かげのけもの

 夏の暑い日だった。
 じりじりと肌を焼く太陽と、熱気を空気に響かせるセミの声。
 うんざりするようなテストを終えて帰路につく私は、電柱の影にそれを見つけた。

「あぁくそ、油断した……なぜこんな日に……眩しい……苦しい……どこへも、いけない……」

 黒い獣のようなそれは、今にも無くなりそうな影から頭の先を出して、ぶつぶつと呟いていて。
 一目見て化け物だと分かったけれど、不思議と怖いとか恐ろしいとかいう感覚は起こらなかった。
 ただ単純に、可哀想だなと感じる。……それから……

「……ねぇ、」

 わたしは、獣に声をかけた。

 *

「なぁおい、あそこの影は気持ちが良さそうだぞ」
「行かないよ。時間ないから」
「なんだ、またあの蛍光灯の所か?」

 獣は、わたしの影から延々と声を掛けてきた。

「どうしてずっと同じ場所に座っている? 同じ場所を見て飽きないか?」
「なぁ、どうせならもっと遠くへ行こうぜ」
「毎日毎日代り映えのしない道を通って、楽しいか?」

 獣は、わたしのやる事なす事に文句をつけてきた。

「飯はもっと美味そうに食えよ。その方が力になるぜ」
「おい、あっちの雌共は楽しそうだぜ? 混じらないのか?」
「いつもいつも、どうしてオレの言う事を無視するんだ?」

 所かまわず、何度でも。
 獣はわたしの足元で喚き続けた。

「……人に、聞かれたら、おかしいと思われるでしょ」

 歩きながら、わたしは風に紛れるような囁き声で答える。
 影の獣の姿は、わたし以外の誰にも見えていないらしかったから。
 そんなものと喋っていても、独り言にしか見えないだろう。

「だから、」
「じゃあ、オレの話は聞いてるんだな?」
「……そう」
「ならいいぜ。オレは喋るから」
「……そう」

 おかしなことになった、と思う。
 わたしは後悔していた。あの日、わたしはどうしてこの獣に声を掛けたのか。
 いつものように、口を閉じていれば良かったんじゃないのか。

 *

「成績、少し落ちたんじゃないのか」
「……別に、変わってないよ」
「変わらないんじゃ困るがな」
 オレンジ色の蛍光灯に、出来合いのハンバーグが照らされている。
 温かいご飯のはずなのに、口の中は冷えて感じた。
「お前ももうすぐ受験だろう、だったらもっと――」
「……うん」
 頷いて、ハンバーグを箸で切る。
 カタチの揃った断面が、酷く胡散臭く見えた。
 これは本当は何の肉だろう、と口に運びながら思う。
 何の肉でも、わたしにはどうでもいい気がした。

「やっぱり、つまらなそうに飯を食うな、お前は」

 獣が足元で文句を言う。
 食事に、つまらないも面白いもないのに。

 *

 わたしの影に入ったら、と言ったのだ。
 影が無くなって辛そうだったから、そうすれば楽になろうだろうって。
 獣は少し悩んでから、ずるりとわたしの影に移った。
 魚が水面を跳ぶみたいに。跳ねた瞬間の身体の形は、わたしにはよく見えなかった。

「助かったぜ。これでオレは何処かに行ける」

 獣はそう言ったけど、わたしはまだ何処にも行っていない。

 *

「本当は、行きたい所があるんじゃない」

 暗くなったベッドの上で、わたしは獣に呟いた。
「……分からん」
 獣はめずらしく、少し黙ってから、短く答えた。
「わたしの影、出た方が良いんじゃない」
「そうは思わん」
 次の返答は早かった。おかしい、と思う。
「わたしは何処にもいけないのに?」
「そうとも限らんさ。いつか何処か遠くへ行くかもしれん」
「……いけないよ。だから、もう、」
「断る。オレはお前の影を出ない」

