『英雄がたりの吟遊詩人』
~あらすじ~
小さな村で妹と二人で暮らす少年、ラクスト。
病気の妹の為、村にやってきた吟遊詩人に頼み物語を歌ってもらうが……
妹の容体が急変。病気を治すためにはワイバーンの牙が必要だという。戦いの経験のないラクストに、吟遊詩人は力を貸すというが……!?
『そしてその時青年は、流石に全てを理解した』
『きっと気ままに暮らすには、危機を斬り伏す気概が要ると』
昼下がり、寂れた村の一角がにわかに活気付いていた。
聴きなれない楽器の音と、滑らかに響く男性の声。
何か来ているのか、と通りがかった少年が足を止める。
『けれど彼とて気がかりは、剣など今日まで関わりなき身』
『来る日も来る日も振るうのは、木々を斬りたる鉄斧一つ』
人々の間から少年が覗き込むと、そこには綺麗な衣装を纏った長身の男が立っていた。
細身で、柔らかい髪と優し気な顔立ちを持った男は、回し手と弦のついた楽器を器用に操りながら、朗々と何かの物語を歌い上げる。
『身の毛のよだつ魔物の元へ、まさか手斧で向かうとは、無策無謀も甚だしい』
『とはいえ時は待ってはくれず、ただ携えるは尊い勇気』
吟遊詩人であろう。
見当を付けた所で、少年は踵を返す。
あまり興味はなかった。正確には、興味を持つ余裕がなかった。
(早く薬を買って帰らないと……)
少年は、吟遊詩人に投げるコインなど一枚も持っていなかったのである。
日々働いて得た金は、少量のパンと水と、彼の妹のための薬代に消えて行く。
そんな状態で、彼一人がちょっとした娯楽に無駄金を使えるわけもない。
(……待てよ?)
けれど、その場を後にしようとした少年は、直前である事を思いつく。
自分一人が無駄金を使うのはあり得ないが、病気の妹の為ならば……
「……なぁ、アンタ。今夜はウチに泊っていかないか?」
そう思い、少年は演奏が終わるのを待ってから、吟遊詩人に声を掛けた。
「この辺、あんま宿も無いし。ウチなら宿代は要らないからさ」
「それは……有難い話だけど……」
突然に声を掛けられた吟遊詩人は、薄い微笑みを浮かべながら首を傾げる。
好意には、大抵対価があるものだ。それを分かっているのだろう。
別段隠す事でもないと、少年は彼に理由を話す。
妹が病気で長く臥せっていること。
自分は仕事で長い時間家を空けていること。
だからきっと、妹を毎日退屈させてしまっているであろうこと。
「だからさ、アンタがウチに来て少し妹のために話してくれりゃ、宿代も晩メシ代もタダ。……つっても硬いパンしかねぇけど……どう?」
「成程ねぇ……うん、良いとも!」
少し考え込んでから、吟遊詩人は笑って頷いた。
「僕の名前はミストル。キミは?」
「オレ? ラクスト。よろしくな。……あー、待った、その前に……」
薬を買いに行く途中だった。
ラクストは苦笑いして、ちょっと待っててくれよと言い残し、薬屋まで駆けてゆく。
「……病気の妹の為、かぁ」
一人残されたミストルは、誰にともなく呟いた。
「これはまた、良い話が作れそうだ」
*
妹の容体は、あまり芳しくなかった。
薬を飲めばしばらくの間は平気でも、時間が経てば熱と咳が止まらない。
それでもいつかは良くなるだろうと、ラクストは信じて薬を買い続けていた。
「……薬が合っていないんじゃないかい?」
「かもしんねぇ。……でも、村で用意出来る薬はもう全部試したんだ」
ラクストたちが住む村は、山奥に佇む小さく寂れた村だ。
手に入る物には限りがあるし、薬なんて高級なもの、ロクな種類が無くて当然と言える。
「たまに行商が良い薬持ってたりするんだけどな。……買えないくらい良いヤツ」
自嘲気味に笑うラクストに、ミストルは眉根を寄せる。
小さな家で、ラクストは妹と二人で暮らしていた。
両親の姿は無い。……死んだ、とラクストは語る。
「父ちゃんたちが死んで、オレは畑売って村の大人の手伝いを始めた」
けれどそれじゃあ稼ぎが足りない。
日々を食いつなぐので精一杯なのだと、ラクストは言う。
「だから……晩メシ、悪いけど大したもんは出せねぇぜ、マジで」
「良いとも。屋根を貸してくれるだけで有難いというものさ」
ミストルの言葉は、決して単なる気遣いではなかった。
身分の怪しい旅人を、簡単に受け入れてはくれない村も多い。
そもそも一年の大半を旅で過ごす彼にとって、屋根と床のある家というだけで十二分に豪華なもてなしと言えた。
「へぇ……そんな良い身なりしてんのにな?」
「これは商売道具だからねぇ。ほら、良い服を着ていた方が信用されやすいだろう?」
「……まぁ、確かに」
ラクストは頷く。
言われて初めて気づいたが、ラクストはミストルに殆ど警戒心を抱いていなかった。
見ず知らずの旅人……自分より身長の高い大人の男……思い返せば、いくらか気にしても良さそうなものだったのに。
ラクストは俄かに不安を覚えたが、ミストルが小首を傾げて苦笑いすると、その不安は消え去った。
(……まぁ、悪い奴が自分からする話ではねぇよな)
余計なことを言ったと、ミストルも思ったのだろう。
そう感じて、ラクストは一旦不安を端に寄せる。
何かあれば、自分がどうにかすれば良い事だ。
それよりも、今は……妹のために、物語を聞かせてやりたい。
「ルーネ、お客さん連れてきたぞ」
「お客さん……?」
「吟遊詩人のミストルというものだよ、よろしくね」
それから日が暮れるまで、ミストルはいくつもの話をルーネに聞かせた。
その多くは、勇敢な心の持ち主が、誰かのために立ち上がり、強大な敵を打ち倒す……いわゆる、英雄譚だった。
思い返せば、村の広場で歌っていたのもそれだったか。
流れるような演奏と声音の心地よさに、ラクストが思わずウトウトし始めた、その時……
「げほっ! ごほっ!」
「ルーネっ!?」
妹は、唐突に咳き込み始めた。
ラクストは慌てて薬を飲ませるが……収まる気配が、無い。
「っ……熱も上がってる……クソ、どうすれば……」
「……。ちょっと、良いかい?」
焦るラクスト。その時ミストルが立ち上がり、そっとルーネの額に手を当てた。
「う……ん……?」
ぼわ、とミストルの手から光が漏れる。
その光を浴びた途端、ルーネの発作は収まり、そのままゆっくりと眠りに落ちていく。
「……よし。一時的な効果だけど、今はこれで良いかな」
「アンタ……何したんだ?」
「簡単な治癒魔法だよ。……あ、ここ魔法嫌いの村だったりしないよね?」
答えてから、しまったという顔をするミストル。
そういうのは無いとラクストが答えると、安心したように息を吐く。
「たまにあるんだよ、魔法使っただけで殺しに来る村とか……」
「ああ……いや、でも助かったよ、ありがとな」
礼を言ってから、どうしようとラクストは思う。
一時的な効果だ、とミストルは言っていた。魔法の効果が切れれば、妹はまた発作を起こしてしまうのだろうか。
薬はもう効いている様子が無かった。だとすれば、もう打つ手が……
「……さっき触れて分かったんだけど」
と、そこでミストルが口を開いた。
「キミの妹の病気は……魔病の類だね」
「魔病……?」
「体内の魔力が不安定になって起こる病気」
言われても、ラクストにはいまいちピンと来なかった。
「それ、魔法使いじゃなくてもなるの?」
「魔力は誰にでもあるから。この子はちょっと多い方だね、素質がある」
「……」
褒められているのかもしれないが、喜ぶ気にはなれなかった。
使いもしない才能の為に病気にかかり、挙句死にかけてしまっているのなら、それは素質などと呼べるものではないだろう。
「それでね、この子の場合、火の魔力を蓄えた素材があれば薬を作れると思う」
「火の……って、たとえばどんな?」
「火を扱う魔物か、幻獣か……そうだな、ここに来るまでに見かけたのだと……」
ミストルは、そこで言葉を止める。
言おうか、言うまいか。迷うような仕草に、ラクストは焦りを露わにする。
「なんだ、何が必要なんだよ!?」
「……。ワイバーンの、牙」
一拍置いてから、ミストルは答える。
その言葉に、ラクストも一瞬固まってしまう。
「……それ……は……」
ワイバーン。硬い鱗と爪を持つ、竜の一種。
一度人里に降りてくれば、一匹だけでも多くの被害が出る恐るべき魔物。
もちろん……そんな魔物から出来る薬など、この村には無い。
行商を待とうにも、金も無ければ……待つだけの時間だって、今は無いのだ。
故に、必然的に……残された手段はただ一つに絞られる。
「キミが取りに行くしかない。妹を……助けたいのなら」
ワイバーンを倒し、その牙を手に入れる。
戦いの経験なんて全くない、ただの田舎村の少年が……だ。
どうする、とミストルは訊ねた。
ややあって、震える声でラクストは答える。
「……やるよ」
やるしかないんだ。
続けた言葉は、声にならなかった。
*
「せっ、はっ……!」
「よーし、そこだ、一歩下がって!」
ミストルの声に従って、ラクストは後退する。
ガギン!
