日本の古代雲南の「滇国」情報
8551文字 投げ銭制
はじめに
古代中国の殷王朝と周王朝の祭のnoteは読みましたか?
亀甲文字の卜辞の文字から、”凄まじい生贄儀式殺人祭”の世界が見える。
古代滇国の青銅の貝の貯蔵器のnoteは読みましたか?
タイムマシンで行ったように、古代滇国の生贄儀式殺人祭の場面が素晴らしい造形で覗ける。中国では、滇人たちや滇王が残虐な生贄をしたという話になっているが、ワシは疑っていて取調べ中です。
なので古代雲南の滇国と漢を突貫で学んでいる。その一環で「酒池肉林のnote」が出来た。なぜ漢は嘘童話を作ってまで『夏・商・周』王朝をマンセーするのか?(^_^;)
滇(てん)
滇(てん、 Diān)は、前漢時代の紀元前3世紀頃から、雲南省東部の滇池周辺にあった滇人による西南夷の国。
滇人=百濮と考える研究者が多いが、確定していない。
現在の中華人民共和国においても雲南省を「滇」と略す。(➡なので、滇の翻訳はいちいち雲南となり、ワシは困っている。汗)
楚の将軍の荘蹻が遠征した時に、秦によって帰郷できなくなり、やむなく建国したとされる。
荘蹻=楚の荘王の末裔とされる。
紀元前109年に前漢の武帝の攻撃で漢の属国になり、益州郡の統治下に入った。
ネットを徘徊したところ日本語での滇国の優しい説明の記事、最初の学びに良い。これから天皇の謎解きのレベルを上げていくが、下地に読んでおいて欲しい。
1.古代雲南の「滇」国、長年の調査で当時の実態が明らかに―発掘責任者が紹介
中国南部の雲南省には紀元前3世紀ごろから、滇(てん)という王国が存在していた。司馬遷の「史記」にも滇の記述があるが、それ以外の史料が極めて少なく、滇については詳しく分かっていなかった。しかし、長年にわたる考古学調査により滇の実情が判明しつつある。例えば、「滇王之印」が出土したことだ。この金印は日本の福岡県で出土した「漢委奴国王印」と形式が合致している。このことで、滇は当時の中国とは全く別途に存在していたのではなく、漢の皇帝に領土の統治を認められる形式で存在していた国だったことが確実になった。雲南省文物考古研究所の研究員で現地の発掘チームリーダーも務めるの蒋志龍氏はこのほど、中国メディアの中国新聞紗の取材に応じて、これまでに分かって来た滇という古代王国の状況を説明した。以下は蒋研究員の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。
長年にわたる発掘調査で「滇」国の実在を立証
雲南省省都である昆明市郊外には、滇池と呼ばれる省最大の湖がある。滇は戦国時代から漢代まで続いた滇池周辺を統治した国だった。だが、史料不足のために古い時代の雲南の歴史については諸説が入り乱れる状態だった。
考古学者は1956年、滇池の南東岸にある晋寧石寨山古墓群を発掘して、大量の精巧な青銅器や「滇王之印」を発見した。この発見で、滇という古代国が実在したことが分かったとして、センセーションが巻き起った。ただし実際には、この段階で「滇という国が存在した」とまで言い切れなかった。「国家」が成立していたと断言するために必要な、都市や大規模な建物、村や集落、生活の痕跡がといった証拠が不足していたからだ。
雲南省文物考古研究所は2008年、米ミシガン大学と協力して調査を行い、滇池南東岸、南岸、西岸地域の遺跡を発見した。遺跡には、雲南の現地文化に属すると見られるものも、漢族文化に属するものもあった。16年の調査では、さらに古い先滇文化に属する遺跡も見つかった。その後も調査は続き、22年以降には、文字を書く「簡牌」と呼ばれる板も大量に出土した。これは漢代のものだ。さらには、大型建築物の基礎部分や広い道路なども見つかった。
