神皇正統記「日本は九つの夷のその一なるべし。異国のこの国を東夷とする」
5817文字
北畠親房著の「神皇正統記」という天皇代々の歴史にとても詳しい古文書がある。その神皇正統記が日本を夷とか異国とか、それは言ってはいけないんじゃないかな?(^_^;)
北畠 親房
北畠 親房は、鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿、歴史家。著書の『神皇正統記』で名高い。源氏長者、南朝従一位准大臣、准三后。贈正一位。後醍醐天皇側近「後の三房」の筆頭。
後村上天皇の治世下でも、1344年春に吉野行宮に帰還してから、1354年5月10日に没するまで、南朝を実質的に指揮した。建武の元勲の1人。
wikiより詳しく読みやすい「神皇正統記」の説明
神皇正統記
南北朝時代に書かれた歴史書。北畠親房著。片仮名まじりの文で書かれ、当初の巻数は未詳であるが、流布本の多くは六巻。親房は、暦応元年(延元三、一三三八)九月、南朝の頽勢を挽回するために、義良親王・次子顕信とともに海路伊勢から東国に向かった。
しかし、暴風に逢って親王・顕信の船は伊勢に戻され、親房の船だけが常陸国に着いた。筑波山麓の小田城に入った親房は、結城親朝に書状を送るなど、南朝方の強化をはかったが、情況を好転させることはむずかしかった。
小田城で起筆された本書は、義良親王のために書かれたものとされてきたが、近年は、結城親朝に対して南朝を中心とする日本国のあるべき姿を説いたものとする見方も、多くの支持を得ている。暦応二年八月、後醍醐天皇が吉野で没し、義良親王が後村上天皇となった知らせを受けた親房は、かねて書き進めていた本書にそのことを記して、全巻の筆を擱いた。その後も常陸を転戦した親房は、康永二年(興国四、一三四三)に、関城で初稿本に修訂を加えた。
全篇の構成は、最初に日本国の国号の由来と、世界の中の地理的な位置について説明した序があり、ついで天地の開闢について、天竺・震旦の諸説を概観した後、日本の天地開闢から草葺不合(うがやふきあえず)尊までの神代の概略を述べる。
いわゆる日本神話を簡潔に記した後、親房は、神武から後村上までの人皇の時代の歴史を叙述することになるが、それは歴代天皇について、代数・世数・称号・諱・系譜上の位置・即位の年・改元の年・都・在位年数・享年、の十項目を記して行くという、鎌倉時代に盛行した年代記の形式を骨格としている。
そして、この歴代天皇の年代記的記述の間に、親房独自の論述を書き込む形で本書は成り立っており、皇位継承の経緯を説明する部分が、本書の本体である。中でも、後醍醐天皇の部分は、記述も詳しく、政道を論じて政策を批判するなど、生彩に富み、本書の特色がよくあらわれている。本書は、その明確な歴史への態度と、強い意志を表わす明晰な文章とによって、広く読まれ、『大日本史』の編纂や、山鹿素行・新井白石・頼山陽などに多大の影響を与えた。
本書は、天皇の系譜を中心にして日本国の歴史を書こうとする記紀以来の立場をとっているが、皇位継承が直系で一貫してはいないことを、儒教的な歴史論と政道思想によって説明しようとしている。つまり、皇位は常に天照大神の子孫に受け継がれてはいるが、実際はその中でいくつにも枝分かれした皇統の間を移動しているわけであるから、皇統間の移動を儒教的な思想で正当化しようとする。(ワシと同じ系の考え)
他方、天皇の超越的な性格を説明するために、親房は、伊勢で交わった度会家の神道説を援用した。親房が本書に先立ってまとめた神道書の『元元集』は、本書述作の基礎となっている。親房は、皇位の象徴である三種神器を、鏡は正直、玉は慈悲、剣は智恵の本源を現わすものと説いて為政者の三つの徳を論じ、三種神器が人間の歴史を超えて神代から伝えられたものであり、それを受け継ぐ天皇には、三つの徳が具現されると主張するが、それは中世の神道的な歴史論をよく示している。
神皇の正統(皇位の継承)の中に、天照大神の神意を見ようとする本書は、神国思想を代表する古典として、明治以降特に重んぜられた。歴史の動きを凝視して、歴史の道理を考えた慈円の『愚管抄』と、皇位継承の通観から読み取ったものを論拠にして、政治のあるべき姿を論じた『神皇正統記』とは、中世の歴史書の双璧といえよう。
(大隅 和雄)
ここに神皇正統記の原文が少しあったので翻訳した
神皇正統記
―南朝の正統性を主張した北畠親房の歴史書―
南北朝時代の歴史書。六巻。北畠親房 著。1339年成立、1343年修訂。
神代から後村上 天皇即位までの歴史を描いている。なかでも後醍醐天皇についての記述が一番多い。神武天皇以来、皇位が正しい理に従って継承して来たという皇位継承論と、南朝こそが正統だとする南朝正統論が論述されている。
後代の歴史書である『大日本史』『読史余論』『日本外史』などに大きな影響を与えた。
では神皇正統記を読んでみよう
大日本は神の國なり。天祖が始めて基をひらき、日の神、長く系統を伝えになられる。我国のみ、この事あり。異なる朝廷にはこの類はなし。これ故に神国と云うなり。
神代には豐葦原の千五百秋の瑞穗の国という。天地開闢の初より、この名あり。天祖の国常立尊、陽神陰神(男神と女神)にさずけ与えし、勅に聞こえたり。天照太神、天孫の尊に譲りおわしますにも、この名あれば根本の呼び名なりとは知らぬだろう。(序論)
人皇の第一代、神の日本の磐余彦天皇と申す。後に神武と名付けたてまつる。地神(地皇)鸕鷀草葺不合の尊の第四の子。お母は玉依姫、海神(豊玉彦命)と小童の第二の娘なり。イザナギには六世、大日孁(天照)の尊には五世の天孫におありになる。神の日本の磐余彦(神武)と申すは、神代よりの大和の言葉なり。神武は中古日本語となりて、唐土の言葉によりて定めたてまつる御名なり。また、この御代より代ごとに宮所を移されし、彼は、その場所を名ずけて御名とす。この天皇をば橿原の宮と申すのは、これなり。(神武天皇)
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