小江戸川越で桜と歴史めぐり
ことしの花見は川越で!
2024年のお花見に行ってきました。
そこで、川越の歴史を感じられる花見スポットを3ヶ所ご紹介します。
週末にたまたま川越へ遊びにくる予定の方へ。
あるいは、近くに住んでる人ほどいつでも行けると思って行きそびれてしまうものです。
そんな川越市民の方へも。
川越市のサイトにも「春の桜散歩コース」があります。
https://www.city.kawagoe.saitama.jp/koedo90/course/pdf/c44.pdf
川越観光について
今回ご紹介するスポットもそうですが、川越観光はそこそこ歩きます。歩きやすい服装と靴で行きましょう。
蔵造りの街並みのある市街地は道が狭く車道は混雑します。車でまわろうとすると渋滞に巻き込まれて想定外に時間を食うおそれがあります。ご注意ください。
この記事の中で使用している画像はすべて私が4月6日に撮影したものです。
あいにくの曇天でしたがそれもまた味ということで。
1蓮馨寺
本川越駅から蔵造りの街並みへ向かう途中にあるお寺です。
建立には戦国時代の北条家家臣、大導寺政繁とその母が関わっています。正直パッとしないので大導寺政繁をご存知なのは相当な戦国マニアの方でしょう。
ちなみに政繁は秀吉の小田原征伐に際して、前田利家、上杉景勝などを主力とした秀吉北陸オールスターズと戦い、敗れて降伏しています。
境内の桜はこんな感じでした。
手入れが行き届いた境内で満開の桜を鑑賞できました!
蔵造りの街並みや近くの菓子屋横丁では、店先でいろいろ食べ物を売ってますので、花も団子も両方楽しめちゃいます。
いちおう、川越で昔から親しまれているのは、江戸時代に江戸でスイーツとして消費されていたサツマイモと、お団子です。
サツマイモは「九里(くり)よりうまい十三里」の売り文句で有名です。九里=栗と川越から江戸の距離の十三里を掛けているんですね。
団子のほうですが、川越の米は舟で江戸へ運ばれていました。米が集まる場所なので団子が作られたわけです。
それらを江戸へ運ぶのに使われていた川が2番目に紹介する花見スポット、新河岸川(しんがしがわ)です。
2氷川神社と新河岸川
蔵造りの街並みから氷川神社に向かいます。
川越城と氷川神社は川越台地の東北端にあります。
氷川神社の先は台地が終わって土地が低くなり、お団子で説明した米作が行われていました。
さて、氷川神社に到着です。
軽く参拝して境内を北へ抜けると新河岸川にでます。
みなさんどこから情報を仕入れているのか、たくさんの人が訪れています。
ここは桜だけでなく菜の花も植えられていてとても色鮮やかですね。
船の荷物の積みおろしをする川の岸を「河岸(かし)」と呼びます。
つまり、新河岸という地名は、「江戸時代に新しくできた河岸」という意味なのです。
実際には江戸時代の新河岸川は伊佐沼から流れ込む水と仙波の湧き水を源流にしていて、いまこの桜が咲いているあたりは新河岸川ではありませんでした。
昭和になってからもともとここを流れていた赤間川と新河岸川をつなげ、川越市を流れている部分を新河岸川と呼称するようにしたのです。
短い距離ですが川下りを楽しむこともできるようです。
せっかくなので東明寺にも足を伸ばしてみます。
こちらは花はありません。
では何を見にきたのかというと、川越夜戦跡の石碑があります。
桶狭間の戦い、厳島の戦いと同様に戦国時代の合戦のひとつとしてよく名前があがります。
三つとも下剋上というか新勢力が旧勢力にとって変わるターニングポイントになった戦いです。
さらにそこから川越市立博物館に寄り道しました。
水琴窟とかなかなか風流でしたが花見とは関係ないのでこの辺で切り上げます。
最後に紹介する上戸日枝神社は川越市の中心部から離れたところにあります。
川越市民でも霞ケ関駅周辺に住んでいないとわざわざ行かない場所だと思いますのでやや上級者向けスポットです。
3上戸日枝神社
東武東上線霞ケ関駅で下車して北口から降ります。
駅前ロータリーからまっすぐ北へ10分強歩くと目的の上戸日枝神社が見えてきます。
こちらは観光のついでに寄れる場所ではないせいか、地元の方しかいませんでした。
境内のはしっこのほうは遊具が設置してあって子供たちの元気な声が聞こえてきます。
今でこそゴルフコースの最寄り駅でしかない霞ヶ関駅ですが、実は川越城が築城される以前は、こちらの上戸周辺が川越の中心地でした。
現在の上戸小学校のあたりに鎌倉武士の河越氏の館があったのです。
河越氏は坂東武者の名門で源義経の正室の郷(さと)は河越氏の出身でした。
しかし、名門だったはずの河越氏は皆さんが詳しい戦国時代後期には既に歴史の表舞台から退場してしまっています。
河越氏がいつ、なぜ、歴史の表舞台から姿を消してしまったのでしょうか。
足利幕府は京の都に御所を構えていました。
支配者のはずの将軍がたびたび京を追われていたのは、まあ措いておき、滅ぼした前政権のあった鎌倉は重要な土地であったため、鎌倉公方という長官を特別に任命して治めさせることにしました。
この鎌倉公方にくっついて京から鎌倉へ下ってきたのが、ご存知関東管領職を歴任することになる上杉氏です。
そして河越氏はこの上杉氏と争って敗れ、滅亡したのです。
歴史上これを「平一揆(へいいっき)」と呼びます。
ただ、そもそもなぜ河越+その他の平氏系武士が上杉と争うことになったのか、残存資料が少なく詳細は判明していません。
私の想像ではぽっと出の文官上がりのよそものがでかい顔するようになって気に喰わなかったんだと思います!
上戸日枝神社は河越氏と関わりの深い神社です。
平安時代の荘園制という歴史単語を覚えていますか?
川越の上戸日枝神社があったあたりは河越荘として後白河法皇に献上され、日枝神社はその際に京都から分祀されこの地に建てられました。
東京赤坂の日吉神社は、この上戸日吉神社から江戸氏がさらに分祀した神社となります。
霞ケ関駅から上戸日吉神社へ向かう途中で右折(東)すると、河越氏館跡があります。
雁飛ぶ武蔵野に名を馳せた坂東武者の栄光も今や昔、いまはただ公園に設置された解説パネルにそのよすがをかすかに偲ぶのみとなっております。
その地の歴史を多少なりとも知ることでお花見もより楽しくなると思います。
この記事が少しでもみなさんの川越理解の助けになったのなら幸いです。
今回取り上げた3ヶ所の他にも、喜多院、伊佐沼、川越水上公園の桜が市民の間ではよく知られています。
それらはまた来年(!)にでも。
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