 獣は、いつでも私を否定する。
 ……いい加減、うんざりしてきた。

「おい、何をする……?」

 部屋の電気をつけなおして、卓上ライトを足元に向けた。
 影なんか消えろと。……でも、無駄だった。
「狭い。狭くて苦しいぞこれは」
 影は消えなかった。獣はほんの少し残ったわたしの腕の影から、また文句を喚き立てる。
「どうしてこんなことをする? はやく止めてくれ」
 その声があんまり悲痛だったから、可哀そうになって光を消した。
 諦めよう。獣は消えない。

 *

 獣はいつでも私を否定した。
 なのにその日は、獣はいつもと違う事を言った。

「おお! なんだその絵は。楽しいじゃないか」

 卓上ライトで壁に映ったわたしの背中から、獣ははしゃいだ声を出す。

「……別に、いつも、描いてるやつ」
「オレは初めて見た! 足元にいたからな!」
「……そう」
「その絵は良い! 楽しそうだ!」
「……そう、かな」

 なんということはない、ただの落書きだった。
 りんごに、顔がついてるだけの絵。誰でも描ける、無価値な絵。

「お前は絵が好きなのか?」
「どうだろ。こういうのは、暇つぶしだから」

 でも、昔はもっと描いてたような気がする。
 ノートの隅にじゃなくて、大きな紙に。
 いや、その時描いていたのは、ただの絵じゃなくて……

「どうだ、勉強は進んでいるか」

 考えていると、戸が叩かれた。
 部屋に入った父は、私のノートを一瞥して、少し不満そうな顔をした。

「集中、出来ていないみたいだな。飲み物でも入れてやろうか」
「……うん。ありがとう。でも、いいよ」

 わたしが答えると、父は「そうか」とだけ答えて出ていく。

「なぁおい、もっと絵を描けよ。きっと楽しいぜ」
「それは……ごめん、出来ない」

 勉強中だから。余計な事は出来ない。
 そういうと、獣はつまらなそうに溜め息を吐く。
「楽しいものが見れると思ったのに」
「……じゃあ、やっぱり、他の人の影にいかなきゃダメだね」
 わたしは楽しい人間じゃないし、獣を楽しませることもきっと出来ない。
「他の人の影に行けば、きっと楽しい所へ連れて行ってくれるよ」
「……。実は、それは無理なんだ」
「どうして?」
「それをしたら、オレは二度とお前と喋れない」

 *

 獣の姿は人には見えない。
 唯一の例外は、影の繋がった相手だけ。
 だから、他の人間の影に移れば、その瞬間にわたしは獣が見えなくなる。

 大した事じゃあない、と思った。
 元々、見えないのが普通なのなら。
 それは見える前に戻るという意味でしかないんだから。

「それでも、嫌だ」

 獣はやっぱり、わたしと違う事を言う。
 意味は分からなかったけど、嫌だというものを無理強いする気にもなれない。
 でもこのままじゃ、獣はずっとつまらないまま。
「……じゃあ、分かったよ」
 少しだけ。
 ほんの少しだけ、絵を描いてあげることにした。

 *

「これはなんだ?」
「あなたの絵」
「似てないぞ」
「良く見えないから」
「まぁ、気に入った」
「ならいいけど」

「オレの絵は何をしてる?」
「歩いてる」
「どこへ向かって?」
「分かんない」
「描いてるのにか」
「決めてないから」

「こいつは誰だ?」
「女の子」
「お前か?」
「わたしじゃないよ」
「じゃあ誰だ」
「女の子」
「オレと一緒に歩くのか」
「友だちになったんじゃないの」

「これは森だな」
「よく分かったね」
「森は見たことがあるからな」
「棲んでたの?」
「そういう時期もあった」
「じゃあ、ここはあなたの家」
「家はお前の影だ」
「絵の話だよ」

「またオレの絵か。何回目だ?」
「描かれるの、いや?」
「うれしい」
「ならいいでしょ」
「でも分からん。なんで何枚もある」
「お話だから」
「どういうことだ」
「全部、つながってるから」
「ただの絵じゃないのか」
「うん。たぶん、絵本」

 *

 たぶん、絵本だ。
 昔、大きな紙に描いていた絵は。
 綺麗な色のクレヨンばっかり使っていたから、最後には黒しか残ってなかった。
 だから、黒で大きな絵も描いた。
 不気味だと、お母さんには言われたけれど。
 上手だね、と褒めてくれもした。
 絵を描くのは好きだった。
 いつしか無意味なことになってしまっていたけれど。