これらの発見により、古代国家である滇の実在が確実になり、その実態も判明してきた。たとえば、行政文書である「簡牌」によって、漢の武帝が滇に役人を派遣するなど、中国各地で採用されていた郡県制を基礎とする行政管理体系が確立されていたことが分かった。
時系列を頭に入れるためw
規模最大の河泊所遺跡は滇の都だった可能性
滇の研究にとって重要な遺跡の一つが河泊所遺跡だ。石寨山古墓群からはわずか700メートルと極めて近い場所にある。河泊所遺跡は雲南で発見されている遺跡の中で規模が最も大きく、街として存続した時間は最も長い。河泊所遺跡では現在、10カ所で正式な発掘が行われている。発掘場所の面積は累計で7000平方メートルに達した。河泊所遺跡は、滇の都だった可能性がある。
河泊所遺跡の調査により、滇の領域で出現する青銅器の出現順序が確定された。炭素14による年代測定によると、河泊所遺跡は紀元前1300年ごろから漢代まで街として機能した。金属製品の研究により、現地で青銅器の使用を開始したのは紀元前1200年から同1100年の間と確定された。金属製品の使用開始は、それまでの説よりも500年以上早まった。
また、前漢は紀元前109年に、現在の行政区分で言えば雲南の北隣にある四川省に益州という郡を設置して中国南西部を統治したが、河泊所遺跡には関連する公文書としての文字が記載された「簡牌」が出としており、滇には益州の出先機関が置かれていたと考えられるようになった。当時の雲南は地方としての独自性を保つと同時に、中央の統治と管理も及んでいた。これは中華文明の多元的かつ一体的な発展(侵略)過程を示すものだ。
ーーーここからプロパガンダが始まるーーー
異なる二つの文化は「二者択一」の対象ではなかった
われわれは、滇池盆地と周辺地域で、石寨山古墓群、江川李家山古墓群など古墓群4カ所と河泊所遺跡を相次いで発見し調査してきた。これらは石寨山(文化的)大遺跡と呼ばれている。これらの遺跡からは、地方色が鮮明な青銅器が出土している。例えば「牛虎銅案」と呼ばれる青銅象や、全体を青銅で作った「銅鼓」と呼ばれる楽器もある。この「銅鼓」は現在でも雲南の一部の少数民族が儀礼用に使っている。兵器や、異なる音高の鐘を並べることで、旋律を奏でられる編鐘も出土した。青銅製のボタン飾りも見つかった。
これらから、古代の滇では、青銅文明が高度に発達していたことが分かった。また、多くのボタン飾りにはルビーなどの宝石がはめ込まれていた。これは、当時の滇が周辺地域と交易をしていたことを示す証拠だ。
先滇文化の遺跡での建物は高床式だが、漢代になると竪穴式住居が出現した。また、基礎を有する建物も造られるようになった。漢代の滇では、現地の伝統的な文化と、中国中央から伝わって来た文化が複雑に融合していた。異なる2種類の文化文明は「あちらを取れば、こちらは取らない。こちらを取れば、あちらは取らない」という二者択一式ではなく、共存し融合した。
先滇時代の建築物は規模が小さく、副葬品も陶器や青銅器など、主に現地文化によるものだった。漢代になると、大型の建物や一定規模の道路が出現し始めて、副葬品に中国中央からきた貨幣や硯(すずり )が出現するようになった。当時の人々は、中国中央部の文化に対して全く受動的であったのではなく、自ら進んで先進的な生産方式や生活様式を導入したと考えられる。
(構成 / 如月隼人)リンク
ラスト、凄い火消しだった・・・(;´Д`A
『異なる二つの文化は「二者択一」の対象ではなかった』としたいのだ。中国政府では、仲良く2つの文明が混ざったと言う、まとめにしないとマズイのだ。( ;´Д`)
中国のWEBで騒ぎになっている殺人祭の話もしないし・・・日本のメディアはなんでもホンワカした話にする、これにより大危機を知らないままの大衆。(;´Д`A
