ひきこもり
ひきこもりのドキュメンタリーを綴った本を読んだ。
というのも、最近西加奈子の「うつくしい人」を読了して、ひきこもりの姉をいくら憎んでもいくら嫌っても自分の中にある姉に似た部分を見つけてしまい、忌み嫌っていながらも、結局は姉が恋しくなってしまうというストーリーに心惹かれた。そしてひきこもりに興味を持った。
本を少し読み始めた日、引きこもりの人は家にいるお金があるなら海外に行けばいいのにと思った。
あ、でも、海外に行くまでに通る日本社会、さらにはリゾート地でも感じる「働く人」の姿がひきこもりの人々には痛みを生じさせるのかもしれないと思った。
それはすごくわかるし、労働市場にさらされた経験があるからこそのトラウマのようなものだ。
…そう思っていた。でも違った。私の仮説は大外れだった。
ひきこもりの家族や本人に寄り添ったドキュメンタリーを追っていくと、
他人の目に対する敏感すぎるほどの感受性が原因であった。
なんだ。そんなんじゃ私もいつひきこもりになってもおかしくないじゃないか、と危機感を覚えてしまった。
ひきこもりの子を持つ親の共通点は非常に興味深かった。
それは、親が精神的に不安定であり、幼少期の子供に対して抑圧的な態度をとってきたことである。
ケースバイケースではあるものの、そういった過度で自己満足的な教育熱心さを持った親は、その親自身が家族絡みで他の家族とのギャップに苦しんだりしてきた過去を持つことが多い。その悪い思い出を断ち切るために、子供に一生懸命になる。
家制度という欧米からしてみれば、人権を軽視したような制度も、日本という国ではつい最近まで行われていた。
私達のような現代の若者の世代は気付かないだけで、「家族」の在り方や概念が過渡期を迎えている世代である。家族という分野がホットなトピックでありつつも、家制度を抜け出して核家族が主流となった今どう精神的安定を保つのか、というのは日本の大きな大きな課題だと思う。
家族という分野に「普通」という言葉は存在しない。
恥ずかしながら、私はこの事実に最近気づいた。
ひきこもりを理解することは、日本ののびしろを見ることにもなると思う。
小説は小説にバトンを渡してくれる。
もうすぐ夏だ。
書店の棚が夏フェアで一段と鮮やかになったブックカバーと帯で彩られている。