「第六天」はなぜ消えたのか (言視BOOKS) 単行本
ワシのnoteの読者が知りたそうな情報を見つけた。8016文字
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出版社からのコメント
いまも謎のまま祀られる「第六天」、「魔王」さまを徹底的に探索する。
内容(「BOOK」データベースより)
東京圏の地名や神社に残る「第(大)六天」の文字。これは江戸期に絶大な信仰を集めながら、明治の廃仏毀釈のあおりで曖昧な存在になってしまった謎の神さまの痕跡。もともと「仏さま」だった存在が、「仏敵」の「魔王」に変わり、その絶大な魔力が信仰を呼んだ「第六天」の歴史を解読。いまも謎のまま祀られる「魔王」さまを徹底的に探索する。
著者について
作家、民俗学研究者。 著書に『雑学 ご先祖様の知恵袋』(宝島社文庫)『絵解き・謎解き 日本の神仏』(彩流社)『縁結びの神さまをつくる』、東京四部作(言視舎)ほか。
上位レビュー、対象国: 日本
寂羅漢
2018年3月16日に日本でレビュー済み
かつて我が国には、「神仏習合」という宗教(あえてこう云おう)が存在していた。日本土着の神を化身、つまり「権現」とし、舶来の仏を本体、つまり「本地」とするという混交宗教である。
天竺から遠く隔たる辺土において、仏は権(かり)のすがたを現し衆生を救うという。いわゆる「本地垂迹」で、神と仏との理論的融和をはかったのである。
この神仏習合は陰陽道や修験道とも混交し、実に豊饒な宗教空間を顕現させていた。中世から近世にかけて、我が国の諸宗教は実に雑多に融けあっていたのだ。
むろん、その頂点は「三国伝来」の仏教である。
その仏教によると、この世界は下は「無間地獄」から上は「非想非非想処」(およそ考え得るような場所ではなく、また考え得るような場所でないということもない)に至るまで、多数の階層(レイヤー)によって成り立つ。
人間が住むのは四大洲と言われる地上界だが、そのすぐ上には六欲天という階層が存在する(厳密には「天」ではないが)。
その六欲天の最上層にあるのが、本書の主題である「第六天」である。
この階層を支配するのは第六天魔王、またの名を他化自在天という。
つまり一種の魔神である。
この神は「他者の楽しみを自分のよろこびとする」という奇異な存在であり、それゆえ「衆生が楽しみ、欲望を満たすことを、自身の喜びとする」と信じられていた。
この特性が、中~近世に庶民からの信仰を集めたのである。
欲にまみれがちな人生を肯定してくれる、稀有な存在として。
だからこの「第六天」というのは、仏教由来の「あやしい」天魔を祀った、邪教淫祠の類ともいえる。
あやしくも庶民に人気の「第六天」は、特に関東各地に多く存在していた。
しかし、明治維新による「廃仏毀釈」運動によって、「第六天」は真っ先に切り捨てられたと思われる。
そこで苦し紛れに取られた対策が、仏教的背景の「浄化」である。
「第六」という数字を牽強付会し、天照大神からの神世六代、「オモダル、アヤカシコネ」の二神を祀る神社として、その由来を糊塗した。
(ほかにも、「高木神社」と名を変えた「第六天」も多いとされる)
この「すげ替え」によって、「第六天神社」は辛うじて命脈を保つことができたのだろう。
本書が紹介しているのは、そうした姑息な手段によりつつもしぶとく生き残った、「第六天魔王の残滓」たちである。
(現代でも「第六天」とはっきり名乗っているのは、多くが小祠の類である)
とにかくその由来や存在が隠匿された神社なので、類書も少ない。
色々不満な点もあるが、興味のある人はひとまず本書を参照すると良いだろう。
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17人のお客様がこれが役に立ったと考えています
役に立った!😂
⭕️第六天魔王が誰だかモロ分かりジャン!!🤣
>邪教淫祠と単語の並びが逆だけど、
【淫祠邪教】(いんしじゃきょう)
国家権力ないし支配者によって、反体制的な傾向を持つとみなされた民間信仰、宗教のこと。淫祠はまた、淫祀ともいい、異端、左道と類似した言い方である。中国では、秦・漢時代において国家によって民間の祭祀が整理され、祭天の儀礼を頂点とする祭祀の典礼が整備された。これを祀典という。すでに《礼記(らいき)》曲礼では、祭るべきではないものを祭ることを淫祀と呼んでいるが、祀典が整備されてからは、国家の祀典に入っていないものを淫祀とみなすようになった。
