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日本漫画史に残る大事件を巻き起こした「W3」その真実に迫る!

今回は
日本漫画史に残る大事件を巻き起こした「W3」をご紹介いたします。
TVアニメ化もされ手塚SF作の中でも傑作と名高い本作ですが
当時の子供たちを混乱させ出版業界にも大問題を起こしたとともに
手塚治虫がここからスランプに陥っていく運命の分かれ道ともなった
曰くつきの作品であります。
今回はその空前の大事件を中心にご紹介して参ります。



本作は1965年に『週刊少年マガジン』にて連載された作品です。

あらすじは
地球では水爆実験が続けられ、戦争が絶えず起きていました。
そんな戦争を繰り返す「愚かな地球人は残すべきか」と宇宙では評議がかけられ、その判断をW3と呼ばれる銀河パトロール要員の3名を地球に派遣して1年間調査することになります。

3名は地球の動物の姿を変え調査をし、当初、地球人は消滅の対象であるとの意見を持っていたのですが、そこで出会った純粋な少年、星真一と触れ合うことで徐々にその考えが変わっていきます。
地球は宇宙にとって本当に必要な惑星なのか…
さぁこの後、地球の運命はどうなってしまうのか?
というのが本編あらすじであります。

地球外生命体が地球上の動物に変身して、地球を破壊すべきかどうかを調査するという設定は、子供たちにはワクワクする設定ですし当時流行っていた映画「007」のスパイ要素も取り入れられ、さすが手塚治虫といった内容。
「鉄腕アトム」「0マン」のような人間ではない異形の者から見た愚かな人間に対しての警告、警鐘のドラマ展開もこの時期にして、もはや芸術の域にあります。
さらに本作は衝撃的なタイムパラドックスを披露するエンディングとなっており見事なSF作品として手塚作品の中でも屈指の人気を誇ります。


そんな
本作は原作よりもアニメの方が有名な作品なのではないでしょうか。

というのも「W3」は元々、アニメ作品として企画されたものでした。
TVアニメの広告のために連載もしておこうというのが始まりだったのです。ちなみに手塚作品の中でTVアニメの広告用の連載作品として他に「ミクロイドS」と「ピロンの秘密」があります。

ざっと大枠はこんな感じですが
「W3」といえば「W3事件」を語らない訳にはいきません。
もはやストーリーよりもこの事件の方が有名ではないかというくらい世間を騒がせた一大事件。「W3」の知名度を高めたのは原作でもアニメでもなくこの事件という何かとお騒がせな事件は手塚治虫が起こした事件の中でも出版業界の歴史上でも例のない屈指の大事件です。

この事件の内容については色んな憶測が飛び交っており真実は迷宮入りしていますがこの記事では手塚サイドの言い分だけでなく、出版社側や第三者の声も含めおそらくこれが正しいであろうと整合性が取れた情報を元にご紹介いたしますのでどうかその点をご容赦の上、見て頂ければと思います。

まず
「W3」のアニメ化は「鉄腕アトム」「ジャングル大帝」に続く虫プロ制作第三弾目にあたりました。
そして制作には手塚先生自らが原案を行いスタッフと共にキャラ設定やその他の事案を組み上げたという気合の入った作品でありました。

手塚治虫の殺人的なスケジュールの中で
なぜそんな制作スケジュールになってしまったのか…?

実はこれには裏話がありまして
アニメ「鉄腕アトム」を製作中にアニメ「ジャングル大帝」も制作することになり人手が足りないとのことで
「アトム」の制作班が「ジャングル大帝」班に移動することになりました。
すると「アトム」の制作が手薄になるので「アトム」制作を外注に回すことになったのです。
そうすると「アトム」班に何名の余剰人員ができてしまい、そのスタッフたちが浮いてしまったのです。それを見た手塚先生が
「じゃあ新しいの作ればいいじゃないか」
と始まって企画された作品が「W3」なのです。

実はここでも裏話があって
「アトム」制作を外注に依頼した理由というのは手が回らないからではなく
手塚先生があまりにもダメ出しして進行が遅れに遅れるので手塚チェックを受けない外部に依頼したというのが本当の理由と言われています。

スタッフが手塚先生を現場介入させないようにと仕組んだプランだったのにつまはじきにされた手塚先生は、アニメの仕事を取られた鬱憤晴らしを自分で陣頭指揮できる企画を始めちゃうという暴挙に出たというのが正解。
さすが手塚治虫です。
もう本当にこの人はアニメ好きというか
アニメに憑りつかれたド変態ですよマジで(笑)

それで新しく制作された作品が「W3」と思いきやそうではなく
「ナンバー7」という作品でした。かつて月刊誌『日の丸』に連載されていたSF作品で、それをアニメ化するという企画でした。