次の瞬間、ラクストがついさっきまでいたその場所で、獣の牙が打ち鳴らされた。
決意から行動まで、時間の猶予はなかった。
ミストルはラクストの妹ルーネを眠らせると、急ぎ彼と山へ経つ。
目的は、ワイバーンの牙を手に入れルーネの病を癒す事。
それが容易い道ではないことくらい、ラクストも分かってはいたが……
……よもや、日が落ちてすぐ野獣の群れに襲われる事になるとは。
ラクストは、突き付けられた現実の厳しさに、つい苛立ってしまう。
「クッソ……こんなんでどうにか出来んのかよ……!」
「やるしかないんだろう? なら、そういう考えは控えた方が良い」
「分かってっけど!」
叫びながら、ラクストは鉈を振り下ろした、
作業用の鉈は、小型の野獣の頭部を砕く。……が、それだけだ。世に名だたる名剣のように、容易く両断できるというものではない。
両断できないという事は、反撃を受けるということ。断末魔の叫びと共に暴れる野獣のツメが、ラクストの腕を裂く。
「ぐっ、ぅ……」
「おおっと、大丈夫かい?」
すかさずミストルは何かの光を放ち、ラクストの傷を癒した。
ほのかな暖かみと共に痛みが引き、肌は元の形を取り戻す。
「……クッソ……」
ミストルの魔法はラクストを良く助けていた。
傷を受けてもすぐに治るから、素人のラクストでも動きを止めずに戦える。
ミストルが口にするアドバイスも有効で、それを聞いて戦っている内は、自分も戦士の才能があるのではと錯覚してしまうほどだ。
結論から言えば、その夜、襲ってきた八匹の野獣を、ラクストたちはケガらしいケガもせず撃退することが出来た。
正確には、何度も攻撃は受けてはいたのだけれど。痛みで意識が飛ぶ前に、すかさずミストルが治していた。故に圧し負けなかった。……それだけの事である。
(……村じゃ、大人が数人がかりで退治するヤツだぞ?)
転がった死骸を尻目に、ラクストは思う。
ラクストよりも一回り大きな体躯を持つその野獣は、大人一人でも手に余る。
もちろん、経験豊富な戦士や騎士であるならば話は違うだろう。戦い方や相応の装備さえあれば、簡単に倒せる相手かもしれない。
(……じゃあ、オレはなんだよ)
血がべっとりと張り付いた鉈を見る。
この鉈だって、普段は枝や薪を切るのに使う程度のもので。
「怖くなってしまった?」
「……まぁ、そりゃ」
ミストルに問われ、ラクストは頷く。
傷は癒えても、痛みと恐怖を味わった事実は消えない。
出来得る限りラクストは平然を装ったが、暗闇の向こうからまた何かが襲ってくるのではないかと思うと、気が気ではなかった。
*
「今日はもう休もう。また明日、日が出てから巣を探すよ」
「……あぁ」
それからしばらくして、ミストルは焚火を起こし、ラクストに休憩を促した。
獣や魔物は火の近くに寄っては来ない。夜闇を照らす赤い炎を見ると、ラクストの気持ちはようやく少しだけ落ち着く。
腰を下ろしたラクストは、カバンから硬いパンを取り出し、食らいつく。
食欲はあまりなかったが、きっと必要だろうと理解していた。
「……アンタさ、一人の時はどうしてんの?」
「ええと……襲われた時に、かい?」
「アンタ、さっきは全然戦ってなかったじゃん」
食べながら、そう問いかけた。
言われたミストルは、苦笑しながらラクストの隣に腰掛ける。
戦っていなかった、わけではない。手にした杖で寄ってきた獣を叩きはした。
けれど基本的には、ラクストを回復させながら助言を口にしていただけだ。
人任せにしているように見えるよねぇ、とミストルは呟いて、それからラクストの目を見て、問う。
「……怒ってるかい?」
「って、わけじゃないけど。……でも、気になるじゃん」
「まぁ……逃げてるよ。いつもならね」
言いながら、ミストルは小さな杖を手に取った。
そして彼が杖を高く掲げると、杖の先端が強い光を放つ。
「こうやって、目を眩ませて……その間に力の限り逃げるのさ」
だが、同行者がいるとそうは行かない。
もしその時、逃げ遅れたりはぐれたりしてしまえば……
「……僕はともかく、君を一人にするわけにはいかない。そっちの方が危険だと、僕は思ってる」
「それは……確かに」
ラクストは頷く。傷を負っても治せる人がいるというのは有難い事だし、ミストルの経験や知識が役に立つ時も多いだろう。
それら無くしてワイバーン退治を成し遂げられるとは、とても思えない。
「僕が前に出ないのも同じことさ。……僕がもし動けなくなったり、死んでしまったりすればやり直しは効かない。だからこそ、矢面に立つにはキミ自身なんだ」
とはいえ、とミストルは続ける。
それがラクストにとって酷く危険で恐ろしい事だというのは分かっている、と。
「もし諦めるというのなら、止めはしないよ。君自身の命だって大切だ。どうにかする手段は他にもあるかもしれないから」
「それが出来たらそうしてる」
はぁ、とラクストはため息を吐いた。
次に行商が来るのがいつになるのか、ラクストには分からない。
来たとして、ルーネの病気に合う薬を持っているとも限らないし……持っていても、買える値段とは思えない。
村に頼れる大人はいても、ワイバーン狩りとなれば話は別だ。一歩間違えば死ぬような戦いを、おいそれと頼めるほどラクストは無責任ではない。
他所の街まで行って討伐を頼むとしても、やはり時間も金も足りないのだから……
……結局、自分でどうにかするほかないのだ。
今までも、そうしてきたように。
「……というか、むしろアンタはどうして手伝ってくれんだよ?」
ミストルの助力は有難かったが、ラクストにとっては不可解な事だった。
彼とラクストは、会ったばかりの他人である。
金品の類を要求できる相手でない事くらい、暮らしぶりを見れば明らかだろう。
助ける理由も、利益も、ミストルの側にあるとは思えなかった。
……であれば、なぜ、彼は自分を助けるのか?