2.古滇国の社会を活写 青銅器に残る人物像
滇は中国南西部国境に位置する雲南省の別称だ。約2000年前、滇池地域に建国した滇国は400年ほど存続した。雲南省博物館の専門家、范舟氏に説明していただきながら、古滇国の素晴らしい青銅器を鑑賞し、その文化的な深みをうかがい知ることができた。
石寨山は、南北500㍍、東西200㍍、高さ33㍍で、クジラのような形をしている。范舟氏によれば、石寨山はかつて滇池に浮かぶ小島だったが、後に水位が下がり、現在の滇池から西へ1㌔離れたところの小山として残ったそうだ。
古代の滇池一帯には、現在のイ(彝)族の祖先が昆明に集落を作り、暮らしていた。その後、ここに滇国が樹立された。司馬遷の『史記・西南夷列伝』によると、戦国時代、楚の威王は荘蹻に兵を率いて、長江をさかのぼらせ、巴、蜀、黔などの地を攻め、最後に滇池地域に侵攻させた。まもなく、秦国の大軍が南下し、退路を絶たれた。荘蹻はやむなく衣装と習俗を変え、滇王と自称するようになった。滇国は10代の王が交代し、約400年間存続した。
前漢初年、漢の武帝が出兵して滇を攻めると、滇王は投降し、臣下として参内した。そこで、武帝は滇王に引き続き滇国の統治を許し、金印を授けた。その後、漢の朝廷は雲南に益州郡を設置し、滇王の権力は郡守(郡の長官)に取って変わられた。こうして、一時輝いた滇国と滇文化はしだいに漢王朝と中華文化に溶け込んだ。
しかし、今から60年前、古代滇国の歴史は明確ではなかった。そこで、1955年から今まで、雲南省博物館をはじめ多数の考古学者らが相前後して、石寨山を対象に5回の発掘を行った。戦国晩期から前漢末期までの89基の古墳群から、青銅器や金器、銀器、鉄器、玉器など計4000点余が出土した。とくに、1956年に6号墓から出土した篆書で「滇王之印」と刻まれた金印は国内外の考古学界を震撼させた。これは『史記』に記載されている前漢元封2年(紀元前109年)に武帝が「滇王に王の印を賜った(賜滇王王印)」という史実を裏付けた。
また、ここ数10年の発掘から晋寧を中心に、滇池周辺に広がる現在の昆明、江川、澄江、呈貢、石林など14の県・市が約2000年前には滇国の属地だったことが明らかになった。現在、石寨山遺跡は国務院によって全国重点文物保護施設に指定されている。石寨山を囲む鉄条網と干欄式建物(高床式の住居)の遺跡の門は周辺に並ぶ花卉栽培のビニールハウス群の中で、ひときわ目立っている。
蓋に戦場の場面が装飾として付いている青銅製の貯貝器(石寨山4号墓から出土)
滇国の国都が未だに発見されていないため、一部の学者は荘蹻が滇に侵攻したこと自体に、異議を唱えている。しかし、石寨山の東5㌔にある晋城古鎮には、荘蹻の塑像が高くそびえ立っており、学界と民衆は司馬遷の記載を認めていることを物語っている。数年前、雲南省博物館は米国ミシガン大学と協力して、3年にわたる考古学的な調査を行った結果、晋城古鎮は約2000年前の滇国の国都であり、後の益州、寧州郡の役所の所在地でもあったという結論を出した。1954年まで、晋城古鎮には周囲4100㍍、高さ4㍍の古い城壁の残骸があったが、後に都市建設のために全部取り壊されてしまった。
貯貝器に生活の断面
石寨山遺跡から出土した青銅器は40種余りに達する。中には祭礼器や武器、当時貨幣としていた貝殻を入れる貯貝器、楽器、生産道具、生活用品、装飾品などがある。そのうち、最も特色があるのは貯貝器や銅鼓、ベルトのアクセサリーと風変わりな武器だ。これらの青銅器に鋳造された各種の人物や動植物、花文様から滇国の生産、生活、祭祀、戦争などの社会現象をうかがい知ることができる。