 *

「何故泣いている。哀しいのか」
「逆。楽しい」
「楽しいのになぜ泣く」
「忘れてたから」
「忘れると泣くのか」
「思い出した時に、場合によっては」

 *

 それから、毎日絵を描いた。
 他愛もない絵。ずっと描いてなかったから上手くもなっていないけど、なんだかとっても楽しかったから。

「勉強しろと、怒られるだろうな」
「それもしてるから、平気」
「なら安心か」
「安心だよ」
「そうか、なら、――」
「……なにかいった?」
「……。いや」

 でも。絵を描き始めてからだろうか。
 獣の声が、聞こえづらくなった。

「最近、元気ないね」
「そんなことは、ないぞ」
「前はあんなにうるさかったのに?」
「今でもうるさいぞ」
「嘘だ。全然聞こえない」
「お前に聞こえていないだけだ」
「……わたしの耳が遠くなったの?」
「違う。オレが小さくなっただけだ」
「小さくなった?」
「影が小さくなったからな」
「……。いつもと同じじゃないの?」
「心の、影だ」

 *

 つまらないとか、寂しいとか、退屈だとか、もうどうでもいいとか。
 そういう心に、影が出来ると獣は言った。
 そんな影にこそ、自分たちは棲まうのだ、とも。

「じゃあ、わたしが楽しくなったから?」
「そういうことに、なる」
「……このままだと、獣はどうなる?」
「消える。……ああ、いま少しだけ楽になったな」
「心配してるから、かな」

 獣が消える。わたしの心が理由で。
 それは……すごく嫌だ。

「他の影に行こうよ」
「だがまだオレは、何処へも行っていない」
「わたしは何処にもいけないよ」
「だがオレを連れて行ってくれた。森とか、女の子とかの所へ」
「……絵の話でしょ」
「それで良い。たくさん描け」
「満足したら、他の影に行くの?」
「行きたい所へ行く」
「……分かった」

 *

 わたしは、絵本の続きを描いた。

 森を抜け、川を下り、海へ行って魚に乗って。
 別の国で、色んな生き物にであって、大きな建物を見て。
 高い高い山に登って。ロケットで空を飛んで。
 宇宙に行って星を巡って、また地球に戻ってきて。

「楽しいぞ。こんなに色んな場所へ行けるとは思っていなかった」
「絵本の話なのに」
「それで良い。最後まで描け」
「最後、って……もう行くところなんて……」
「女の子の家に行ってない」
「……ああ、そっか」

 友だちになった女の子。
 獣とずっと一緒に旅をした、女の子。
 わたしは赤い屋根の家を描いて、女の子と獣を並ばせて。

「ほら、描けたよ」

 ……。
 ……。
 ……。

「描けたのに」

 返事はない。
 足元を見ても、誰もいない。
 後ろを振り返っても、誰もいない。

 影はわたしからしっかり伸びているのに、獣はどこにもいない。

「……行っちゃったんだ」

 好きな所に行くって、行ってたもんな。
 わたしより、心の影が大きい人の所に……行ったのかな。

「……一人にされたら、寂しいのにな」

 寂しいなら、また影も出来ただろうに。
 そこには、もう獣はいない。
「……あれ?」
 ふっと、描き終えたばかりの紙に目をやると……
 描いたはずの獣まで、どこかへ消えてしまっていた。
「そこまで消えることないのに……」

 涙がにじんで、ぽつっと紙に垂れる。
 ああ、せっかく描いたのに、汚れてしまう。
 滲んだ涙を拭き取ろうとして、わたしは気が付いた。

 女の子の足元に、影がある。
 影の中には、なにかの目玉が、二つ。

 *

 獣は何処かへ消えてしまった。
 でもどうしてだろう。今でも時々、足元から視線を感じる気がするんだ。
 ……だから、わたしは、一人じゃない。

「今日は、何処に行こうかな」

 暗い気持ちになることは、今でもたくさんあるけれど。
 わたしは、行きたい所に行ける気が、していた。

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