「その方が、世界が楽しくなるからね」
返答はそれだった。
ややあって、首を傾げる。言っている意味が分からなかった。
「……アンタ、命知らずの冒険者ってタイプには見えないけど」
「そうじゃなくて。……なんて言うのかな。僕は、世界には素晴らしい事がたくさんあると、多くの人に知って貰いたいのさ」
ミストルは言いつつ、鞄の中から一冊の手帳を取り出す。
開くと、中にはミストルの字で様々な歌が記されていた。
「僕はね、この目で見てきたものしか語らないんだ」
広場で語ったものも、ルーネの前で語ったものも。
全ての物語は自分の目で見た事実なのだと、ミストルは言う。
「例えば、手斧で魔物の群れを退治しに行った青年の話」
村の近くに、余所から来た魔物が巣を張った。
このままでは村に被害が及ぶが、討伐隊を頼むにも、魔物の巣の近くを通らねばならない。……そこで立ち上がったのが、日々ダラダラと過ごしていた村の青年。
「彼はね、怠け者だけど村を愛していた。だから明日も気持ちよく眠るために、自分で戦う事を選んだ」
結果として、彼はそれを成し遂げた。
村の者は怠け者だった彼を英雄として称え、大いに喜び……次の日から、また彼は怠惰な日常へと戻っていく。
その過程を、ミストルは確かにその眼で見たのだという。
「彼は特別な人間じゃなかった。本当に怠け者だったし、戦いの経験も無かった。それでも、勇気を持って踏み出すことを決意して、成し遂げたんだ」
それって凄い事だよね、とミストルは興奮気味に語る。
騎士の生まれではなく、妖精の加護も無い。それでも人は立ち上がり、時として英雄として多くのものを守り抜く。
その事実が、現実が、また誰かの勇気になるのではないか……と、ミストルは言う。
「それは、君も同じだ」
妹のため、命を懸けて戦う事を決意した兄。
そんなラクストの勇気に、ミストルは深く感心していた。
「僕は、君の勇気を確かめて……歌いたい」
手斧の青年のように、どこかの街や村でラクストの雄姿を語りたいのだと、ミストルは言う。……それこそが、ラクストがミストルに与えられる対価なのだ、とも。
「……」
打ち明けられたラクストの心中は、複雑だった。
ラクストにとって、妹の病気は物語でなく迫りくる辛い現実である。それを語ると言われても、正直言って扱いに困る。
とはいえ、自分の行いを……まだ成し遂げてはいないとはいえ……褒められるというのは、悪い気のしない事でもある。
「……アンタは、出来るって信じてんのか?」
ひとまず、そう問い返した。
するとミストルは、柔らかく微笑むと……あっさりと、頷いた。
「見てきたから。そういう人たちを。勿論、僕も手助けするしね?」
「……ま、いっか。成功したら好きにしていいよ。それでアンタが満足するなら」
結局、ラクストとしては苦笑するしかない。
悪い話ではないのだ。おかしな話ではあると思うが。
それよりもラクストの心を元気づけたのは、「そういう人を見てきた」というミストルの言葉だった。
(……不可能、じゃ、ないんだよな)
あまりに高い壁や、痛み、恐怖……
妹のためとはいえ、それらを前に身の竦む思いをしていたラクストとしては、ミストルの語る『事実』は確かに勇気づけられるものだった。
それから、成程と思う。
ミストルはつまり、自分のようなヤツの背中を押したいのだ。
それが正しい行いかどうか、ラクストには判断がつかなかったが……
今の所、自分にとっては良い話なのだろう。
「……よし、んじゃオレ、もう寝るわ。アンタは?」
「僕はもう少し。今日の事も記録しておきたいしね?」
「そっか。じゃー……また明日な」
ふぁ、と欠伸をして、ラクストは横になる。
励まされたお陰か、火の温かさか……不安を胸に抱いていたハズのラクストは、案外とすんなり眠りに落ちた。
「……不可能じゃない。僕が必ずそうさせるもの」
穏やかな寝顔を見て、ミストルは小さな声で呟き……ぱたりと、手帳を閉じる。
「だから、邪魔をしてもらうわけにはいかないんだよねぇ……」
それから、彼は暗闇の向こうを睨みつけた。
焚火の光が、ちらりと木々の向こうの目を照らす。
(数は……少し多いな。他の群れか?)
足音と潜めた息遣い。
魔物だろう、とミストルは理解して……それから、杖を手に立ち上がる。
「寝た子を起こすというのなら、声を出す前に首を落とそう」
呟く言葉の意味を、魔物は理解していないだろう。
けれどその一瞬。ミストルの放つ殺気のようなものが……彼らの身を、竦ませた。
*
「おはよう、よく眠れたかい?」
翌日の明朝。
目を覚ましたラクストに、既に起きていたミストルが声を掛ける。
眠った気はしなかった。身体は重く、気持ちも晴れない。
これからの道行きを思えば当然の事だ。ラクストは思いながら首を振って……
「……なんかあった?」
不意に、違和感を抱く。
嗅いだ覚えのある嫌な匂いが、空気の中に混じっている気がした。
「なにかって……なんだい?」
けれどミストルは、きょとんとした顔で首を傾げる。
問い返され、何という答えも出せないラクストは、結局その違和感を気のせいだと思う事にした。
きっと、自分の心が落ち着いていない証拠だろう。
ラクストはそう考えながら、川で顔を洗い、残っていた硬いパンを腹に詰める。
荒くごつごつした石をいくつかズボンに入れて、ラクストとミストルは山を登り始めた。
いよいよ今日こそは、ワイバーンの巣穴を探し当てる。
そして……ワイバーンを倒し、その牙を手に入れるのだ。
(もう少しだぞ、ルーネ……!)