淫祀・淫祠=俗信による、いかがわしい神をまつること。また、そのやしろ、ほこら。
祭天=天をまつること。中国では、大祭の一つで、天子だけが行なった。
天子=日本では天皇。
※神道は祭天の古俗(1891)〈久米邦武〉
古俗=昔の風俗。古くからのしきたり。「―を今に伝える祭礼」
祭礼=① 祭の儀式。まつり。祭典。祭事。
神社などの祭り。祭典。祭儀。
祭儀=神仏を祭る儀式。祭祀さいし。
儀礼=⚫︎中国古代の支配者階級の冠婚葬祭などの礼儀作法を記した書。周公の著といわれるが実際には戦国時代頃に作られたらしい。
⚫︎それぞれの宗教や文化において定型化された行動。
祭り=神を迎え供献侍座して神と人とのつながりを深める宗教行事。
本語のマツリは、マツル、マツラフという動詞で上位の者に奉仕する意味の語の名詞形とみられる。語源的にはマツとマチは同根で、見えないものが見える場所、接触しうる場へ来るのを歓待する意味をもつ。
典礼=① 定められたきまり。一定の儀式。定まった儀礼。礼儀。
祀典=② 祭祀されるべきものを書き記した書籍。
礼記=儒教の経書の一つ。前漢(紀元前206年 - 8年)の諸制度の整備期には、礼に関して多くの記録が現れた。
曲礼=細かい礼儀作法。
邪教
邪教は、邪な教えのこと。淫祠邪教や邪宗ともいわれる。特定の宗教団体が他宗教を非難するときや、国家権力や統治者等が特定の宗教団体を反社会的集団であると見なし、弾圧目的で使用する用語である。[大辞林(三省堂)]
左道:コトバンク
「さどう」とも。古代中国で、右を尊び左を正しくないこととしたところから。① 正しくない道。不正な道。邪道。また、不都合なこと。真面目でないこと。
1 正しくない道。邪道。「左道の論」
2 不都合であること。不謹慎であること。
左道:ウィキペディア
左道と右道とは西洋の秘教(英語版)・魔術を二つに分類するのに用いられる概念。西洋の秘教・魔術には様々なグループが含まれるが、ある種の用語法では左道が邪悪な黒魔術と、右道が恩恵的な白魔術と同等視される。 一方、こうした用語法を批判して、左右の区別は働き方の違いに言及したに過ぎず、必ずしも魔術の善悪を含意しないと考えるオカルティストもいる。
より近年ではこの左道および右道という概念はその起源であるインドのタントラにおける用語法に基づいて用いられるようになった。つまり、右道は特定の倫理規定に従い社会的慣習を受け入れた魔術集団を指し、対して左道は反対の態度、つまりタブーを破って所定の道徳を廃しようとする集団を指すのである。本質的にはこの二つの道は同じ目的を持つので個々の魔術師はどちらを選ぶこともできるのだと主張する現代オカルティストもいる。
左道
歴史家デイヴ・エヴァンズが21世紀初頭において左道の信奉者を自称する人々を観察して彼らの実践を以下のようにまとめている。
左道ではしばしば社会的慣習や現状が否認される。この否認は精神的自由の探求のためになされると主張する人もいる。左道の信奉者はこの否認の一環として性魔術やサタンの図像の崇拝といった伝統的にタブーとみなされていたであろう魔術技法を取り入れる。モッグ・モーガンが述べるように、「タブーを破ることにより魔術がより大きな力を得て、回復と解放がもたらされる。タブー破棄の例として、ヴェジタリアンのコミュニティにおいて肉食することは性的に抑制された非ゲイ社会でアナルセックスをするのと同等の解放をもたらす。」
左道ではしばしば宗教的・倫理的ドグマに疑問が投げかけられ、代わりにある種の個人的アナーキズムが奉じられる。
左道ではしばしば性行為が称揚され、魔術儀式に取り入れられる。
ドグマ=宗教・宗派における教義のこと。
左道密教
インド密教の一派。人間の煩悩愛欲は尊重されるべきであるという思想を背景として、ヒンドゥー教の性的結合を絶対視するタントラ教の影響を受けて成立した (8世紀) 。その創始者はインドラブーティといわれているが、9世紀以後特に盛んになった。 12世紀末にイスラム教徒によって本拠地ビクラマシーラ寺院などが破壊され解体した。
ヴィクラマシーラ僧院の跡地・・・?
