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【Ultraman Rising】感想/その違いはカラータイマーに

公開から少し経ちましたが、ようやくNetflix映画『Ultraman Rising』を観ました!

アメリカ主導によるアニメーション作品のウルトラマン。果たしてどんな作品になってるのか興味津々でしたが、いやはや面白かった。

物語の骨子はアメリカ映画らしい作りで、根柢の価値観もやはり日本の作品とはどこか違う。けれど画面上の日本の解像度は高く、日本人特撮ファンには馴染み深い小ネタも多々含まれている……不思議な味わいでしたが、主人公・ケンと赤子怪獣のエミを始めとした『父親たち』の物語が丁寧に描かれていたように思います。クライマックスのバトルも熱かった!

一方で、ウルトラマンのウルトラマン性というか、『ウルトラマンというヒーロー』であることの意義は薄かったのかなぁ、とも。作中では「調和を保つことを使命とした存在」と描かれてはいますが、それはこの作品のウルトラマン観というより、この作品の怪獣観の描写であったと思います。
なぜケンの父はウルトラマンとなり、ケンもウルトラマンになれたのか。そういう描写は(狙ってのことでしょうが)避けられていて、物語はケンという人間の視点で描かれていく。

「父と子の家族愛」の物語である以上、常に物語の前面に出てくるのはヒーロー・ウルトラマンでなく、父であり息子であるケンという一人の人間となる。もう少し正確に言えば、本作はウルトラマンと人間を完璧に=で結んだ描写をしていたように思います。それ故に『Ultraman Rising』において、「ウルトラマンとはどういう存在なのか?」というものを示す要素は薄く、一方で要素が整理された事で物語の強度はより高まった、という印象です。

私個人としては、アメリカ作品でウルトラマンというヒーローがどう解釈されるか?という部分に関心があったので(アメコミウルトラマンの「ULTRA+MAN=ULTRAMAN」とか好きだったし)、この点が薄かった事はやや残念……なのですが、本作が海外の「ウルトラマンをあまり知らない視聴者」に届けられるのだと考えると、本作の描写のバランスにも納得が出来ます。
「日本で長年活躍し、愛されているヒーロー」。それだけを視聴者に伝え、『ウルトラマンとはなにか』に関して語るのは別の機会におく。一本の映画としての完成度を優先し、ウルトラマン入門編として分かりやすい物語にする。もちろん、まったく語らないわけではなしに。

ひとつ、この作品の特色ともいえるウルトラマンの設定があるんですよね。本作のウルトラマンのカラータイマーは、エネルギーでなく心に左右される。心の乱れがカラータイマーを鳴らし、何かを守りたいと願う強い心がタイマーの光を強める。

ウルトラマンにとってのカラータイマーは、基本的には弱さの象徴だと私は考えています。ウルトラマンは無敵の存在ではない、と明かす光。カラータイマーが鳴るからこそ、ウルトラマンがどれだけ力を振り絞って戦っているのか人々は理解できるし、応援もする。『Ultraman Rising』ではその逆で、カラータイマーはウルトラマンの人としての心の弱さ・動揺を示すもので、それらを乗り越えて「鳴らなくなる」ことに強い意義を持たせている

このカラータイマーの設定の違いに、私は本邦のウルトラシリーズと『Ultraman Rising』のウルトラマン観の違いを感じています。出来ることなら、こうしたウルトラマン観の違いから来る独自の物語をもっと観たいなぁと思うのですが、そのあたりは次回作があれば、なのでしょうね。


怪獣観の方はかなりハッキリした違いを感じました。
怪獣とは「守るべき自然の存在」で、それを倒そうとする防衛隊は(ウルトラマン側から見れば)悪役として描かれている。
もちろん日本でも『ウルトラマンコスモス』や『X』のような作品はありますし、怪獣を一方的に撃滅することを善としてはみていない……のですけれども、一方で怪獣は人類よりも強い存在であり、基本的には「保護すべき存在」などではない。ここの違いは大きい。

