あれから75年…手塚治虫と戦争
「これだけは断じて殺されても翻せない主義がある。
それは戦争は御免だということだ」 手塚治虫
今回は手塚治虫と戦争というテーマで語っていこうと思います。
優れた戦争マンガは沢山あると思いますけど
戦争体験者が描くマンガ作品というのはもう出てこないでしょう。
当たり前ですがそれは書き手がもういないからです。
いくら今後素晴らしい戦争マンガが出て来たとしても
戦争経験者が描く圧倒的リアリティの前には絶対に勝てないと思うからです
戦争なんて生半可な経験じゃありませんからね。尋常じゃないことです
戦争という異常ともいえるトラウマ的な体験は
どんな資料を見て、どんな話しを聞いて描いたとしても
経験者の実体験のリアリティには勝てるわけがありません。
現実を伝えるという側面においては経験者には逆立ちしても適わない
それほど経験者と未経験者の差は圧倒的ということです
戦争マンガの代表と言えばおそらく「はだしのゲン」とか「火垂るの墓」を思い浮かべる方が多いかと思いますけど
もっと手塚治虫がクローズアップされてもいいと思っています
それは決してボクが手塚治虫が好きだからという理由だけじゃありません。
実は手塚先生も戦争体験者のひとりであり
戦争の経験を後世に伝える作品を多く残してきています。
そもそも手塚治虫の描く作品の根底には
この戦争体験が色濃く影響しています。
悲惨さや不条理そしてひときわ「生命」について生きていくことの尊さを
作品を通じて読者に語り継いでいる作品が多いです
年々戦争の経験を伝える世代が少なくなっていく
戦争の記憶が人々から薄れていく中で
手塚治虫が残した作品に目を向けることには
我々日本人にとって非常に重要な意味を持っていると思います
体験というのは時間経過によって必ず風化するものですが
この戦争だけは人類として風化させてはいけません。
日本が誇る一線級の「反戦漫画の記録」
手塚治虫が描いた戦争というものを今回は体験して欲しいと思います。
手塚治虫が残したいくつか作品がある中で
今回は「紙の砦」という作品をベースに
手塚治虫が体験した戦争を辿ってみることにしましょう。
手塚少年は13歳で太平洋戦争
14歳で少年兵に志願されたが近眼のため失格
1945年昭和20年17歳の頃には大阪大空襲を経験しています。
大阪大空襲とは
被災家屋は13万6千戸を数え、約4000人もの命を奪った凄惨な出来事です。
この時期中高生は
学校の授業は、ほったらかしで軍事教練の時間が続きます
戦争末期になると、
無くなった授業が多く学徒動員で軍事工場に通わされていました
軍事工場のあった阪神工業地帯には毎日B29の編隊が飛んで来ます
そして軍事工場に爆弾を落としていくんですね
爆撃に残った(余った)爆弾は軍事工場以外のあらゆるものに
落として帰るというとてつもない事が続き
昭和20年あたりは大阪は焼け野原となっていました。
1945年3月
ある日手塚少年が交代で監視哨にいるときに空襲警報が鳴ります
監視哨とは監視するためのやぐらのようなものです。
手塚少年はその日監視の役目についていたんですね
普通は警戒警報が出たら避難するはずが、その日は
その間もなくみるみる敵機が現れたそうです。
雲間から突然
軍の爆撃機「B-29」274機が大阪の空を埋め尽くすように飛来
敵機は爆弾と焼夷弾を落とすわけですが
焼夷弾の束が雨あられのように降ってきたそうです
焼夷弾とは爆弾を落とすまえの火炎びんみたいなもので
遠くに落ちるときは夕立のようなザーッという音がするんですが
それが頭の上まで近づくと、
ガラスを引っかいたようなキューンという音に変わるそうです
その時は気づいたら「キューン」という音がして
焼夷弾の束が唸るように落ちてきたときは
「もうダメだ」と手塚少年は死を覚悟したそうです
音がしたときにはもう落ちているそうで
下の連中は即死、上から落ちてくる焼夷弾は
立っている人間を突き抜けて地面に2~3mめりこむ衝撃
堕ちたものは必ず爆発して油が飛び散り
炎は地面を舐めるように這い、辺りが火の海になる
そうやってあらゆるものを焼き散らした後に爆弾が落ちてくる
そして本来手塚少年が非難するべきだった防空壕へ焼夷弾が直撃します。
大勢の友が死に、自らは奇跡的にわずかに逸れて生き延びることができた
言葉ともならない訳のわからない事を叫びながら一目散に逃げたそうです。
そして命からがら淀川の堤防の方へ逃げて唖然とします…
淀川大橋に何百人と非難しているところへ爆弾が直撃
人間のちぎれた手足やら首やらが焼けて散乱している
すさまじい有様だったと語っています。
空は真っ黒の黒煙で覆われていて別次元の世界にいるのではと錯乱した