ミストルの魔法で今も眠っているであろう妹を想い、ラクストは己の意志を確認する。
恐怖はあった。不安もあった。けれど他に道は無く、しかしこの道も不可能な道ではない。……やれる、ハズだ。言い聞かせながら、一歩一歩草をかき分け進む。
「傾向として、ワイバーンの巣穴は山の頂上付近にあるんだ」
歩きながら、改めてミストルが説明する。
ワイバーンはその飛行能力を活かすため、高所に巣穴を作る。
そして空から山中の獲物を探し、猪や魔獣などを狩って生きている。
「時々平原まで降りてくることもあるけどね。住処を追われた時とか」
「けど、そういう噂は最近聞いてねぇから……」
まずは山を登っていく。
それから、木々が開けた地形や、洞窟などを探して居場所を探る。
「後は鳴き声だね。独特の低くかき鳴らすみたいな声」
聞こえたら教えてね、とミストルは言いながら、ずんずんと奥へ進んでいく。
ラクストは遅れないよう気を付けながら後に続き、時折空を見上げた。
ワイバーンが、獲物を狙い周囲を旋回している場合もあるからだ。
(……に、しても)
ラクストは思う。五感を研ぎ澄ませながら獣道を進むのは、体力に自信のあるラクストでもなかなかの重労働だ。
だのに、目の前の細身の吟遊詩人は……先程から、ほとんど息を乱さず平然と前に進んでいる。旅慣れているから、なのだろうか。
「……外で生きるのって、大変なのか?」
「うん? ……村の外に行きたいのかい?」
「いや。オレは出ねぇよ。……ルーネもいるし」
村での暮らしは大変だったが、村の人間関係に助けられなければ、まだ若いラクストが妹を養うことは不可能だったろう。
そんな状況で、村の外に出るという選択肢は、端的に言ってあり得なかった。
自分一人ならば、個人の責任で挑戦できることもあるだろう。だがラクストは……少なくとも、ルーネに手助けが必要な内は……その傍を離れるつもりは無い。
けれど、気になった。
自分が見る事のない景色。出会う事のない生活。
そういった世界の中で、目の前の吟遊詩人はどのように生きているのか。
「大変は大変だよ。最低限、自分の身を守れる力は必要だし」
ややあって、ミストルが答え始める。
旅をするという事は、人間の生活区域を離れるということだ。
魔物や野獣……それに、山賊のような無法者たち。人の統治下から離れた途端、旅人は多くの脅威に晒されることになる。
それらから身を守れなければ、早々に旅人は屍へと変わるだろう。
そんなリスクを、進んで背負うものがいたとしたら……それは、やはり愚かで異様な事と言えて。
「信用も、無くなるね。何処まで行っても得体のしれない異物さ」
ラクストは頷く。前に聞いた通り、旅人は宿泊にも困ることがあるのだ。
何処の誰とも知れぬ、けれど魔物や野獣から身を守れる程度には力を持つ誰か。
それを恐れる人々の気持ちを、ラクストはよく理解出来る。なぜならば、本来自分もそちら側の人間だからだ。
ルーネの件が無ければ、きっと話しかけもしなかったろう。
思いつつ、ラクストは疑問を抱く。そこまで分かっているのなら、なぜ。
「なんでアンタは吟遊詩人なんてやってんだよ?」
「言ったろう? 僕は、世界には素晴らしい事が満ちているのだと伝えたいのさ」
ミストルは、振り返りつつ笑みを浮かべる。
ラクストには分からない理屈だ。ミストルの言葉が嘘も偽りも無い事実だとして……だからこそ、理解の及ぶものではない。
「それって、故郷とか……生まれた土地を捨てるほどの事なのか?」
「……もちろん」
こくりと、ミストルが頷く。そこでラクストは言葉に詰まった。
訊くべきでない所に踏み込んだ、と思ったのだ。
ミストルは表情を変えず……すぐに、くるりと背を向ける。
居心地の悪い間があった。何か別の質問でもすれば良いのだろうが、何を問うべきかラクストは迷う。
と……その時だ。
ぶぉんっ!
空が一瞬陰り、強く叩きつけるような風が二人を襲う。
思わず見上げた。青々とした空に、黒く長い尾がちらりと見える。
「……っ!」
ミストルが、息を呑む。
「ワイバーンかっ!?」
「いや違う。大きすぎる。それにこの感覚……」
眉根を寄せ、焦りを見せるミストルに、ラクストは戸惑った。
ワイバーンじゃない? けれどアレは確かに空を飛んでいた。
空を飛び、長い尾を持つ生き物なんて、そう多くはないだろう。
だったら何が……思っている時、山の奥から、二つの叫び声が響く。
「ギャルォォォォッ!!」
「グルォァァァァアッッ!!」
低くかき鳴らすような声と……それより重く、芯に響くような声。
明らかに別種の二つの鳴き声の、片方には心当たりがあった。
「声、あっちからしたよなっ!?」
ラクストは鉈で枝を切り落としながら、急ぎ先へ進む。
ミストルは僅かに躊躇った後、ラクストを追った。
どの道、ここで引き返すという選択はないのだ。
(あれがワイバーンの声なら……)
もう少しで、薬の材料が手に入る!
期待に胸を膨らませながら、枝をかき分け進んだラクストの目に映ったのは……
「……」
がりゅっ。
硬い牙が、骨を砕く音。
ほのかに熱い空気と、ぷすぷすと音を立てる炭化した木々。
赤黒い鱗を生やしたその尻尾は、先ほど空で見たものに間違いは無く。
「……ミストル。アイツが喰ってるのって……」
その足元に転がっているのは、首を失った一回り翼を持つ生き物。
身体は傷つき焼けていたが、二本の足と翼と化した前脚という形を見れば、物体と化したそれが何だったのかには見当がつく。
ワイバーンは喰われていた。
彼より一回り大きな巨躯と四つ足、そして翼を持つ魔獣によって。
ドラゴン。
ワイバーンより一段階上の危険性を持つ、空の支配者。
「……グルゥ……」
ドラゴンの瞳が、二人の人間を捉える。
途端、ラクストの身体は蛇に睨まれた蛙のように竦んでしまう。
頭の中が真っ白になり、何をすべきかも分からない。
死ぬ、とだけ思った。それだけは理解出来た。
こんな生き物に、ただの村人である自分が勝てるハズなど無いのだから……
「ラクスト! 退くんだ!」
「……ぃ、……ぁ、足が……」
ズダンっ! ドラゴンのツメが地面を蹴る。
眼前に迫る牙の中に、ワイバーンの血肉がこびりついていた。
目を背ける事も叶わず、絶望に全身を塗り固められた、刹那。
「……仕方ないな」
溜め息と共に、吟遊詩人が前に出た。
詩人が手にした杖を振るうと、バンという破裂音と共に、目の前に小さな爆発が起こる。
「わっ……!?」
その爆発の衝撃で、ラクストは後ろに吹き飛ばされる。
いや、ラクストだけではない。ドラゴンも不快そうに顔を背け、足を止めていた。
「ああ、やっぱり花火程度にしかならないか」
ラクストとドラゴンの間に立つミストルは、分かり切っていた事だと言わんばかりに呟いて……くるりと、杖を手の上で回す。
「グルルァァッ……!」
食事を邪魔され、あまつさえ攻撃を受けたと感じたドラゴンは、目前の吟遊詩人に敵意の声を上げる。
けれどミストルはその怒りに気圧されることなく、回した杖をぱっと宙に放り投げる。
「じゃあ、こっちで行くしかないよね」
中空で回転する杖は、一瞬にして銀色の剣へと姿を変えた。
ミストルは銀剣を手に取ると、たんっと軽いステップでドラゴンとの距離を詰める。
それから、すぱんっ。ミストルの剣はいともたやすくドラゴンの鱗を断ち、その鼻先を血で濡らす。
「グルォァァッ……!?」
驚き、二、三歩と後ずさるドラゴン。
ミストルはそれを追い、続けざまに眉間へ剣を突き立てようとして……止める。
「……?」
ラクストは、ただただ戸惑っていた。
ドラゴンの登場も、鼻先を掠めた死も、ミストルの戦いも。
理解したのは、その一瞬、ミストルがトドメを刺す事を躊躇ったという事。
そしてその一瞬を、ドラゴンは見逃しはしなかった……ということ。
ドラゴンの口内が赤く光り、ちらちらと火の粉が舞い散った。
「おっと、これはマズい」
それを見たミストルは、くるりと剣を逆手に回し、ぴょんと後ろに飛びのいて、ラクストのすぐ傍へと戻る。
それから、ドラゴンは大きく息を吸い……火炎の息を、吐き出した。
ぶわっ! 迫る熱波と炎光に、思わずラクストは目を背ける。
が、その炎が二人を襲うことはついぞ無かった。
何故ならば、炎はミストルの手前で……彼の生み出した光の壁によって、阻まれていたから。
やがて炎が晴れると、同時にドラゴンが空へと飛翔する。
ミストルはそれを見上げ、ふぅと息を吐いた。
「とりあえず、命は助かったね?」
苦笑し、振り返るミストル。
手を差し伸べられたラクストは、彼の顔を手を見比べて……
「……いや、ふざけんなよ」
手を取らず、自らの足で立ち上がった。
「おや、怒ってる?」
「……っつーか、おかしいだろ。なぁ、アンタ……」
ドラゴンが現れた。それは良い。
ドラゴンがワイバーンを喰ってしまった。理解は出来る。
ドラゴンを前に生き残ることが出来た。それ自体もまぁ、幸運な事だろう。
「……戦えたんだな?」
ラクストが納得していないのは、それだった。
銀の剣を手に、爆破や壁の魔法を操りドラゴンと対峙して見せたミストル。
その手業は鮮やかで、とても戦い慣れしていない人間のそれとは思えない。
一回り以上大きなドラゴンを相手にあれならば、ワイバーンを相手とすればまず間違いなく、簡単に勝利を収めていてだろう。
で、あるならば。
どうして自分だけが前に出て、恐ろしい思いを堪え戦う必要があったのか?
