【キー29】キャンパスライフ!
あなたが法学部で学んだことはなんですか?という問いに対する答えを考えたい。
「法学を勉強する」という営みの一つの表情は「我々の社会は数多(あまた)の人々が作り上げている」という至極当たり前のことを再確認することである。
社会は神様の鶴の一声や魔法のステッキにより一晩でできあがった訳ではない、と知ることだ。
法学部生は誰しも必ず一度は判例を読む。判例というのは過去にあった裁判の判断(判決文など)のことである。
それを読めば、法に基づく裁判というのは、ピタゴラ装置のように、決められた位置からボールを落とせば決められた道をコロコロと転がって決められた場所から必ず転がって出てくる、というような単純な代物ではないことがわかる。
それは、例えば法自体に「解釈」があることが一因だろう。法は誰もが適用されうるものだから抽出的にならざるを得ず、ここに解釈の余地が生じる。
例えばここに「電車の窓から手を出したら1万円の罰金に処す」という法律だけが存在したとする。このとき、
電車ではなく蒸気機関車であれば手を出してもOKか?
手ではなく頭や足を出すのはOKか?
そもそも手とはどこか?指先?肘から先?
などという議論が生じる。
そして電車から足を出した人が裁判にかけられたとき、上記のような議論を踏まえて、「電車の外に体の一部を出すと危ないから、法律には代表的な体の一部である手を挙げているに過ぎない。足だって出したら危ないから当然に1万円の罰金に処すべきだ」というのがこの法律に対する一つの解釈となる。同時に、「法律には手としか書いていないんだから足は出しても罰金1万円にはならない」という考え方も解釈の一つとして成立する。
このように、一つの法律に対して多様な解釈(議論)が生じるから、例えば「電車から足を出した人がいる」というボールを落としたとき、必ず「1万円の罰金に処す」というゴールにボールが転がりこんでくるとは限らないのだ。解釈という分岐点によっては「1万円の罰金に処さない」というゴールにも行き得る。
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そして大切なのは、この解釈をするのは現状、人であるという点だ。人がボールの行き先を決めている。
ある問題の結論を導き出しているのは、六法全書に書かれた法ではなく、人なのだ。そも法自体、人がつくったものである。
この社会に山積みの問題の解決をするのは、どうしても人なのだ。
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僕はこんな単純なことがわかっていなかったから、法学部に入った当初はこの事実にショックを受けた。
僕は法学部に入って、この世界の秩序を作り上げている法というものを学べば、あらゆる諸問題をバサバサと機械的・論理的に判断し解決へ導く神になれると思っていた。大真面目にそう思っていた。
しかし実際は先述のとおり、法は所詮人がつくったものであり、それをどう使うかという判断も人に為される以上、法で対処する世界中の問題は僕と同じような人が解決するしかない。
あらゆる問題を解決する神は法学の世界にいなかった。
法を勉強すると面白いことの一つに、法の見ている世界が広範囲に及んでいること、がある。
こんなことまで法(憲法、法律、政令・施行令、省令・施工規則など)に規定されているのか、ということがこの世界には無数にあって、そのきめ細かさに、生涯に何も法を侵さずに(或いは侵しそうにならずに)生きることは不可能だと思わされるほどだ。
そして、先述の話で、その膨大な量の法の一つ一つには、それを作った人がいて、それを運用する人がいて、それによって助けられたり苦労したりする人がいて、それによって解決した問題や解決しなかった問題がある。
知らない街の夜景をみて、見える一つ一つの灯りの向こうに人がいて、その一人ひとりに大切なもの・悩み・苦労、友人・恋人・嫌いな人や学校・職場・家庭があることに思いを巡らした経験は誰にでもあるだろう。
妙な高揚感に包まれたり、同時に世界に対してあまりに小さな自分の無力さに打ちひしがれたりすることもあったはずだ。
そして僕は膨大な量の法(のほんの ひとつまみ)を見たり関わったりしてこれと同じ気持ちになる。
