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【キー18】短歌ータバコ

ずいぶん昔にもらったリクエストにお応えして、煙草が登場する短歌をいくつか集めました。


おしまひだ。いくら煙草を吸つたつて法律をやぶることができない

逢坂みずき『虹を見つける達人』

この一首が持っているのはどんな「おしまひ」だろうか。

前情報無しにこの短歌だけバッと目の前に出されてまず思うのは、この短歌は逢坂さんの人生のいつの時期の短歌だろう。ということ。
正確にはこの「おしまひだ」の感情の持ち主が逢坂自身である保証はないのだが、ここでは煙草を吸つておしまひだと思っているのは逢坂さん本人ということにする。

さていつの時期だろう。
まだ中学生とか高校生で煙草を吸うこと自体が法律に反する時期だろうか。或いは社会の中で自分の無力さに絶望する時期だろうか。いや別に高校生でも自分に絶望することはできるから、これが被ることもあるのか。

ここで、逢坂さんは1994年生まれという情報を差し込むと、別方面から切りこみたくもなってくる。
つまり、逢坂さんは明治とか大正時代の「昔の人」じゃないから、「おしまひ」と「吸つたつて」はワザとこの表記にしているのだと分かる。なぜ。

僕が思うに旧仮名表記をしている理由は、焦点がぶれている様を描いたものだからではないだろうか。煙草をすって酔った感じになり、世界はぼやけて見え思考力も落ちて、「い」は「ひ」と空気の漏れたような音になり、「っ」と小さく書くのも面倒で「つ」となってしまったのではないか。

「おしまひだ」の絶望にたどり着くまでにそこまでの「酔い」が必要となると、破ることができない「法律」は単なる法律以上の意味を持っていそうだ。

というのは例えば、これが高校生の未成年喫煙の歌だとして、

オレのかました未成年喫煙はたしかに法律違反なんだけどアウトロー自慢には弱すぎる。でもオレには人を刺したりお金を盗む気もその勇気ない。イキって未成年喫煙なんてしてみたけどこんなんじゃ法律を破ることができたとは言えない。ちくしょう、オレはおしまいだ。

みたいな思春期ヤンキーの一首である可能性もあるかと思ったわけだが、その線は薄くなったということ。なぜって、この「ちくしょう、おしまいだ」に辿り着くには「ひ」や「つ」の酔いは過剰だから。「ひ」や「つ」を煙草で持ち出すからには、もう少しヘビーな絶望が「おしまひ」に無いといけない。

このヘビーな絶望はなんだろう。それは強大な国家への絶望だ。

煙草を敵視する人は社会に相当数いるから、煙草を吸うことは自分の味方を増やすことよりも敵を増やすことに繋がりやすい。さらに未来の自分が肺癌とかに苦しむ可能性も高くなって、そんな未来の自分が煙草を吸う今の自分を恨んで敵視するかもしれない。自分の周りの人も、副流煙を吸ったと自分を睨んでくるだろう。少なくともこの現代の日本で煙草を吸うことは自分に敵を増やす行為に他ならない。

という趣旨のことをアンチ-タバコ人間は言うわけだが、喫煙者には関係ない。
僕は生涯喫煙をしないが、喫煙者の捨て身の姿勢が世捨て人っぽく見えて格好良く思ったことは確かにあるし、敵が多ければ多いほど味方同士の結束は強まるだろうからその一体感が羨ましく思うこともある。喫煙者ひとりひとりの喫煙モチベーションがどこに有るのか分からないが、吸いたくなる気持ちも分かるということだ。

ともあれ、この現代日本で喫煙は敵を増やす反社会的な行為だ。そんな危険なことを逢坂さんはしている。

いや、違う。実際にこの強大な国家の前では、喫煙は反社会的な行為ではない。反社会「風」な行為に過ぎない。

この国家は人々のあらゆる行為を社会化してきた。法律に〇〇は違反すると定めるだけでない。それを犯した人々を適宜見逃したり、あるいは刑の量を決めたり、さらには刑を終えた人の復帰の道まで提示して用意していたりする。
これらは通常の感覚であれば、近代国家として素晴らしいことであり、むしろ復帰の道の整備が不十分であることこそが怒りや絶望の対象となる。

ところが時に、このすばらしく整備された環境にこそ絶望することがある。この国はどこまで想定しているのだ。私は何をすればこの国家から逃れることができるのか。法律の及んでいない世界は最早この国に残っていないのか。

煙草を吸うという、一見すると反社会的でアウトローでアングラな行為すら受け止めてくる強大で優しく美しい国「ニッポン」から逃げられないことを察して絶望するとき、「おしまひだ」の言葉が溢れるのだろう。


煙草は敵を増やすと書いたが、煙草嫌いの人がすべて直ちに喫煙者の敵になるかと言えばそんなことはなく。

煙草への「嫌(いや)〜な感じ」が強まっていく順に以下三首。

灯台と教える声が遠ざかるもらい煙草の度が過ぎている

山階基『風にあたる』

喫煙所に行かないからわからないけど、もらい煙草っていう文化があるらしい。駅で待ち合わせしたときに、喫煙者の友人はよく「東口の喫煙所の前」とか言うけど僕はまったく喫煙所の場所なんて頭に入っていない。しらない世界が彼らには広がっているようで、その点も少し羨ましい。絶対に吸わないけど。

しかるべき作用であると思うけれど、こちらに至る煙草の煙

吉田恭大『光と私語』

3首の中だと一番敵意が強い可能性を秘めているのはこの一首。煙がこっちへくるなぁ、と単にそれだけ思っているのか。内心が見えない怖さ。

少しずつたばこの毒を肺に送りそれからかなしいことを思へる

小池光『滴滴集』

小池さん自身が、煙草を吸い始めた過去の自分を敵視しているかと聞かれたらそんなことはないだろう。ただひたすらに「かなしい」。


最後に情景の浮かびやすい一首。

あけがたのわたしはだしのまえあしでまるぼろめんそおるに火をともす

斉藤斎藤『渡辺のわたし』

ひらがなの連続で明け方の頭がさえきっていない朝靄の様子が浮かび、そこに「火」だけが確かに存在している。
いま火をつけようとしているのは本当にマルボロメンソールなのかもハッキリしないようだ。きっとその紙筒に火をつけてその煙を吸いこんだ瞬間に、「まるぼろめんそおる」はマルボロメンソールとなる。

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