戦いが苦手な振りをして、回復だけして自分を戦わせていた理由は、なんだ?
「なんで隠してたんだよ」
「……頼るだろう、それを知ったら」
問われ、ミストルはあっさりと答えた。
「それじゃダメなんだ。前提が崩れる。英雄は僕じゃない。僕であってはならない。そんな物語には何の価値も無い」
微笑みを浮かべたまま、穏やかな口調でミストルは言う。
その言葉の一つ一つが、ラクストにとっては意味の不明な異国の言葉に思えた。
「言ったろう? 僕の願いは一つだけさ」
世界には、素晴らしい事が満ちている。
勇気が。思いやりが。ただの凡人でも成し遂げられる栄光が。
それを歌うため。それを語るため。それを事実と騙るため。
「君でなくちゃならない」
戦わなかった理由はそれさ、と。
吟遊詩人は、悪びれもせず言い切った。
*
「アンタはクソ野郎だ」
一呼吸置き、ラクストが放った言葉がそれだった。
「オレやルーネは、アンタの為の『物語』なんかじゃない」
「そうとも! 一から十まで作り事じゃあ無意味だからね」
怒りを滲ませたラクストに、けれどミストルは何でもない事のように頷いて見せる。
罪悪感など微塵も感じないその態度に、ラクストはピクリと眉を動かした。
「僕は手を出したく無いんだ。干渉すればするほど、それは本物から遠ざかっていく。……けれど、けれどね? 動機さえ本物であれば、きっとそれは真実だと思わないかい?」
「知るかよ! 本物とか真実とかどうだって良い!」
これ以上コイツの話を聞いていると、気がおかしくなりそうだ。
ラクストは苛立ちを露わにしながら、けれど一つだけミストルに問う。
「……ルーネの病気は、アンタが仕組んだのか?」
無論、ルーネの病気はミストルが来る以前から発症していたものだ。
けれど彼女が急変したのは、ミストルが家に訪れてから。何かしらの細工をしたのだとしても、不思議ではない。
「もしそうなら、オレはアンタを……」
「病気は事実さ。君にとっては残念かもしれないけど」
問われたミストルは、ラクストの瞳を見てハッキリと答える。
病の原因が魔力にあること。
病を治すには、火の魔力を持って体内魔力のバランスを取り戻す必要があること。
……そのためには、ワイバーンの牙が必要であった事。
それは決してミストルが仕組んだ偽りではなく、事実なのだ。
「最も、証明する手段を今は持っていないけれどね」
「……なら、やっぱ嘘って可能性もあるのか」
「ある、のかなぁ。そもそも僕、君に嘘なんて一つも吐いていないんだけどね?」
「戦えないって嘘吐いてたろ!」
「いいや? 普段は戦わないって言っただけさ」
そう言われ、ラクストはミストルとの会話を思い返す。
確かに、自分がミストルに問うたのは「一人の時はどう対処しているのか」だけだった。戦えるかどうかは確認していなかったし……もしかしたら、一人の時は本当に戦わずに逃げているのかもしれない。
「嘘は嫌いなんだ。隠し事はするけどね。だから……うん、驚いたかもしれないけれど、君にとって状況は何一つ変わってない。そうだろう?」
妹の病気を治すため、薬の素材を手に入れる必要がある。
そのためにはミストルの力が必要で、ミストルは金銭ではなくラクストの雄姿を報酬に力を貸してくれている。本当ならミストルに手伝うだけの義理は無く、ラクストが独りで戦う事になってもおかしくなかったのに。
……そう、確かに何一つ変わらないのだ。
ミストルが手を抜いていると判明した以外、何一つ。
(……タチが悪い)
ラクストは内心溜め息を吐く。
ミストルはクソ野郎だ。性根が腐っているとしか思えない。
けれどそれでも、ミストルは依然ラクストの味方だった。
それも、ラクストが今頼れる中で、まず間違いなく最も頼りになる味方。
彼レベルの実力者を雇おうとすれば、いくら必要になるだろうか。恐らくは、ラクストの一年間の収入を捧げても足りはしないだろう。
「もし納得がいかないというのなら……仕方がない。下山するなら守りはするよ。話にならないというのなら、君に戦ってもらう必要も無いからね」
「……薬が欲しいっつったら?」
「ほどほどに手伝うとも! 君が自分の力でどうにかした、と言える程度には」
「一発殴らせろ!」
「嫌だよ痛いもの」
本当に……コイツが自分を騙しているだけの悪人だったら、どれほど気が楽な事か。
ラクストは内心に腹立たしい思いを抱えながら、しかし決断を下さねばならない。
妹を治す方法が事実だと証明する手段は無い。
だがミストルが嘘吐きでないとするなら、もう一刻の猶予も無いハズで……
……結局の所、ラクストにはミストルを嘘吐きだと判断する事が出来ない。
「……で、どうすりゃいいんだよ!」
腹立ち紛れに荒々しく、ラクストは怒鳴るように言い放つ。
ふふ、とミストルは笑みを浮かべ、「そうだねぇ」と思案した。
否。本当はとっくに決まっているのだろう。考えているのは、その筋道が彼にとって面白く、素晴らしいものであるかどうかでしかない。
「まず、ワイバーンの牙はここにはない。ドラゴンが食べちゃったからね」
「……一応聞くけど、爪とか鱗で代用出来ねぇのかよ」
「そうだねぇ。そしたら僕も遺憾ながら帰る所だけど……爪や鱗じゃ効果は期待できない。火を浴びていないから」
ワイバーンの牙は、彼らが火を吹く際にその炎熱を浴び続ける部位でもある。
その、炎熱を浴びるという経緯によって火の力を蓄積するのだ。
「知識があれば内臓を切り分けて使えるんだけど、火を吹くのに使うという部位はとても危険で、少し傷つければ爆発してしまう。これも無理」
竜は火薬のような性質の粉を体内で生成していることもあり、それを用いる事が出来れば十二分に対応は出来るハズだった。……が、そもそもその粉は、摘出の過程を間違えれば暴発して消えてなくなるというのだ。
故に、慣れていないミストルやラクストにその作業は出来ない。
「なら、どうするか? ……普通なら他のワイバーンを探すところだけど……」
「……見つかるのか?」
「難しいね。ドラゴンがここに来たのは、多分ワイバーンを捕食するためだろう? しばらくはワイバーンたちも落ち着かないと思う」
それどころか、とミストルは付け加える。
捕食者の登場により、彼らは怖れ慄いて山から逃げ出すかもしれない。
もしこの山からワイバーンがいなくなれば、その後の捜索は困難を極める。
仮に見つけられたとして、とっくにルーネの体力が限界を迎えているだろう。
「とはいえ、僕らにもまだ可能性は残されている」
そう言って、ミストルは焼け焦げた木々の間から、何か小さなものを拾い上げた。
ドラゴンの鱗である。おそらくは、ワイバーンと戦う際に剥がれ落ちたのだろう。
「……まさか」
それを見て、ラクストは心の底から嫌な予感を覚える。