当時、滇池一帯の気候は温暖、湿潤で、土地も肥沃で、草木が生い茂り、耕作や牧畜に適していた。当時の人々は農耕にも牧畜にも牛が不可欠だったらしく、貯貝器の蓋に牛が鋳造されているケースが多い。
滇国の女性は農耕や紡織、炊事に従事していた。不用になった銅鼓を改造した貯貝器の蓋に、当時の紡織の光景が再現されている。18人の人物の中で、傘をさしている男性のほかは、すべて女性だ。全身金メッキ、四角い座布団に座っている女性は、おそらく紡織工の主人だろう。彼女の監視の下で、地面に座っている女性たちは、布を持っていたり、糸をひねったり、布を織ったり、筬を持って仕事中で、中には完成品を検査しているらしい人もいる。小さいが、彫刻は非常に精巧で、辮髪や丸い髻、螺旋状の髻などの髪型もはっきり見分けられるほどだ。古代雲南の少数民族の髪型研究には貴重な実物の証拠だ。
現在、北京の中国国家博物館に出展されている「納貢貯貝器」は、当時の民衆が滇王に貢ぎ物を献上する場面が留められている。17人の献上者は7組に分けられ、各組の先頭に立ち、たぶん盛装して剣を帯びている人は、各民族の首長たちだろう。その後ろに続く人々は馬や牛を引っ張ったり、荷物を担ったり、かごを背負っている。専門家は彼らの服装と髪型の違いから、それぞれ違う民族の人だと推測している。
当時の滇国は、領土、奴隷、家畜、財産を争奪するために、周辺の昆明国や邛都国、夜郎国とよく戦争をした。2個の銅鼓を重ねた貯貝器の上には、滇国と昆明国の戦場の戦闘場面が描写されている。直径33㌢の蓋には、22人の人物と5頭の馬が鋳造されている。突進する騎兵、格闘中の歩兵、倒されて必死にもがく負傷者、跪いて許しを乞う投降者の姿が描かれ、体と首がバラバラにされている……などの悲惨な場面もあり、見る者をドキッとさせる。
祭祀も古代国家の重大行事だ。鼓の形をした貯貝器に描かれた祭祀の場面には、驚かされた。中心には銅鼓3個を重ねた神柱があり、左側は祭祀をしているところで、座っている人、跪いている人、木板に縛られた徒刑者、体しか残ってない死体も描かれている。右側の主要な人物は全身金メッキで輿に座った女性で、2人に担われ、前後に道案内の騎士がついている。おそらく彼女はこの祭祀の主宰者か祭祀者なのだろう。専門家は彼女の周りに頭上に種子かごを載せた人、鋤や種まきの道具を手にした人がいることから、これは滇国の猟師が穀物神を祭祀する豊作祈願の場面だと推測している。
■武器にはスキタイ文化
土地、奴隷、家畜、財産を奪い合うため、滇国は常に隣の昆明や邛都、夜郎などの国々と戦っていた。そのため、武器の製造技術が進歩し、現在出土している武器は多い。そのうちの1点は「吊人銅製矛」で、取っ手に近い矛の両側にそれぞれ穴が開けられ、穴にそれぞれ両手を後ろ手に縛られた裸の奴隷が吊るされている。頭を低く垂れ、体が曲がり、苦痛にゆがんだ表情だ。垂れている弁髪から見れば、当時の昆明国の俘虜奴隷だろう。滇国の貴族はこの武器を副葬品としたのは、異国を征服したことを誇示するためだったが、約2000年前の戦争と奴隷制度の残酷さを私たちに伝えている。
滇国は辺鄙なところだったので、中原の伝統的な礼法などの束縛が比較的少なく、武器の工芸もより開放的で、発想も奇抜だった。展示ケースに、形が珍しく、飾りが奇抜なカエル型の矛、ネズミをくわえたヒョウが飾られた銅矛、3頭のクマの銅矛、2頭のシカの銅製啄(武器の一種)、牛をかむ虎が飾られた銅製「狼牙棒」(尖った釘がたくさん付いた棒状の武器)、サル飾りの銅鉞(考証によれば、越人が使うことで名を得たという)などが展示されている。
