1.バテレン追放令
ワシは日本史はこれから。メモです。
豊臣秀吉は元来織田信長の政策を継承し、キリスト教布教を容認していた。1586年(天正14年)3 月16日には大坂城にイエズス会宣教師ガスパール・コエリョを引見し、同年5月4日にはイエズス会に対して布教の許可証を発給している。
しかし、九州平定後の筑前箱崎に滞在していた秀吉は、長崎がイエズス会領となりキリスト教信者以外の者が奴隷として連れ去られていることを知らされた。これに驚いた秀吉は、『天正十五年六月十八日付覚』を認め、この翌日の6月19日(7月24日)ポルトガル側通商責任者(カピタ ン・モール)ドミンゴス・モンテイロとコエリョが長崎にて秀吉に謁見した際に、宣教師の退去 と貿易の自由を宣告する文書を手渡してキリスト教宣教の制限を表明した。
『天正十五年六月十八日付覚』
1. (自らが)キリスト教徒であることは、その者の思い次第であるべきである。
2. (大名に)国郡の領地を扶持として治めさせているが、その領地内の寺や百姓などたちにその気がなかったのに、大名がキリスト教徒になることを強いるのは、道理が通らずけしからんこ とだ。
3. 大名がその国郡を治めることについて、大名に命じているのは一時的なことなので、大名が交代することはあっても、百姓は交代するものではないので、道理が通らないことはなにかしらあることで、大名がけしからんことを言い出せば、(百姓を)その意のままにできてしまう。
4. (知行地が)200町、3000貫以上の大名は、キリスト教徒になるには、秀吉の許可を得れば出来ることとする。
5. 知行地がこれより少ない者は、八宗九宗などのような宗教上のことだから、その本人の思い次第であってよい。
6. キリスト教徒については、一向宗以上に示し合わせることがあると、そう聞いているのだが、 一向宗はその国郡を寺領(寺内町)を置いて大名への年貢を納めないだけでなく、加賀国を全 てを一向宗にしてしまい、大名の富樫氏を追放し、一向宗の僧侶に治めることを命じ、そればかりか、させ越前国までも取ろうとし、治天下の障害になっていることは、もう隠しようがない事実だ。
7. 本願寺の僧侶には、天満の地に寺を置く(=天満本願寺)ことを許しているが、この(一向宗 の)寺領のようなものは以前から許したことはない。
8. 国郡や領地をもつ大名が、その家臣達をキリスト教徒にさせようとすることは、本願寺の宗徒が寺領を置くことよりもありえないことであるから、治天下の障害となるので、その常識がわからないような者には処罰ができることとする。
9. (大名などよりも)下の身分の者が思いのままにキリスト教徒になることについては八宗九宗 と同じで問題にならない。
10. 中国、南蛮、朝鮮半島に日本人を売ることはけしからんことである。そこで、日本では人の売 買を禁止する。
11. ウシやウマを売買して食べることは、これもまたけしからんことである。
ことごとくこれらの条文で固く禁止し、もし違犯する連中があればすぐに厳罰に処する。 以上 天正15年(1587年)6月18日
『吉利支丹伴天連追放令』
1. 日本は自らの神々によって護られている国であるのに、キリスト教の国から邪法を さずけることは、まったくもってケシカランことである。
2. (大名が)その土地の人間を教えに近づけて信者にし、寺社を壊させるなど聞いたことがない。(秀吉が)諸国の大名に領地を治めさせているのは一時的なことである。天下からの法律を守り、さまざまなことをその通りにすべきなのに、いい加減な態度でそれをしないのはケシカラン。
3. キリスト教宣教師はその知恵によって、人々の自由意志に任せて信者にしていると思っていたのに、前に書いたとおり日本の仏法を破っている。日本にキリスト教宣教師を置いておくことはできないので、今日から20日間で支度してキリスト教の国に帰りなさい。キリスト教宣教師であるのに自分は違うと言い張る者がいれば、ケシカランことだ。
4. 貿易船は商売をしにきているのだから、これとは別のことなので、今後も商売を続けること。
5. 今から後は、仏法を妨げるのでなければ、商人でなくとも、いつでもキリスト教徒の国から 往復するのは問題ないので、それは許可する。
以上 天正15年(1587年)6月19日
ただ、この機に乗じて宣教師に危害を加えたものは処罰すると言い渡している。キリスト教へ 強制の改宗は禁止するものの、民衆が個人が自分の意思でキリスト教を信仰することは自由と し、大名が信徒となるのは秀吉の許可があれば可能とした。事実上は信仰の自由を保障するものであった。この直後、秀吉は長崎をイエズス会から奪還し、天領とする。
「追放令」の起草
追放令本文の起草は秀吉本人ではなく、秀吉の側近で主侍医でもあった施薬院全宗とされている。なお、ルイス・フロイス『日本史』によれば、全宗の師である曲直瀬道三は、この追放令発布以前にキリスト教に入信し(天正12年、1592年)、「ベルショール」の洗礼名を受けている。
施薬院全宗