いいや、分かってはいたことなのだ。正直言って、ミストルが喋り出した時にはもうその結末は読めていた。
「筋書き変更! ここからは英雄譚の王道、ドラゴン退治と行こうじゃないか!」
ドラゴンを倒し、腹に眠るワイバーンの牙を手に入れる。
いやさ、ドラゴン自身の牙を使うのでも良いかもしれない。四つ足竜ともなれば、その体素材の質はワイバーンの比ではない。
当然ながら、その実力もワイバーンとは比べものにならないわけだが……
「なぁに、心配は要らないさ! 所詮は火を噴き空を舞い鱗が硬く図体がやたらとデカいだけのタダのトカゲ! ワイバーンが倒せるならどうにかなるとも!」
「ワイバーンも倒せねぇんだよ普通はッ! 大丈夫な要素が一つもねぇッ!」
頭を抱える。正体がバレたからか、ミストルは遠慮というものがなくなっていた。
「っつーかアンタもさぁ! 無理あるって分かるよな!? ンなの仮に実現しても誰も実話だとか思わねぇからな!?」
遠慮が無くなったのはラクストも同じであったが。
力を貸してくれる優しい大人、というイメージや尊敬の念は彼方に消え去り、年上とはいえ、ミストル相手に気を使うという考えはもはや欠片も残っていない。
「あっはっは! 確かにそうだけど、事実は事実だもの!」
「何がおかしいんだよこっちは生きるか死ぬかなんだぞ……!」
どうしてこんなヤツを一時でも信用してしまったのだろうか、とラクストは後悔する。
どう後悔した所で、この男に頼らず妹を救う手立てなど、やはり無かったのだけど。
そして、ミストルの本性を知ってしまったからこそ……
「いやいや、君は死なないさ。僕が必ずハッピーエンドに導くもの」
「っ……!」
彼のこういった言葉に、真実味を感じてしまう。
一瞬安心してしまって、それからその事実に酷い不快感を覚える。
どうにかして、この腐れ吟遊詩人に痛い目を見せる手段は無いものか。
ラクストはそう思いながら、ミストルの語る、ドラゴン退治の作戦に耳を傾ける。
*
ドラゴンの居場所を割り出すのに、そう時間はかからなかった。
「鱗が残っていて助かったよ。竜種は鱗にも微小な魔力はあるからね」
そう言って、ミストルは手のひら大の羅針盤のような道具に、砕いた鱗を振りかける。
と、羅針盤の針は引き寄せられるように一点を指し示す。
同じ魔力の持ち主……つまり、鱗の主であるドラゴンの居場所を示しているのだ。
「後はこれを追うだけ。簡単だろう?」
「……ワイバーンもこうして探せなかったのかよ」
「どこかで鱗が拾えればねぇ……都合のいい道具じゃあないのさ」
それから歩き続け、針が強い反応を示したのは、山肌に空いた洞窟の中。
ミストルは「ふぅむ」と考え込んで、ちらりとラクストを見遣る。
今ならば引き返せる、という意味だった。ラクストは視線を感じつつ、敢えて無視して先に一歩を踏み出す。
「……よし! それでこそだ!」
「うるせぇ。ルーネの為なんだよ!」
楽し気なミストルに、ラクストは苛立ち紛れに言い返す。
本人も無自覚な事ではあったが、こうして言い合っている間は、ラクストは不安を感じずにいられた。あれこれと思い悩む隙間が無くなるからだ。
(さて、これもう足は止まらない、かな)
ミストルとしては、そうなるよう仕向けた面もあったが……当然、口にしない。
出来るだけ自然に、可能な限り本人の意志と力で、前へ前へと進めたい。
ミストルの願いを思えば、過剰な誘導や力の誇示は望む所では無かった。
仮にそれで目的を成し遂げたとして、それはラクストの物語ではなくなる。
故に、最小限・最低限の手助けを。……そう出来ない場合もあるが。
(相手がドラゴンじゃあねぇ……)
それなりの介入も覚悟しなくてはならない。
というより、もうさせられているのだ。あんなハプニングが無ければ、今頃ワイバーン退治を終わらせて結末に至っていたハズなのに。
(上手く行くことばかりじゃないね、どうにも)
だからこそ、その中で光る輝きに目を奪われるのだが。
ミストルは、一歩先を歩くラクストに目を向ける。
自分をクソ野郎と罵り、性根が腐っているとまで言い放ったラクストに、ミストルはむしろ好印象を抱いていた。
(……彼は、僕に願わなかった)
ただ、それだけの事で。
当然、ラクストはミストルの助力に期待しているだろう。
けれどミストルは、彼に対し手を抜く事を半ば宣言したも同然だった。
そしてラクストは……戦いを恐怖しながらも、結局はそれを受け入れた。
妹のために他に選択肢は無いと、彼自身は感じているだろう。けれど……
(そう選択できる人ばかりじゃあ、ないんだよ)
ミストルはそれを知っている。
知っているからこそ、思う。
彼は英雄になるべきだ、と。
そして彼の雄姿を語るのだ、と。
暗い洞穴を進むと、やがて広い空間に出た。
天井は開け、濃いオレンジに染まった光が差し込んでいる。
その光の下に、それはいた。
「……グルゥ……」
一目見た瞬間、こちらに怒りと敵意を向けて。
「さぁやろう、新たなる英雄君!」
「それ、バカにされてるようにしか感じねぇから辞めろ」
ドラゴン退治が、始まった。
*
端的に言って、鉈でドラゴンに勝つのは不可能である。
並々ならぬ膂力の持ち主や、特異な加護を与えられた者であれば可能性はあろう。
けれど戦うのは、何の祝福も持たぬ凡庸な少年である。
どう足掻いても、硬い鱗を破り刃を肉に届かせることは不可能に等しい。
仮に届いたとして、竜の巨体に対しその刃は余りにも小さい。
つまり……ラクストは、ただ戦えば確実に死を待つ身なのである。
「――『しかしそうはならない』」
凛とした声が洞穴に響く。
ラクストは同時に地を蹴り走り始めた。
竜と少年の距離はまだ少し遠い。まず距離を詰めなければ話にもならない。
そんな彼に、ミストルは背後からポンと杖を投げ出した。
少年が杖を掴むと、途端にそれは銀の剣へと姿を変える。
「グルゥ……!?」
ドラゴンは、その剣を見て目の色を変えた。
覚えていたからだ。銀の剣が自らの鼻先を斬った事実を。
瞬間、ドラゴンの頭を支配するのは……紅蓮の怒り。
口腔に熱が溜まり、燐光と火の粉がちらついた。
洞穴に身を隠す場所は無い。あったとして、竜の火炎を前に意味も為さないだろう。
「『故に少年は、跳んだ』」
言葉と共に、ミストルはふわりと右手を上げる。
その手の中には、白く立派な羽根のペン。
「グリフォンの風を、ここに」
呟きながら、ミストルは中空に文字を描き出す。
魔力の籠ったインクによって、綴られた言葉は力を持ち……突風が、吹き荒れた。
「のわっ……!」
風はラクストの小さな体を軽く浮き上がらせる。
ドラゴンのブレスが地面を焼いたのは、そのすぐ後だ。
眼下が赤く焼け焦げる様に、熱の余波を感じつつも肝を冷やす。
