったり廃ったりするものなの??ムートンブーツは定番じゃないんですか?来年も再来年もはくつもりなので、だれか教えてください。)
着いてびっくり、100分待ち。
どひゃー。
夕方には東京に住む妹が夜ご飯のお店を予約してくれていたので100分待てない。
しゃーないね、と思って妹に電話したら「(現代美術館のある)清澄白河はカフェの聖地よ!知らんと?カフェめぐりでもしたら?」と言われるが、「知らん。カフェ何件もはしごして、腹タプタプになって、何が楽しいの?」と返事をする。
15年前のわたしは、「東京カフェめぐり」と銘打ったムック本を何冊ももって、何ページも角を折って、きゃいきゃいしていたけどな。
オットに魂抜かれたかな。
妹もあれだけ言ってくれたし思い出作りにとカフェを検索してぶらぶらしながらカフェにつくと、お目当てのプリンは売り切れ。
でもかわりに、とても素敵な花屋さんで妹へのお花も買えたし、すてきな雑貨屋さんでまっしろいクロスやカゴも買い、まるでku:nelを追従したかのような散策をする。
清澄白河は、現代美術館があって、清澄庭園というとてもすばらしく自然の残る場所があって、自然の一部のようにババグーリのお店がそっとあって、見たことのない匂いのいい植物がそっと生きていて、とっても落ち着いた、淡々とした、息のしやすい街だった。
福岡にいて、自然の中に子どもたちを連れて行ったり、自分の子以外のこどもたちに自然のなかのあそび場をつくったりするけれど、実は、自然に癒やされている感覚は乏しい。
自然のなかに向かう時間を作っているのに、自然が好きだと感じることはないのだ、特別でない限り。
だけど、都会を歩いていたら、自然と、自然に目が向かい、体が向かい、手が伸び、匂いを嗅いでいる。
木々や葉っぱや花や草、虫、たくさんの自然の恩恵は、まるで、空気と同じで、離れて初めて、そのありがたさを実感しました。
ありがたさをいちいち感じないほどに、日常の中にあって、それなしでは生きられないことに気づかないほど、自分の体の一部のように在る存在だということを改めて実感する。
だからって多分、「この感覚を大事にしよう、自然のある暮らしは当たり前じゃないんだ、いまある暮らしに感謝しよう」なんて、福岡でわざわざ再確認したり忘れないように努力することはないんじゃないかと思う。
田舎生まれで草っぱらのなかで用を足すことが日常だったわたしには、自然を崇め奉る気持ちが育たなかったんだな。
敬意も偉大さもさることながら、自然というのは用を足させてくれる、またそれを文句一つ言わず受けとめて消化してくれる、おおらかな存在なのです。
そんなことを考えながら、妹と駅で落ち合う。
東京で初めてあう、そして東京にいた2.5日間のなかでみつけた唯一のムートンブーツ着用者は、ほかの誰でもなく、わたしの妹であった。
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熊本の田舎の村から汚れた一万円札をもって(よく考えるともってないような)上京したあの頃、東京は、まばゆさと華やかさと、コンクリートジャングルとむさしさとはかなさと人々の殺伐とした無表情と、、、って、よく雑誌で読んだけど、そうでもなかった。
トーキョーのもつ無機質な質感を感じたほうがいろいろとドラマティックだったけど、田舎者のわたしには全部がきれいで、ぶっちゃけ、東京を離れて神奈川の海のそばの町に引っ越したときも、そのあと福岡の海の見えない町に引っ越したときも、いつでも東京は好きだった。
好きの量はかわっていったけど、東京へのあこがれやまぶしさや胸の高鳴る思いや、不思議とほっとする気持ちも、いまだ褪せることなく続いていることをこの旅で実感する。
「東京なんて息苦しい街だよ」って言っちゃうことがかっこいいと思ってた時代を経て、「東京、好きだなぁ。なんなら大好きだ。」と自分の中にある本音にイエスをいえた自分の変化に安心している。
周りの人にとってはとるに足らないくだらないことかもしれないけど、わたしにとっては自分にイエスを言えたこの小さな喜びは、人生をかえるほど大したことです。
トーキョー、来てよかった。
二日目、次が旅の本番です。