完成 8世紀から9世紀の間
1193年にムハンマド・バフティヤール・ハルジーによって破壊。
最も高名なのはアティーシャ(Atiśa Dīpaṃkara Śrījñāna)で、1042年にチベット西部のグゲ王朝に招かれて出国し、チベット仏教のカギュ派、サキャ派、ゲルク派、チョナン派など新訳派(英語版)の先駆となるカダムの法流(後に弟子ドムトン(英語版)がカダム派(英語版)を創始)を打ち建てた。哲学・文法・形而上学・インド仏教などのような主題がそこで教えられたが、この系統は、ツォンカパ大師のゲルク派に影響を与える密教の重要な一派でもあった。
ヴィクラマシーラは主にチベット史料を通して知られている。特に、チベット僧のターラナータ(英語版)(1575-1634年)が書いた、16-17世紀のチベット寺院の歴史によって知られている。
右道
一般に、右道はある一連の特性を固持する魔術的・宗教的集団を指すとされている。
ダイアン・フォーチュン[3]やウィリアム・ゴードン・グレイ(英語版)[4]といったオカルティストは非魔術的なアブラハムの宗教をも右道に含まれるとみなしている。
右道
一般に、右道はある一連の特性を固持する魔術的・宗教的集団を指すとされている:
ダイアン・フォーチュン[3]やウィリアム・ゴードン・グレイ(英語版)[4]といったオカルティストは非魔術的なアブラハムの宗教をも右道に含まれるとみなしている。
シャクティ派
ヒンドゥー教シバ派の一派。性力(せいりき)派と訳されることもある。この派の聖典はタントラとよばれ、7世紀ころから多数編纂(へんさん)された。狭義のタントリズムというのはこの派の教義をさすが、その内容は一定ではない。ただし、シバ神の妃であるドゥルガーないしカーリーを宇宙開展の根本的活動力(シャクティ)とみなして崇拝し、その女神とシバ神の合一を自らの身体において実現し、神通力(じんずうりき)ないし解脱(げだつ)を得ようとする点に共通性がある。大まかに分けて、この派には左道派と右道派がある。
左道派は、女神に動植物の犠牲を捧(ささ)げ、輪坐(りんざ)儀礼、呪術(じゅじゅつ)を行う。輪坐儀礼においては、酒、肉、魚、焦がした穀物、性交の五つが享受される。この五つはすべてMを頭文字とするサンスクリット語で表されるため、五M字(五摩(ごま)字)とよばれる。左道派はとくに10世紀ころに栄え、タントラ仏教に影響を与えた。一方、13世紀ころから盛んになった右道派は、特別の儀礼を行わず、身体を宇宙と相同であるとみなし、ヨーガの力でその身体を生理的に操作することによって目的を達成しようとした。[宮元啓一]
今となっては敵側のシンボルと分かった写真もあるけど参考に。
仏さまから神様へ変身、謎の神様「第六天」
2019年12月13日2020年3月11日
私は整体師をやっていまして、お客様のご自宅でも施術をする事が有ります。
いつも来店しいただいているお客様が、ギックリ腰になったので来てほしいという依頼が有りました。
常連のお客様ですから、行かないという選択肢はもちろんありませんからそそくさと訪問しました。
大きなお宅でしたが、門の所に「第六天神」のお札が掲げられていました。
寺社巡りを趣味にしている私ですが、「第六天神」は聞いた事が有りませんでした。
今回は「第六天」に関して調べてみました。
第六天とは
「第六天」は、東京・神奈川・埼玉・千葉で祀られていますが、関西など他の地方では全く祀られていない、南関東限定のローカルな神様です。
今回参考にさせていただいてる川副秀樹さんの著書によると、東京だけでも寺社、境内社、小さな石祠(せきし)や遺跡は70か所もあるそうです。
一つの謎ですが、「第六天」は仏様なのですがそのほとんどが神社に祀られています。
答えは簡単で、江戸時代までは神仏がくっついていました、これを神仏習合と言います。
