【キー14】怪物
夏休みに浮かれる前に、8月のこの時期に、一回立ち止まって考える。
高校生の遅刻を眺めている時、彼らもまた僕の通勤時間を怪訝におもっているのだ
会社がスーパーフレックス制度を導入していて、出勤時間に厳格な縛りがない。それで先日の朝、9:30頃に家をでて自転車を漕いでいたら登校中の高校生何人かとすれ違った。この時間に歩いてたら絶対遅刻なんだけど、なんでこんなに堂々と歩いてるんだ、とか、遅刻する高校生ってこんなにいるんだ、とかを思いながら駅に向かった。
でもそのとき僕はYシャツをまくって立ち漕ぎしていて、でも見た目は明らかに制服をきた高校生ではないから、高校生も僕をみてきっと「なんでこの時間にサラリーマンが自転車こいでるんだろう」とか思ったはずで、なんか恥ずかしかった。
みたいな話をキュッとまとめてXでPostして何かの拍子で200Repostsくらいいくと、高確率で知らない誰かが「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」って返信をよこしてくるだろう。
「深淵を〜」って言葉、どうしてここまでインターネットで有名で人気なんだろう。インターネットの人が好む「教養」の代表例に『山月記』があるけど、そっちは高校の教科書にも載っているからその辺で勉強を辞めた人たちにとって最先端のウケやすい難易度の題材なんだろうな、という納得感はある。
でもこのニーチェの言葉がそんなに広まってミーム化してるのはなぜなんだろう。実際、冒頭の通勤の体験をしたときもすぐに「深淵を〜」が頭の中で連想されて、このことは西洋哲学の講義をこれまで受けてこなかった僕にまでこの言葉を自然と思い出させるほどのこの言葉のパワーを物語っているし、同時に、最悪だった。
ちなみに、有名な「深淵を〜」はこの一文で独立しているのではなく、その直前の一文をうけている分で、この二文で意味を持つ。
※原文ではWer mit Ungeheuern kämpft, mag zusehn, dass er nicht dabei zum Ungeheuer wird.Und wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein.となっている。
映画『怪物』
ニーチェが言うように、「怪物」は戦うべき敵である。
ではその名をタイトルに据えた2023年6月公開の映画『怪物』(監督:是枝裕和)における「怪物」はどうだったか。
本映画のテーマの一つに聖域があった。と思う。
麦野沙織(安藤サクラ)の聖域は、息子の湊(黒川想矢)である。夫をなくしたシングルマザーの沙織にとって、湊は絶対の存在。彼が家庭をもち平凡ながらも幸せに生きることが沙織の喜びであり、それを叶えさせることが亡き夫との約束であり使命なのだ。その使命感に裏打ちされた彼女の揺るぎない思い込みと言動は、彼女を「怪物」たらしめる。
保利道敏(永山瑛太)の聖域は、「自分の目に見えるもの」であろう。
彼は自分が見てきたもの、いま目の前にあるものに神経を張る人間だ。シングルマザーに育てられた自分が見た母子家庭像を沙織の対応に持ち出し、目に飛び込んできた週刊誌の誤植を見つけるが悦びの人間。西田ひかると結婚することを小学生の頃の作文に書くような彼は「男」に真面目であり、そんな彼が湊にかける言葉が彼を「怪物」にする。
湊にとっての聖域は星川依里(柊木陽太)だった。依里が自分の髪に触れたときからその予感はあり、トンネル奥の秘密基地で過ごした時間がそれを確信に変えた。しかし、この衝撃や想いを、ラガーマンだった亡き父やオネエタレントの真似をする母には素直に告げられない。聖域を守ろうとする彼は保利先生を悪者にする嘘をつき、「怪物」となった。
依里の聖域は自分の世界だったのだろう。いじめてくるクラスメイトや虐待をする父親に囲まれている彼は、秘密基地を彩り学校には飴玉をもちこむ。しかし彼は父親の通うビルに火を放った「怪物」であり、これは聖域を守ろうとする生存本能ともいえる。
校長先生(田中裕子)も保利の恋人(高畑充希)も依里の父親(中村獅童)も、みな其々の聖域を守ろうとする番人としての「怪物」だった。
聖域を想う気持ちは、それを守ろうとする使命感からすぐに正義へと繋がる。ひとつひとつの正義が、それぞれに一定の正当性を持った強いものであるからこそ、異なる正義が登場する場面で、我々は慎重にならなけれならない。
今の社会で、異なる正義と出会った時我々が取るべき行動は、それを理解しある程度受容して折衷案を探るか、あるいは、受けいられ難いものに対しては戦って黙らせるかの二択である。面積が限られた社会でしかし出会う人々が増加し続ける近現代では、正義や宗教が違う「ヘンなやつ」に出会ったら「鎖国」するとか遠くに逃げて関わらないようにするとかは許されない。
我々は、それぞれの正義を守るため、それぞれの怪物と対峙することを余儀なくされている。怪物と戦っている時点で、もっといえば「戦う」という強い感情を抱く対象がいると感じる時点で、自分も相手からみた怪物になっている。
であるからこそ、怪物たる自分が気付かぬ間に我を忘れて、自分の敵(=自分にとっての怪物)のみならず関係ない人々まで巻き込んで苦しめていないか慎重になるべきである。本映画で題材となったテーマについては、今の社会で関係ない人はいないと思う。ただ、正義によっては明らかに利己的でその人の半径1mの問題というケースもあるわけで、その辺は慎重にならねばならない。
慎重、慎重と書いていると、戦いは野蛮だから極力避けるようにするべきという考えの持ち主だと誤解されそうなので言うと、私はそうではない。
戦うべきところはしっかりと戦うべきだと思う。むしろ、戦いを忌み嫌うあまり、本来必要な戦いをしている人々まで白い目で見られるような社会は御免である。
僕が大学で移民難民とかの勉強をしていたと話したとき、会社の人で「今の日本ではそういう人たちの声が大きいよね」という趣旨のことを返されて、そのグロテスクさには絶句したし、やはり戦いを見せることは必要だと思った。戦いを見せて、そもそもこのトピックは誰かが声を荒げて集団で戦うひどの重大なものなんだな、ということを気づいてもらう必要があるケースは少なくない。関係ないと思っている人に、自分も関係のある話だと気付かせて巻き込む必要があるのだ。
ただ、戦っている人を側からみて気持ち良くなる人は少ないから、本当に関係ない人たちは巻き込まないようにしないといけない、という意味を「慎重」にこめた。
ウクライナやロシアで戦火に巻き込まれ亡くなったすべての一般人にピースを。
この夏みたい映画の一つ↓
おまけ
前もなにかで書いたんだけど、「かいぶつ」って変換したら「買い物」ってでてくるの結構面白いとおもう。