「『正確には、飛ばされた。洞穴に風が吹いたのだ。なんと幸運な事だろう』」
「白々し過ぎんだろ!?」
「『これを好機と見た少年は、中空で体勢を整え、手にした剣を逆手に持ち替える』」
「あーもうっ!」
ミストルの語りに合わせ、ラクストは剣を逆手に持った。
風の魔法は火炎の気流でかき乱され、力を失ってゆく。
ラクストが落下するその先は……ドラゴンの、頭上。
「『勢い、少年の刃はドラゴンの頭骨を砕』――』」
けれどドラゴンは、それを警戒し、翼を振るいながら上体を持ち上げる。
自然、ラクストの刃の先は地面という事になるが……
「はぁ。素直にやられて欲しいものだね?」
もう一度、ミストルがペンで呪文を書くと、突風によってラクストの身体は更に奥へと飛ばされる。
「ぶわっ……!?」
「『少年の刃は、ドラゴンの顎を貫いた』」
「っ、はいはいっ!」
突風の勢いに任せ、ラクストは刃の向きを変える。
ざしゅっ! 語りの通り顎に刃が突き刺さると、ドラゴンは呻き暴れる。
「わっ、た、た……!? おいコレどうすんだ!?」
「蹴って抜くんだよ! 着地は心配しないで!」
「人の身体をなぁ、アンタはなぁっ……!」
悪態を吐きながらも、言われた通りドラゴンの顎を蹴り、反動で剣を抜く。
ぶしゃりと噴き出る血を浴びながら、その身体は真っ逆さまに地面へと落下。
「『落下はしない。少年は両の足で着地した』」
言いながら、ミストルがため息混じりに駆け出した。
ラクストが地面に落ちるより先に、その真下へと辿り着いたミストルは、彼を掴むと、ひょいと少し後ろへ投げる。
たんっ。ラクストはミストルの宣言通りに着地して……じぃ、とミストルに不満げな眼を向けた。
「今投げる必要あったかよ」
「おんぶに抱っこが良いのかい? ダメだよ英雄がそんな事じゃあ」
「……てか、後ろ」
肩を竦めるミストルに、ラクストが忠告する。
攻撃を受けたドラゴンは、怒り狂って前脚でミストルを叩き潰そうとしていた。
「あぁ、うん」
けれどミストルは、それを見もせず軽く躱すと、ズドンと音を立てる右前脚に「おお」と感嘆の声を上げる。
「この迫力! やはりドラゴンは英雄譚の花形だねぇ」
身を乗り出し、叩きつけられた前脚を観察しようとするミストル。
だがドラゴンは、身を捻り、そんな彼へ尾の一撃を叩きつけようとした。
ぶぉんっ! 風を裂く尾は、勢いのまま洞穴の壁に叩きつけられる。
ズドンと低い音がして、洞穴の壁は罅割れ、ばらばらと崩れる。
ミストルはと言えば……その一瞬で、既にドラゴンから距離を取っていたけれど。
「強さも大きさも十分! あとはどうリアリティを出すか、だね」
「アンタの話、真っ赤なウソだもんな?」
「嘘ではないとも。君が戦い、勝利する。全ては真実で……けれど、難儀なのだよねぇ」
事実であれば信じて貰える、というものでもない。
荒唐無稽と思われてしまえば、如何にラクストを英雄に仕立て上げようにも疑念が残ってしまうものだ。
「諦めてアンタが倒せば?」
「それだけはお断り。僕は英雄なんてもう真っ平だからね!」
ミストルは笑いながら言って、「そうだ」と手を打つ。
「君が倒すとおかしいのなら、やっぱり偶然に頼ろう」
「ご都合主義」
「まぁまぁ、時として運の良さも英雄には必要なものさ!」
言いながらミストルは洞穴の状況を素早く確認する。
その間、剣を持つラクストはドラゴンの標的となってしまった。
もう一度ブレスを吐こうとするドラゴンに、ラクストは焦る。
「なぁアレ! アレどうすんの!?」
「ん? ドラゴンの懐に潜り込むと良いよ」
「なんっか怪しいんだよなぁッ!」
叫びながら、足が震えそうになるのを堪え駆けるラクスト。
ブレスが放たれる前に、ずざぁと音を立て身体の下に潜り込む。
「グルッ……!?」
標的の姿を見失ったドラゴンは、けれどブレスを放たずにおれない。
口内で火炎を長く保ち続ける事は、如何にドラゴンと言えど不可能だからだ。
そして、ラクストの次に狙われる相手と言えば、ミストルしかいないのだが……
ごぅっ! 放たれる火炎を、けれどミストルはその場を動きもせず、光の壁で受け止めた。
「それでね、ブレスを防いだらすぐに出た方が良いよ」
「えっ、なんて!?」
「あっ……聞こえてない……?」
ブレスの音で、ミストルの声は届かなかった。
ラクストは全身にじわりと嫌な予感を覚えるが、けれどどうすべきが分からない。
考えている間に……ラクストの位置に、ドラゴンが勘付いた。
「ヤッベ……!」
ずざっ! ラクストは置き土産とばかりにドラゴンの腹部を切り裂いて、それから這い出そうとするが……遅い。身をよじり、身体の下の邪魔ものを排除せんとドラゴンのツメがラクストを襲い、ラクストはそれを避ける事が出来ない。
「ぐ、がっ……!」
ぶちっ! イヤな音がして、ラクストの体中の骨が砕ける。
痛みに意識を奪われそうになる刹那、彼の身体を光が包んだ。
「あー、大丈夫かい?」
言いながら、ミストルは突風を吹かせてラクストの身体を壁に叩きつけた。
その衝撃で失いかけた意識を取り戻しつつ、ラクストは治っていく身体を見て身震いする。
「なぁ……オレ、今ほとんど死んでなかったか……?」
「うん。……嫌になった?」
「……最初からずっと嫌だよ」
ため息を吐く。肩を抱いて震えていたかったが、目の前の状況はそれを許さなかった。
せめて剣を持ってない方の腕で肩を抱き、よろよろとドラゴンから距離を取るラクスト。
ただの一撃でも、下手を打てば死ぬ。当然の事だが、こうして死にかけると恐ろしさは段違いである。
「……一応、聞くけどさ……」
「あぁ。即死なら僕も助けられない。頭蓋には気を付けて」
「……だよ、な……」
ミストルの助けは、決して不死身を意味しない。
確認したラクストは、聞かなきゃ良かったと己の質問を後悔する。
「立てなくなったら、守るものを思い出すと良いよ」
「……それもアンタの筋書かよ」
「いいや? 経験則。英雄って呼ばれた人たちのね」
見てきたもの、と笑うミストルを見て、ラクストは思う。
自分はとんでもない狂人と手を組んでしまった。人生で今が最も最悪な日だと断言出来る。けれど何よりも腹立たしいのは、どこまで行っても自分はミストルの言葉に動かされてしまうのだ、という事で。
「……ルーネのため、だよな」
妹の顔を思い浮かべれば、震えは半分くらいに収まった。
どうにか走れて、どうにか剣を持てるくらいに。
それが限界だなんて情けない、とラクストは自嘲するが、ミストルは違う。
「……うん、素晴らしいよ君は。本当に素晴らしい」
感動したように言う彼を見て、ラクストは心底うんざりした。
なんなんだ、コイツは本当に。どうしてここまでさせる? 他にやる事は無いのか?