世界は小さく狭いというけれど、僕たちの生きる世界には無限の宇宙が広がっているように思えてならないのだ。
僕は法を通じて世界の広さやきめ細かさを知った。
そして、そんな広い世界(無限の宇宙)には無限に問題がある。
大学で一つだけでも何かの授業を半期受けきれば、このことは誰にでもわかる。新聞やニュース番組をみていれば、小学生でもわかる。
だからこそ法はその手を(理想は無限に近付くように)広げている。
だがしかし、この世界には無限に問題があるとなると、僕たちは生きることをつい諦めてしまいそうになる。
無限の問題があるこの世界で僕が生きる意味を真剣に考えると、簡単に答えがでてこないからだ。
ところが、どうやら生きるのを諦めてしまうのは、直感的によくないことのようだ。死にたくない。なんとなくの惰性では生きたくない。
と僕は思った。
※そう思わなかった人は、生きるのを諦めるのは良くないらしい(確からしい)と一旦ここでは思ってください。ここを真剣に考えると長くなるので、一旦、神様が「生きるのを諦めてはいけない」と言ったと信じてください。
そして、直感的に抱いた「生きるのを諦めたくない」という感覚を自分の確固たるものにするためへのアプローチは複数考えられる。
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例えば一つは、「この世界には無限に問題があるが同時に希望も無限にある」と考えることだ。無限の希望に目を向けてそれを追いかける、というアイデア。
僕の大好きな楽曲の一つにPUNPEEの「Happy Meal」というのがあるが、その一節がまさにこのアプローチだ。
無限に広がる希望に気付けば安心して生きていける。
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他のアプローチはもう少し複雑で、それは「僕たちは無限の問題を無限に解決し続けることで歓びを感じ、そして僕たち一人ひとりは集団の一員として問題を解決することができる」というアイデアだ。
まず前半の「僕たちは無限の問題を無限に解決し続けることで歓びを感じ、」について。
僕たちや僕たちの祖先は、この世界を存続させるために、無限の問題を無限に解決し続けてきた。新たに発生した問題量と新たに解決した問題量の追いつき追い越せの関係が人類史上どうであったかは分からないが、今日時点の人間の文明の発展具合をみるに、世界の問題が私たちを押し潰してしまうほどにはならないように人類は問題を解決してきているらしい。
このように、僕たちの祖先は問題を解決して生き残るという形で生命を繋いできたからか、「問題を解決して悦びを感じる」ことが少なくとも今日の人間の本能の一つになっている。
しかし、その裏返しとして問題を解決できないと面白くない。解けそうにない難問ばかりの問題集はつまらなく飽きてしまう。
僕たちがいま直面している問題はどれも極めて複雑で、この世は正に難問ばかり無限に載せた問題集状態だ。
そこで僕たちはこの問題集に対して、スイミーが如く集合知で臨んできた。
その集合知が社会である。
小さい魚である一人ひとりの僕たちは、皆で集まって社会という大きな魚を作り上げ、難問という黒くて大きな魚に立ち向かってきた。
このとき、ある小さな魚は大きな魚の尾鰭(のさらにその一部)に、別の小さな魚は大きな魚の上顎(のさらにその一部)としての役割を果たす。この尾鰭や上顎(のさらにほんの一部)を担い、「大きな魚」のほんのほんの・・・ほんの一部として存在する小さな魚一匹一匹が俗にいう「社会の歯車」である。
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グローバル化が走り続ける今日、社会は地球上を覆い尽くしている。社会の手の届いていない箇所は地球にほとんど残っていないだろう。
そんな地球において、人類はみな、社会の歯車だ。
サラリーマンの僕や僕の父はもちろん、起業家のあなたも、画家のあなたも、働かずに毎日ひきこもっているあなたも、もれなく社会の歯車だ。