しかしここで問題がおき題名だけを残して中身を変えることになります。

一番の理由は東映が同じ時期にグループヒーローものを製作しておりまして、その類似品を割ける意味で名前の「ナンバー7」だけ残して、主人公を秘密諜報機関の青年と宇宙のリスを助手という設定に変更するのですがこれも別の作品「宇宙少年ソラン」に似ているということで却下されます。

ここで有名なパクリ疑惑などがあって揉めるのですがここでは割愛します。

少し補足ですが、そもそもこの時期の優秀な脚本家はTV局側から引っ張りだこで複数の掛け持ちも当たり前でした。
だから似たような作品が水面下では乱発していたそうです。
受けた仕事をライバル企業やライバルスポンサーの職場でするなど情報漏洩も減ったくれもない時代です。
パクっていないけど意識的に脚本が似てくることやTV局も流行ものに一斉になびいていましたから必然的に同じような作品が並んでしまうのも当たり前と言えば当たり前と言える時代でした。

このように「W3」のアニメ企画は盗作疑惑等ありまして、
ようやくスタートにこぎつけます。

マンガ連載もTV放映開始の告知も含み
1965年3月より「少年マガジン」にて「W3」の連載が始まりました。
ところが掲載早々「少年マガジン」のスポンサーの関係で「宇宙少年ソラン」の連載が「少年マガジン」にて決定します。
これには手塚先生も「少年マガジン」に抗議します。
似たような作品という理由でTVアニメの時は譲ったのだから
今度は雑誌連載誌で似たようなものは控えて欲しいと
連載は一緒に「載せないで」と「マガジン」に申し入れるんですが、、、

あえなく却下されます。

これで手塚先生はへそ曲げちゃって
というか激怒し「W3」の連載をわずか6回で打ち切ります。
しかもあろうことかライバル誌である「週刊少年サンデー」での連載を決めてしまいます。
しかも「マガジン」側に断りもなく単独で決めてます(笑)

これは前代未聞です。

あろうことか連載を中断してライバル雑誌で連載を引き継ぐという暴挙
しかも題名そのままで構想を変えて新たに連載するという奇天烈ぶり
これには日本中の子供たちが一番混乱しました。

そりゃあそうです。
来週からいきなりワンピースが「サンデー」で連載始まったらどうします?
ビビリ散らかしますよね。
そんな怪現象が起きたんです。
出版社とか大人の事情はともかく、読者(子供たち)の反応はチンプンカンプンだったそうです。

手塚先生曰くこの時の誹謗中傷は凄まじく
「読者からのお叱りが一番辛かった」と回顧しておられますが
当たり前です。

詳しい大人の事情なんて子供たちにしてみたら知ったこっちゃないので当然怒りますよ。ちなみにこの後、火の鳥望郷編でも同じことやらかしますけどね…(笑)

というわけで、これが「W3事件」と呼ばれる一連の流れです。
如何でしょうか。
出版業界をまたにかけた禁断のタブーを犯し何より読者である子供たちに
最大級の迷惑をかけるという手塚伝説の中でもトップクラスの問題行動でありました。

さて、それでは
この事件にまつわる「裏話」をいくつか追加しておきます。
まず最初に掲載された「少年マガジン」の6話分(打ち切られた分)
これは出版の関係上、当時「幻の作品」でしたが現在は復刻されておりますのでオリジナル版にて全話読むことができます。(高いですけど…)


そしてこの事件をキッカケに当時の「少年マガジン」編集長が辞任
次期編集長に就任した内田さんは「さいとう・たかを」「水木しげる」といった劇画調作家を積極的に起用し明確に劇画路線へと進みます。
これには内田さん自ら

「手塚治虫への決別、意識的に反骨精神を出していた」

と語っておられるように
これまでの手塚治虫調のポップなマンガから差別化を図りました。

そして翌年1966年には梶原一騎の「巨人の星」が登場し「少年マガジン」は一気に日本中に劇画ブームを起こします。

一方の「少年サンデー」と手塚治虫は低迷期に入っていくという何とも皮肉的な展開になっていきます。
この時代の変化はアニメの方でも起きており
「W3」のアニメ放映は、時同じくして1965年6月から始まるのですが
同じ時間帯の裏番組に円谷プロの「ウルトラQ」がここで登場します。

すでにゴジラや特撮物の怪獣ブームが起きている最中でしかもその円谷英二が仕掛けてくる特撮ということで
手塚先生はすでにいや~な予感をしていたそうです。


そして来るべき「ウルトラQ」第1回の放送を
家族と共に自宅のテレビで見た時の様子が語られております。

「ぼくも驚いたが、ぼくの息子の興奮ぶりはすごいものであった。
目はランランと輝き、喰いこむようにゴメスとリトラの猛威もういを見つめていた。クライマックスが終わってから、ぼくはわが「W3」へチャンネルを変えた。その動きやアクションのみすぼらしさ。
「ああ、これで負けた!」と感じた」