本作の目玉怪獣であるジャイガントロンに関してもそうです。
ケンにとってジャイガントロンは、父親との不和を生み出した仇のような存在。最初はケンも怒りに任せてジャイガントロンをぶん殴りましたが、それでもジャイガントロンを殺すことは悪いことであり、ウルトラマンは「ジャイガントロンを」守らなければならない。

もちろんジャイガントロンが出現した原因は人間側にあるので、守ることが不自然というわけではないのですが……人間は怪獣を殺せるし、だからこそそうなる前にウルトラマンが戦って両者を守らねばならないという在り様は、本邦のウルトラシリーズとはやっぱり違うよなと思う部分です。この辺りは、アメリカなどでは怪獣も「自然の生き物」に分類されてしまうということなのでしょうか。
ハリウッド版のゴジラシリーズもそうですが、日本以上に怪獣の属する「自然」と「人間」の対立が強調され、殊更に「自然」を守るべきと描かれている感じがあり、そういった点にも価値観の違いを思います。KDFの秘密兵器であるデストロイヤーロボットが異常に強かったり、そもそも本邦と比べて人間側が強くて優位にあるという認識なのかもしれませんね。


細かい部分の話をすると、看板ネタを始めとして様々なパロディ・オマージュなどが組み込まれていたのが面白かったです。お店の名前が歴代の隊員や防衛隊、怪獣の名前だったり、戦えなくなって引退したお父さんが『レオ』に出てくるダンのように杖を突いていたり(赤い眼鏡だったり乗ってる車のナンバーがU7だったり、絶対狙ってる)などあるんですが、めちゃくちゃ目を引くのがアバレンオー

ウルトラどころか円谷でもなく東映!
でもこの見た目は確実にアバレンオーのおもちゃ!
ウルトラマンの作品を見ているのにアバレンオーがよく映る、奇妙で面白い状況が何度かあったんですが、ちゃんとそこにアバレンオーが置いてある意味はあるよな、と考えてます。

アバレンオーが置かれている場所には、他にはウルトラマンや怪獣の人形とミニカーなどが置かれています。つまりおもちゃを置く場所で、ケンがアバレンオーの近くに座っている時は、ケンが子どもとして迷いや悩みを示しているシーンが多い。あのアバレンオーは、子どもとしてのケンの象徴なんですよね、きっと。

なので、記者との会話中に親としての自覚を得たケンはあの一帯から足を踏み出すし、あの一帯で父親と話していたケンも、「エミを育てる」と改めて決意した瞬間にまたそこから離れていく。「子ども部屋から出ていって大人になる」というシーンですね。ウルトラマンや怪獣の人形だけだとその意味が伝わりづらいから、無関係な(おそらくあの世界ではフィクションである)アバレンオーなのだと思います。

更に言うなら、ケンはそんなアバレンオーをウルトラマンの人形と一緒に飾っている。父親を心の底から嫌っているなら、いくら子どもらしさの表現といってもウルトラマンのおもちゃなんて飾らないはずなんですよ。あそこにウルトラマンがある時点で、ケンの複雑な本音も明らかだった……というのがアバレンオーの存在から逆説的に伝わる。アバレンオー、大事。


総じていえば、やはり「アメリカ的な作品だった」という感想になります。
だから「ウルトラマンとしてはどうだった?」という点には、あまりハッキリとした感想が言えない。まぁこういう風になるでしょう、というくらいです。ただそれでも、親子の物語として観たら本作は非常に面白い作品で、不和を乗り越えて思いを通じ合わせた親子が放つあの光線は、ウルトラマンの光線描写の中でも屈指の光線だったと感じました。

ED後には続編を思わせる描写もあり……
あくまで本作の反響を踏まえて決定される、という程度なのでしょうが、『Ultraman Rising』の世界の続きを私も観てみたい気持ちです。……この世界観で描かれるM78星雲、ちょっぴり不安もありますけどね!


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