「これは嘘の世界なんだ」と事実として認識できなかったそうです
まさに人生観を変えた出来事として手塚少年の記憶に刻み込まれるわけです
8月15日終戦の日
その日もやけくそでマンガを描いていた手塚少年
どうも周りの様子がおかしい
辺りがシーンとしていてセミの声すら聞こえない
異常さを感じた手塚少年は外へ出てみると誰も歩いていない
これはおかしいと大阪に向かうことにします。
大阪に向かう途中には日が暮れ辺りも暗くなっていました。
そんな暗闇の大阪に着いたら目を見張る光景が現れたんです。
阪急百貨店に煌々と電気がついていたそうです
それまでは灯火管制といって
民間施設および軍事施設の灯の使用を制限されていた時代
夜に明かりをつけていると夜間空襲の標的になってしまうので
真っ暗なことが当たり前
ところが8月15日の夜は目を疑うように
イルミネーションが空に向けて煌々と光っていたそうです
焼け野原になったはずだから残された光なんて
大した光ではないはずなのにそれでも点灯している光だけでも
眩しいくらいの輝きを放っていた
「これを見たときには本当に泣いた。」
「あぁ戦争が終わった!」「良かった!」
「大変申し訳ないけど生き延びて良かった」
「十中八九戦争で死ぬと思っていたから心の底から、
神に感謝するというか天地神明、何に感謝していいのかわからなかった」
と回顧しています。
「これからおれは生きてやる!」
「とことん生きてやる!」
「好きなことをして生きてやる!」と誓ったそうです。
そして
ボクがやりたかったこと
それは「マンガを描くこと」だと。
そんな戦争かでもマンガにかけた思いというのが
この「紙の砦」で描かれております。
戦争という絶望的な状況の中にあってもひたすら「漫画を描きたい!」という手塚少年の情熱がリアルなまでに描かれています。
当時は出版統制令が出され、限られたものしか出版を許されない時代。
不条理なまでの暴力支配と
弱いものは駆逐されるか軽蔑される時代
マンガを描くという文化なんて戦争の前では全くの無意味
むしろ反逆の対象ですらあったそうです
当然マンガなんて書店に1冊も並んでいなかったらしい…
著書『ぼくはマンガ家』ではこう書かれています。
「漫画なんぞ描いていようものなら、それこそ非国民、
反動扱いで拷問にでもあいそうな空気であった」と。
マンガを描くことが死ぬほどに大好きな先生にとって
自分の大切なものを容赦なく奪っていく絶望的な時代
食べたいものも食べられない、やりたいこともできない、
将来の夢も好きな子も奪われる…。
すべてが奪われていく
そんな凄惨な環境の中でも
コッソリとマンガを描いていたそうです
時代の圧力に抵抗してまでもマンガを描き続けた軌跡が
本作には描かれているんです。、
そして本編にはちょっとしたロマンスも描かれており
女の子と会って話しているところを見られるだけで引っぱたかれる時代に
自分の描いたマンガを褒めてくれる美人に一目ぼれする手塚少年
そんな好きになった子すらも戦争によって
顔の半分が焼けただれ見るも無残な姿に変えられてしまう。
本当すべてのものが容赦なく破壊していく戦争というものが
異常で過酷な状況であったかわかります。
好きなことが自由にできないだけでなく、
理不尽に夢も希望も友も好きな人でさえもが奪われていく現実は、
まさに悪夢
このような壮絶な体験をしてきたからこそ
手塚作品の根底には生命への尊厳という思想が一貫したテーマとなっているわけです
「生命のありがたさというようなものが、意識しなくても自然に出てしまう」と語っているように
希代のストーリーテラーとも呼ばれるその発想の一端には間違いなくこの戦争体験が影響しています。
死と隣り合わせの日々の中でも漫画への情熱を燃やし続け、
戦争の悲惨さを後世に語り継ぐべく残した巨匠手塚治虫の戦争マンガ
ボクたち戦争を体験していない世代が戦争を語る難しさを
マンガという語り部を通じて今一度
ぜひご覧になって戦争について考えてみてはいかがでしょうか。
今回ご紹介したマンガは「紙の砦」という作品です。
リンクを貼っておきますのでチェックしてみてください。
今回の動画良かったと思われましたらぜひ、コメントお願いします。
そしてたくさんの方に手塚治虫の戦争マンガに触れてほしいと思います。
動画でご覧いただけますとさらに分かりやすいと思いますのでぜひ覗いてみてください。そしてコメント欄のたくさんの方のご意見もご覧いただけますと幸いです。
次回ももう一本戦争マンガを取り上げてみたいとおもいますので
ぜひご覧になっていただけますと嬉しいです
では今回はここまで。
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