これらの奇抜な武器の由来を聞くと、北方草原のスキタイ文化の影響を受けていると、范氏は説明してくれた。昔、中央アジア一帯に暮らしていたスキタイ人は、鉞、矛などの兵器に虎やシカなどの動物を飾る伝統がある。しかし、滇墓から出土したこれらの武器には、実用的な価値はなく、たぶん貴族が外出する時などに持って出た儀杖で、中には祭祀に用いる器や道具に昇格したものもある。
この地に住んでいたのがイ族(彝族)
イ族=中国の古典文献に登場するこの民族の民族名は「夷」「烏蛮」「羅羅」「倮倮」など多様に存在し、蔑称の「夷」が通称であったのを、中華人民共和国成立以降に同じ音である「彝」の字に統一し(誤魔化し)た。彝は「祭器」転じて「道徳」などを意味する雅字。「ロロ族」という呼称もあり、かつては自称であったが現在は中国側では蔑称である。「ロロ」とは、イ族自身が先祖崇拝のために持つ小さな竹編み。当て字の「玀猓」では、部首にけものへんを付け加えるなど、多分に(漢民族からの)蔑視的な要素を含んでいる。
ただし、漢字を全廃したベトナム側では今日でも差別的な意味合いはなくロロ族(Người Lô Lô / 𠊛盧盧)と呼ばれている。
歴史
イ族は中国西部の古羌の子孫である。古羌は、チベット族、納西族、羌族の先祖でもあるといわれる。イ族は南東チベットから四川を通り雲南省に移住してきており、現在では雲南に最も多く居住している。南詔王国を建国した烏蛮族が先祖だと言われている。
精霊信仰を行い、ビモという司祭が先導する。道教や仏教の影響も多く受けている。雲南省にはイスラム教を信仰するイ族の集団もある。ただしそれらは、イスラム教を信仰するイ族なのか、イ語を話しイ族の文化に属する回族(ムスリム)なのかは、明確には分別できない。
雲南北西部と四川に住むイ族の多くは複雑な奴隷制度をもっており[1]、人は黒イ(貴族は四川省西部から雲南省の山岳地帯に南進した騎馬牧畜民族)と白イ(白番の祖先はタイ系の稲作耕作民であったと推定され、早くから雲南省のいくつかの盆地に定住した)に分けられていた。白イと他民族(奴隷略奪の抗争や戦争を積極的に行った結果、タイ系の民族やミャオ族や漢族なども含まれることになった)は奴隷として扱われたが、白イは自分の土地を耕すことを許され、自分の奴隷を所有し、時には自由を買い取ることもあった。
また大涼山に棲むイ族にはピモの伝える歌に死後の魂が祖先のいた地へ戻る為の経路を表しているものがあり、それを遡ると長江上流へと行き着くため三星堆遺跡(長江文明とは異質な為四川文明とも言われる)を築いた集団の末裔とする説も存在している。
三星堆遺跡・・・・アワワ・・・ちょっと待て!(;´Д`A
イ族でなく漢族関連なんじゃないかな・・・・!
人物家屋銅飾
◆南越国は滇国と同じ西漢辺境政権に属している
紹介によると、滇国は漢代西南地区の実力の強い属国で、戦国末から西漢まで初期に全盛に達した。
漢の武帝が西南夷を開発する過程で、滇国は徐々に華夏に溶け込み、紀元前109年に降漢(降伏)した。西漢末期、滇国は衰退の一途をたどり、東漢に至っては史書には見られなかった。
南越国(ベトナム語:Nam Việt / 南越)は、紀元前203年から紀元前111年にかけて5代93年にわたって中国南部からベトナム北部にかけての地方(嶺南地方)に自立した秦の元官僚の漢人の趙佗を国王とする王国(帝国)である。➡こっちの歴史も面白そうだな。(^_^;)
ワシの空想だけど:古代ベトナムの「南越」は秦に侵略され「南越国」が出来た。なので奏国の王は「秦の元官僚王」をやっていた。奏は滅び➡「南越国」は生き残っていたが漢に、侵略され滅ぼされたかな?
おわり
ここから先は
¥ 150
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?