講談社版全集第398巻『手塚治虫エッセイ集8』


それまで20%以上だった「W3」の視聴率が急低下し
放送枠が月曜7時半に変更されたりと、まさに惨敗を喫したわけです。

完全敗北です。

このようにアニメでも原作でもボコられた手塚治虫。
時代はまだ手塚治虫の全盛期ではありましたがこの時すでに時代の潮目が変わってきており徐々に手塚治虫がマンガ界の中心から外れていくのです。

ちなみに
特撮番組に蹴散らされた手塚先生はその半年後に
日本初のカラー特撮テレビドラマ「マグマ大使」を放映開始するという反撃に出ます。この辺りの負けず嫌いというか何でも対抗する手塚治虫は抜群に面白いです。過去記事もご覧になってみてください


このような関係性から手塚治虫と「少年マガジン」は犬猿の仲に感じますが
実際はどうだったのでしょう…。

「W3」の連載が決まる前までの手塚先生は「少年サンデー」と専属契約を結んでいましたのでずっと「少年サンデー」で連載していました。
(実は結構曖昧な契約だったそうですが…)

…でようやくその契約も一段落してきたということで
その頃合いを見計らって「少年マガジン」側が手塚先生に連載の依頼をして
ついに「少年マガジン」での掲載が決定しその作品が「W3」なのです。
だから「少年マガジン」にとっても「W3」の連載は待望の手塚治虫の連載決定であり「少年マガジン」にとっても初の手塚作品の誕生でありました。(ちなみにこの時期は手塚治虫の取り合いなので雑誌に手塚マンガが載っていることがステータスでありました)

このようにようやく「少年マガジン」での連載が実現したにも関わらず
手塚先生から掲載を打ち切るなんて言われたので「何とかしないと!」と
局長と編集長自らが手塚先生のところに赴いたそうです。
ですが、、時すでに遅し
手塚先生は「少年サンデー」と話をつけており「少年マガジン」との契約は強制終了に近い状態だったそうです。

この時の「少年マガジン」側の手塚治虫への怒りは相当なものだったそうで
創刊当時から手塚作品が欲しくてたまらなかったショックと色んな複雑な思いが交錯して相当に落ち込んだと編集の方が語っておられます。
この無念を通り越した激烈な怒りが「少年マガジン」が劇画へ向かわせた原動力になったと言われています。

それから数年の後

「少年マガジン」はこれまでの事は水に流して疎遠になっていた手塚先生に再び声をかけます。

それが1973年のこと、、

しかし「少年マガジン」が訪問する3日前
某雑誌の編集長が訪問しており新しい連載を決めたところでした。
その雑誌とはいわずもがな、「少年チャンピオン」であり
その作品とは
「ブラックジャック」であります。


このように「少年マガジン」は手塚治虫にとってあまり縁のない雑誌と言えます。しかしながら手塚治虫に対しては最大限の敬意と尊敬を持っている出版社でもありました。

事実、当時の「週刊少年マガジン」編集長・宮原照夫さんが1977年6月から
手塚治虫の多大な業績を残したいとの事で「手塚治虫漫画全集」を刊行。
ご存じ全400巻からなる個人全集であります。
これまでの経緯を鑑みれば小学館から出すのが通例と言えますが
手塚先生は常日頃から個人全集を出すのなら装丁の美しい講談社で出版したかったと語っておりついに念願の両者の想いが合致したわけであります。


その他にも「全作品カタログ」を発行したり
1974年4月には「手塚治虫30年史」なる特集号が突如発売するなどめちゃくちゃ手塚先生に好意的な出版社なのです。

そのときの連載作家でもない作家に違う出版社がこれだけの特集を組むこと自体がまさに前代未聞といえます。
急にマガジンで「ワンピース」特集やります?あだち充特集とかやります?
普通では考えられないことです。

やはりこれはとんでもない異例中の異例であり
一人の作家として特大級のリスペクトをもっていたという証明です。
過去に色々トラブルがありましたが
決していがみ合っていたわけではなく作家と出版社互いに尊重し合っていた関係性であるといえる小噺でございました。

というわけで手塚史上最大の問題作ともいえる「W3」のご紹介でした。
講談社発行の「手塚治虫漫画全集」のあとがきにも手塚先生本人による言い分も掲載されておりますので
ぜひそちらも参考になさってみてください。

最後までご覧くださりありがとうございました


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