彼の力なら、もっといろいろと大きな事が出来そうなものなのに。
疑問はけれど、言葉になる前に霧散する。
「グォアアアアアアアッッ!!」
ドラゴンの咆哮が響いたからだ。
その雄叫びは、声だけで洞穴の全体を震わせ、砂埃を舞わせる。
どんな喉してるんだ、とラクストはだんだんドラゴンにも腹が立ってきた。
「コイツがいなきゃオレもさぁー……!」
適当に騙されて、乗せられて、英雄面して帰れたかもしれない。
癪だけど、そっちの方が楽だった。絶対にこんなキツイ思いはしなかった。
「そうそう。むしろ怒ってたくらいの方が良いよ。力が湧く」
「一番ムカつくのアンタだけどな!」
「良いとも。上手く行ったら一発くらい殴られてあげる」
あっけからんとした物言いは、ラクストの怒りを増幅させるには十分だ。
怒りは不安や恐怖を誤魔化し、身体に力を与える。
守るべき何かと、誰かへの怒り。英雄を形作るのには十分な要素だと、ミストルは内心でほくそ笑む。
「さぁ、それじゃあそろそろ結末にしよう! 作戦は……やっぱり『偶然』が良さそうだ」
「『偶然』ね。はいはい」
どの口が、とラクストは思いながら頷いた。
コイツの言う偶然なんて嘘っぱちだ。
嘘は嫌いと言いつつも、事実を騙る事に余念が無いのがあの吟遊詩人だろう。
だがこの際はそれでも良い。その先に妹の幸せが待っているなら、今は人形にでもなんでもなってやるさ。内心沸々とした怒りを感じながら、ラクストは深く息を吐く。
「『このままではいけない、と少年は考えた。このまま戦っていても、自分の刃はドラゴンに届かない。ならばどうする? 少年は諦めず、考えた』」
(考えたのはアンタだろ)
それが嘘じゃなくて何なんだ、とラクストは思う。
けれどミストルにしてみれば、ラクストが諦めていないのは事実だし、考え事くらい当然してるだろうと目算していた。嘘は吐いていない。印象が違うだけで。
「『ここで折れれば妹の病気は治らない。必ず方法はあるはずだ。戦いの中、怒るドラゴンの咆哮を耳にした少年は、ふっと思い立った』」
(何をだよ。作戦なら全部元から立ててたじゃんか。オレはただ、アンタの力を利用してるだけで……)
「『自分の力で届かないなら、より強い力を利用しよう』」
(……っ)
「『少年はまず、一直線に駆けた』」
(あぁもう、全部お見通しかよ!)
ラクストは走る。どうすべきかはもう聞いていた。
全ては茶番だ。ミストルが本気で戦えば済むような話だ。
それでも自分がアイツに向かっていく理由はなんだろうと、そんな事が脳裏に浮かぶ。
「『恐怖に足が止まりそうになると、妹の顔が頭に浮かぶ』」
そんな言葉を後ろで吐かれて、妹の事を思い出さずにいられるだろうか。
何が英雄譚だ。他の奴らももしかして、こうやって戦わざるを得ない状況で戦わされてたんじゃないのか。やはりアイツの性根は腐ってる。
『ドラゴンがブレスを放とうとしたその時、少年は手にした武器をドラゴンの顔へ投げつけた』
剣を投げる。狙いはメチャクチャだったけれど、ミストルが風で修正した。
剣先は真っ直ぐにドラゴンの瞳へと向かい、火炎の準備をしていたドラゴンは、それを避ける事が出来ず……
『目を潰されたドラゴンは、雄たけびを上げながら暴れ回った』
それによって、洞穴内に強い振動が響き始める。
更には、暴れたドラゴンの前脚や尾が、壁に叩きつけられる。
『その時だ。洞穴の天井が、その衝撃に耐え切れず、崩壊を始めた』
見上げる。亀裂の走った天井は、確かにドラゴンによってミシミシと音を立て始め……
「……。あれ」
けれど、岩が落ちはしない。
……持ちこたえたのだ。ドラゴンの声や咆哮を受けて尚、天井は健在である。
「グルォァァァッ……!」
後に残されたのは、片目を潰され怒り狂ったドラゴンが一匹。
剣は手元にない。ラクストは振り返るが、ミストルは肩を竦めるだけだ。
「いや、おい……」
失敗した? ここまでやらせておいて?
妹の病気はどうなる。死ぬほど痛い目を見た甲斐は?
「……ざっけんなよ!」
こんな所で、終わってたまるか!
ラクストはズボンに突っ込んでいた石を取り出し、無我夢中でドラゴンに投げつける。
それはもう、ただの自暴自棄だった。どうにかなるとは微塵も思っていなかった。
『それでも、偶然は味方してくれた』
小さな声は、ラクストに聞こえぬよう呟かれる。
石は偶然にもドラゴンのもう片方の目に激突し、これを潰したのだ。
再度の攻撃によって暴れるドラゴン。一度は持ちこたえた天井もそれには耐えきれず、大岩がドラゴンの頭上から降り注ぐ。
……結果、その大岩に圧し潰される形で、ドラゴンは息絶えた。
刃は届かなくとも、その力を利用することでドラゴンを倒す事が叶ったのだ。
「……あぁこれで、僕の剣の事は誤魔化せるね」
言いながら、ミストルはドラゴンの瞳に刺さった己が剣を引き抜く。
「……」
ラクストはと言えば、ただ茫然と立ち尽くしていた。
今起こった事が何なのか、理解できずにいたからだ。
「ええと……これも、アンタの作戦の内?」
「どうかなぁ。僕は偶然に頼ると言った。それだけの事だよ」
ただ一つ言えるのは、とミストルは続ける。
「君が諦めなかったから、この結末に導けた。
だからね、ラクスト。君は間違いなく、この英雄譚の主人公なんだ」
*
それから、苦戦しつつも竜を解体し、薬の材料を得る事に成功した。
同時に、持ち帰ったいくつかの竜の体素材を売ることで、ラクストたちはしばらくの間生活に困らない程度の金を得る事にも成功し……
「ねぇ、お兄ちゃん。あの吟遊詩人さんはどこへ行ったの?」
「もう旅に出たよ。一発殴る前に」
やっぱりアイツは嘘吐きなんじゃないか、とラクストは思う。
全て上手く行ったら、一発くらい殴らせても良い、って言っていたのに。
「そっかぁ。もう少しあの人のお話、聞いて観たかったのに」
「やめとけやめとけ。あんなモン全部作り話なんだから」
ミストルは今もどこかで英雄を語っているだろう。
けれどそれは全部、ミストルが都合の良いように誘導したお話に過ぎない。
「英雄語りっていうか、英雄騙りだな、アイツは」
今もどこかで、ミストルは自分の事を騙っているのだろうか。
そう思うと、むず痒いような気持になってしまう。
「……でもさぁ。お兄ちゃんがドラゴン退治したのは、本当の事じゃないの?」
「だーかーら! それはアイツが無理にやらせたことでだな……?」
「けど、お兄ちゃんがやるっていったから、わたし今元気なんだもん。一緒だよ」
「……あー……」
――動機さえ本物であれば、きっとそれは真実だと思わないかい?
ミストルの言葉を思い出す。
そうか、そういう意味か。
「やっぱアイツ、タチ悪いな」
*
「――さぁさぁ、そろそろ夕食の時間だ。僕の話は、これでお終い」
集まった観客を前に、ミストルはそう言って一礼する。
ばらばらと捌けていく街の人々の背をにこやかに見送りながら、ミストルはたった今語った演目について思いを馳せる。
(きっと、タチが悪いって思われるだろうなぁ)
妹のため、ドラゴンに立ち向かい幸運にも勝利した少年の話。
ある者にとって、それは作り話に過ぎないのだろうけど。
「僕は、嘘は嫌いなんだよ……ラクスト」
ミストルは英雄をかたる。
今までも、これからも。
【終わり】