「(全宗の)言ふところ必ず聞かれ、望むところ必ず達す」(『寛政重修諸家譜』)というほど秀吉の信頼は厚く、秀吉から偏諱を与えられた息子の秀隆とともに秀吉側近としても活躍。
天正15年(1587年)発布の定・バテレン追放令は全宗の筆によるもので、切支丹追放にも活躍。豊臣氏番医の筆頭として、番医制の運営につとめる。
追放令の原因
秀吉がこの追放令を出した理由については諸説ある。
1. キリスト教が拡大し、一向一揆のように反乱を起こすことを恐れたため。
2. キリスト教徒が神道・仏教を迫害をしたため。
3. ポルトガル人が日本人を奴隷として売買していたのをやめさせるため。
4. 秀吉が有馬の女性を連れてくるように命令した際、女性たちがキリシタンであることを理由に拒否したため。
1.については、イエズス会宣教師ルイス・フロイスによると秀吉の言い分は「かつて織田信長を苦しめた一向一揆は、その構成員のほとんどが身分の低い者だったが、キリスト教は大名にまで広まっているため、もしキリシタンたちが蜂起すれば由々しき事態になる」というものである。
秀吉がこのような考えを持つに至った直接的なきっかけは、九州征伐に向かった秀吉の目の前で、当時の日本イエズス会準管区長でもあったガスパール・コエリョが、スペイン艦隊が自分の指揮下にあるごとく誇示したことだとも見られている。同時期にイエズス会東インド管区巡察師として日本に来ていたアレッサンドロ・ヴァリニャーノはコエリョの軽率な行動を厳しく非難し ており、コエリョの行動に問題があったことは確かなようである。
キリスト教の拡大について は、6月18日の11か条の「覚書」(『御朱印師職古格』)ではキリシタンも「八宗九宗」(第九 条)と規定して体制下の宗教と見なしていたが、翌19日の「追放令」ではこれを覆すかのように 「邪法を授け」るものとしてキリスト教を厳しく規定しなおしている。
2.のキリシタンによる神道・仏教への迫害については、九州において領民を強制的にキリスト教に改宗させたり、神社仏閣を破壊するなどといったことが有馬氏や大村氏などで行なわれてい た。秀吉はコエリョに「なぜ神仏の寺院を破壊し、その像を焼くのか」と質問しているが、コエリョは「キリシタンたちは、我らの教えを聞き、真理を知り、新たに信ずるキリシタンの教え以外には救いがないことを悟った。
彼らは、(中略)神仏は自分たちの救済にも現世の利益にも役 立たぬので、自ら決断し、それら神仏の像を時として破壊したり毀滅したのである。」(ルイ ス・フロイス「日本史 4」)と回答している。
3.の人身売買説に関しては、11か条の「覚書」に、日本人を南蛮に売り渡すことを禁止する一文がある一方、翌日の「追放令」にはそのような文言は見当たらない。秀吉は1587年の九州征伐の際、九州を中心として奴隷貿易が行なわれていたことについて当時のイエズス会の布教責任者であったコエリョを呼び詰問するとほぼ同時期に、バテレン追放令を発布している。
コエリョ
ただし、 イエズス会は日本人を奴隷として売買することを禁止するようにポルトガルに呼びかけていたこと、ポルトガル国王セバスティアン1世は大規模になった奴隷交易がカトリック教会への改宗に悪影響を及ぼすことを懸念して1571年に日本人の奴隷交易の中止を命令したことについて秀吉が知っていたかどうかについては不明である点には留意が必要である。
ポルトガル国王セバスティアン1世 リンク
4.の女性問題で秀吉が激怒したと言うのは(フロイス日本史)、正確には「女を連れていこうとした施薬院全宗が怒って、秀吉にキリシタンを讒言した」というものであり、「秀吉が女漁りを邪魔されて怒った」というのは誤りである。よってこれが理由ということは考えられない。
追放令後
禁令を受けたイエズス会宣教師たちは平戸に集結して、以後公然の布教活動を控えた。松田毅一 氏の「秀吉、南蛮人」からは8月5日付けでフロイスが平戸で年報を執事しているところを見れば、「この平戸にはドミンゴス・モンティロのポルトガル船が碇泊していたから、はじめは船内で協議していたかもしれぬが、各地からコエリョの指令に接して多数の会員が集結してきたので付近の度島に移ったと思われる。
さらにフロイスの10月2日付けの2つの年報が日付けを同じくす るにもかかわらず、一は「平戸」他は「平戸に近い度島」とあるのはこの間の事情があるようで、この島は平戸の北側、3.5平方メートルの小島でキリシタンの籠手田氏の所領であった。
この度島の洞窟で重大な会議が開催された。「日本占領計画」なるもので長崎を軍事化し要塞を作 り、植民地化しようと企てたがキリシタン大名の理解が得られず、幻に終わった。南蛮貿易のもたらす実利を重視した秀吉は京都にあった教会(南蛮寺)を破却、長崎の公館と教会堂を接収してはいるが、キリスト教そのものへのそれ以上の強硬な禁教は行っていない。秀吉がキリスト教に対して態度を硬化させるのはサン=フェリペ号事件以後のことである。このため宣教師は再び各地に分散または潜伏し、この追放令は空文化した。