自分の例えばオリジナリティやクリエイティビティなどを主張してどんなに強く否定しても、揺るぎなく僕らは皆社会の歯車であり、その差はせいぜい、大きな魚の尾鰭の先端にいるか付け根にいるかくらいかの違いに過ぎない。
しかし、僕は、一人ひとりが社会の歯車であることを悪いことだとは全く思っていない。
なぜなら僕は法学を学ぶ過程で、無数にある法の一つひとつ(これは、繰り返すが、その一つひとつを作った人々とそれを運用する人々の一人ひとり、を同時に意味する)が組み合わさって、多くの問題を解決してきたことを知ったからだ。
つまり、ある問題を、その単独で解決できるような条文はまず無い。ある条文は、必ず他の条文との関係の中でその価値を発揮し、組み合わさったり反発し合うことで、問題を解決へと導く道筋を示す。
そして、それらの集大成とも言える今日の判決は、過去の無数の判例やその下敷きとなった無数の解釈や判断の蓄積の歴史の上に成立している。
つまり、今日のある問題の解決は、過去の無数の法律家(裁判官、弁護士、検察官らはもちろん、研究者、論文やゼミで議論した学生など、法に携わった広義の法律家)であった人々の上に成り立っている。
僕らは法学部でこれを知る。
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長くなったが、ここまでが「僕たちは無限の問題を無限に解決し続けることで歓びを感じ、そして僕たち一人ひとりは集団の一員として問題を解決することができる」の説明だ。
法学曰く、僕たち一人ひとりは社会という集合知の歯車として問題を解決することができる。そして僕たちはその「できること」に歓びを感じる。
そして僕たち人類は幸いにも歓びを追い求める欲求が強いから、僕たちは無限に問題を解決することができるのだ。
最初の問い「あなたが法学部で学んだことはなんですか?」にもどる。
僕の出した結論は「生きることへの希望」だ。
無限に問題があるこの広い世界においても、生きるのを諦めずに済んだ。
なぜならば法学を学ぶことで、そもそもそれら無限の問題は、神様ではなく人が頑張って解決する他ないことを知り、そして
社会という集合知を構成する歯車として、僕たちはその問題をこれからも無限に解決していけそうだということに気づいたからだ。
もしあらゆる問題は神様が解決してくれるのであれば、それは人間にとって楽でありがたいように一見思えるが、問題が山積みの世界で他力本願に生きることは絶望であることにすぐに気がつく。
全ての問題は人間がこれまで解決してきて、これからも解決していくことは希望だ。
そして、昔よりもさらに難解で多様な問題に直面する人間が、これからも問題を解決し続けられるのか、その営みのなかで僕個人の存在価値などあるのだろうか、という疑念にも、法のあり方が道筋を見せてくれたのだ。
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ここで最初の問いを少し拡大して、「あなたが大学生活で学んだことは何ですか」になっても、「生きることへの希望」という回答は変わらないが、それがより補強されて確かな答えとなる。
すなわち大学「生活」というのは、法学部だけでなく、例えばアルバイト、サークル、趣味、人間関係・・・など大学生として生きた期間の全ての結晶であるから、その生活の中でであった音楽が世界はまだ楽しみ放題であることを教えてくれたように、生きる希望と世界がポジティブに広いことを僕は知った。
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いまこれを書いているとき、僕は大企業のサラリーマンという典型的な社会の歯車として生きている。
この自分の在り方を絶望視せずにいられるのは大学生活のお陰だ。これは巡り巡って他者を尊敬し愛することへつながる。
当然、絶望視しないからといって、現状に満足しているかと聞かれたらそうではない。僕は僕の人生をさらに希望に溢れたものにするために生きていく他ないのだ。
しかし毎晩の帰路で自転車を漕ぎながら、鼻歌を歌えるほどには元気に楽しくやれているのは、この大学生活のお陰であることは間違いないのだった。
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