エロス+虐殺

はやく終わんねえかなー。

見ている最中に、そう思う映画もそうざらにあるものじゃない。

吉田喜重監督作品『エロス+虐殺』(70年)は、大正時代の無政府主義者・大杉栄とその愛人、伊藤野枝、神近市子、さらに大杉の妻からなる四角関係を描いている。

史実は大杉栄と伊藤野枝が、関東大震災が発生した混乱期の大正12年の9月16日に官憲により虐殺されている。

テーマだけを見ると、面白そうな映画のような気がする。

だが松竹ヌーヴェルバーグの監督、吉田喜重はオーソドックスに物語を描くことをしなかった。この史実をもとに実験に実験を重ねる。

まず、過去と現代との往復。70年の東京には、原田大二郎と女子大生がいて、とにかくこのふたりの言っていることが、観念的過ぎて、それとも俺の頭が悪いのか、何言っているのかさっぱり分らないのだ。

そこに突然、過去から岡田茉莉子演じる伊藤野枝が現れて、女子大生はマイク片手にインタビューを始める。

それに過去の物語も大杉栄の愛人関係の部分にウェイトが占められていて、「自由恋愛論」なるものを標榜する大杉栄も、キャストである細川俊之のキャラも相まってか、たんなる女好きにしか思えない。

で、史実では伊藤野枝との仲をねたんだ神近市子が、大杉栄を刺して重傷を負わせる日陰茶屋事件というのがあるのだが、この作品では伊藤野枝が大杉栄を刺し殺すということになっている。

しかもその大杉栄がまたしゃべりはじめる。

で、また現代に戻って、原田大二郎は訳分んない観念論を延々と語り始める。

ひたすら、その繰り返し。しかも作品の尺が3時間半という半端ではない長さ。

吉田喜重の作品は以前、『告白的女優論』というのを見たことがあって、あの作品でも岡田茉莉子、浅丘ルリ子、有馬稲子の三人が登場してきて、それぞれの人生を告白していくのだが、その三人の人生がどこかで交わる訳でもなく、オムニバスという形式でもなく、ただ時間軸にそって並行して描かれていた。

そこが吉田喜重の狙いであり、実験性だと思うのだが、やはり今こういう作品を見ると、いやに陳腐に見えてしまうのだ。

わざと芸術性を意図したカメラワークや、ライティングでさえ逆に野暮ったく見える。

『エロス+虐殺』を見ていて、一人の漫画家を思い出した。知り合いのもう還暦は超えていて、いわゆる団塊の世代のおじさんが貸してくれた真崎守という人の単行本を読んだ時、ちょっと辟易してきたのだ。

ちょうど全共闘や全学連などの学生運動が盛んな頃の作品で、登場人物たちが麻雀をやりながら運動論とか語り出すのである。

単行本も出ていたくらいだから、当時この人は人気があったのかもしれない。だが、現在知っている人はほとんどいないと思うし、作品も再発されたりしていないと思う。

自分がこの人の作品に辟易した理由は、運動論がどうとか言う前に、あまりにも時代の空気にとらわれてしまっていて、現在ではすでに古びたものにしかなっていない、という点にあった。それだったら梶原一騎原作漫画とかのほうが、時代を飛び越えてくる普遍性を持っている。

映画だったら「男はつらいよ」とか、「トラック野郎」とかのほうがよっぽど普遍性を宿しているのである。

『エロス+虐殺』が公開された当時、社会運動の盛り上がりはもちろんのこと、文化運動、なかでも性の解放というのが叫ばれていたと思う。

その原点として知識人の多くが、大杉栄とその女たちに着目したのは当然のことだろう。

大正時代にあって、日陰茶屋事件がいかにスキャンダラスに報じられたかは想像がつく。

吉田喜重のなかにおいて、70年のフリーセックスと大正時代の「恋愛自由論」が繋がっていることは間違いないだろう。

だが作品そのもの自体をスキャンダラスな見世物趣味にせず、あくまで芸術然としてまとめ上げるところにインテリ、吉田喜重の限界を感じる。

それだったら『明治•大正•昭和 猟奇女犯罪史』(69年)のなかで、阿部定事件を描き、生存していた阿部定を登場させ、橋の上で吉田輝男とたわいもない雑談をさせた石井輝男監督のほうがよっぽど確信犯だったと言える。

まあ、伊藤野枝を見事に演じ切った岡田茉莉子の熱演はさすがだが、こんな芸術映画見て映画を分ったような知ったかぶりするヤツだけにはなりたくない。 

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