日本において、キリスト教が実質的に禁じられるのは徳川家康の命による1614年(慶長19年)の キリスト教禁止令以降のことになるが、家康の禁教令も言い回しなど基本的な部分においてこの 秀吉のバテレン追放令にならうものとなっている。
サン=フェリペ号事件
経緯
背景
天正15年(1587年)に豊臣秀吉が発したバテレン追放令はキリスト教の布教の禁止のみであり、南蛮貿易の実利を重視した秀吉の政策上からもあくまで限定的なものであった。これにより“黙認”という形ではあったが宣教師たちは日本で活動を続けることができた。また、この時に禁止されたのは布教活動であり、キリスト教の信仰は禁止されなかったため、各地のキリシタンも公に迫害されたり、その信仰を制限されたりすることはなかった。サン=フェリペ号事件はそのような状況下で起こった。
土佐へ漂着まで
1596年7月、フィリピンのマニラを出航したスペインのガレオン船サン=フェリペ号がメキシコを目指して太平洋横断の途についた。同船の船長はマティアス・デ・ランデーチョであり、船員以外に当時の航海の通例として七名の司祭(フランシスコ会員フェリペ・デ・ヘスースとファン・ポーブレ、四名のアウグスティノ会員、一名のドミニコ会員)が乗り組んでいた。サン=フェリペ号は東シナ海で複数の台風に襲われて甚大な被害を受け、船員たちはメインマストを切り倒し、400個の積荷を海に放棄することでなんとか難局を乗り越えようとした。しかし、船はあまりに損傷がひどく、船員たちも満身創痍であったため、日本に流れ着くことだけが唯一の希望であった。
文禄5年8月28日(同年10月19日)、船は四国土佐沖に漂着し、知らせを聞いた長宗我部元親の指示で船は浦戸湾内へ強引に曳航され、湾内の砂州に座礁してしまった。大量の船荷が流出し、船員たちは長浜(現高知市長浜)の町に留め置かれることになった。
秀吉側の対応
一同で協議の上、船の修繕許可と身柄の保全を求める使者に贈り物を持たせて秀吉の元に差し向け、船長のランデーチョは長浜に待機した。しかし使者は秀吉に会うことを許されず、代わりに奉行の1人増田長盛が浦戸に派遣されることになった。それに先立って使者の1人ファン・ポーブレが一同のもとに戻り、積荷が没収されること、自分たちは勾留され果ては処刑される可能性があることを伝えた。先に秀吉はスペイン人の総督に「日本では遭難者を救助する」と通告していたため、まるで反対の対応に船員一同は驚愕した。
増田らは、白人船員と同伴の黒人奴隷との区別なく名簿を作成し、積荷の一覧を作りすべてに太閤の印を押し、船員たちを町内に留め置かせ、所持品をすべて提出するよう命じた。さらに増田らは「スペイン人たちは海賊であり、ペルー、メキシコ(ノビスパニア)、フィリピンを武力制圧したように日本でもそれを行うため、測量に来たに違いない。このことは都にいる3名のポルトガル人ほか数名に聞いた」という秀吉の書状を告げた。このとき、水先案内人(航海長)であったデ・オランディアは憤って長盛に世界地図を示し、スペインは広大な領土をもつ国であり、日本がどれだけ小さい国であるかを語った。
これに対して増田は「何故スペインがかくも広大な領土を持つにいたったか」と問うたところ、デ・オランディアは次のような発言を行った。「スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服を事業としている。それはまず、その土地の民を教化し、而して後その信徒を内応せしめ、兵力をもってこれを併呑するにあり」。これにより秀吉はキリスト教の大規模な弾圧に踏み切ったとされる。
この経緯はスペイン商人ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンが書いた『日本王国記』に、イエズス会士モレホンが注釈をつけたものであり、似たようなやり取りはあったものと見られている。
処遇と影響
長盛は都に戻り、このことが秀吉に報告された。直後の同年12月8日に天正に続く禁教令が再び出され、京都や大坂にいたフランシスコ会のペトロ・バウチスタなど宣教師3人と修道士3人、および日本人信徒20人が捕らえられ、彼らは長崎に送られて慶長元年12月19日(1597年2月5日)処刑された(日本二十六聖人)。
ランデーチョは、修繕のための船普請を早期に開始するよう秀吉に直接会って抗議しようと決めた。長宗我部元親は12月にランデーチョらが都に上ることを許可した。しかし交渉の仲介を頼もうとしたフランシスコ会は捕縛された後であったため、船員たち自身で抗議を重ね、秀吉の許可によりサン=フェリペ号の修繕は開始された。一同は1597年4月に浦戸を出航し、5月にマニラに到着した。マニラではスペイン政府によって本事件の詳細な調査が行われ、船長のランデーチョらは証人として喚問された。その後、1597年9月にスペイン使節としてマニラからドン・ルイス・ナバレテらが秀吉の元へ送られ、サン=フェリペ号の積荷の返還と二十六聖人殉教での宣教師らの遺体の引渡しを求めたが、引き渡しは行われなかった。