ところが明治時代になり神仏分離令が出され、神社で仏様を祀れなくなり「第六天」は名前を変えてしまったのです。
「第六天」は、仏界欲天の中の第六天に住む「他化自在天(たけじざいてん)」をさします。
他化自在天は魔王とも呼ばれるのですが、「人々の喜びを自分の喜び・糧にする仏さま」(「第六天」はなぜ消えたのか 川副秀樹著)なのです。
「人の喜びを糧」にするので、人々は喜びを与えてくれる仏さまとして江戸時代には江戸を中心に信仰が広まりました。
仏敵としての第六天
人々が快楽におぼれれば溺れるほど、うれし楽しで生活するほど第六天にとっては良い状況となり自分自身が肥えていきます。
逆に人々が、仏心(死の崇拝)に目覚め快楽を求めなくなると第六天は萎んでいってしまいます。
そこで多くの悪魔・悪鬼(デーモン)を従える第六天は、仏教の広まるのを邪魔をしていきます。
このようにして、第六天は仏敵であり魔王なのです。
ところが江戸の庶民の中には、多少不埒で人に言えないような願いでも喜びにつながることならかなえてくれる便利な仏さまとして、第六天を信仰するようになっていったのです。
この庶民の後ろめたいあたりまえの願い事をかなえてくれる仏さまは、江戸時代に爆発的に流行したのです。
子供を食らう鬼である鬼子母神が信仰されるくらいですから、仏の世界はとても自由な信仰の場でもあります。
「第六天魔王」と言えば織田信長を思い出す方も多くいると思います。
比叡山を焼き討ちにした後信長が自ら「第六天魔王」と名乗ったとか、武田信玄が非難の言葉として「第六天魔王」と信長のことを呼んだとかあります。
しかしこれらの話を裏付ける当時の資料はなく、後世にそういう話が作られたと考えられています。
第六天、仏さまから神様へ変身
江戸の庶民から絶大な信仰を勝ち取っていた第六天ですが、時代が明治になり大きな逆境がやってきます。
それが、神仏分離令です。
奈良時代くらいからゆっくりと融合してきた、仏教と神道を無理やり政府は分離したのです。
明治政府の方針は、天照大御神を頂点とした国家神道を作り上げ国民に広く浸透させようとしたのです。
そんな時代に、邪神・邪教とも言える第六天がこのままで生き残れるわけが有りません。
日本の神道には、天照大御神が現れる前に七代の神様が現れていて、これを神世七代(かみのよななよ)もしくは神代七代・天神七代と言います。
この第7代が天照大御神の両親にあたる伊邪那岐・伊邪那美ですが、その前第6代の神様を第六天に当てたのです。
この第6代の神様は、面足尊 (おもだるのみこと) ・惶根尊 (かしこねのみこと)と言います。
現在多くの第六天社は、面足尊・惶根尊を主祭神とし社名も変えてしまっているところが多くあります。
神世七代、第六天=面足尊・惶根尊!
第六天を第六代に変えてしまうというフザケタ荒業で、明治政府は危機を乗り切ったのです。
ただ第六天と言う教団があって一糸乱れずに変更したのではなく、個々の神社で個別対応したので大黒様になったり他の神様へ変わったところも多くあります。_| ̄|○
ダイロクテンとダイコクテンは、一時違いです。それで大黒様にしてしまったというのですから少し呆れます。
さらに発展して大黒=大国(だいこく)として、大国主命に変身した例もあるようです。_| ̄|○iii
第六天さらなる逆境
第六天の逆境は、さらに続きます。
それは、明治39年に出された勅令による神社合祀運動です。
この時代には多くの小さな神社や祠が数多く存在していました、これでは国家が神社を管理するには都合がよくありません。
そこで明治政府は、由緒ある村社・郷社にそれらの小さな神社を合祀する政策をとったのです。
この政策で、各地方の独特な信仰を消えていき、国家色の強い信仰へと進んでいったのです。
第六天は稲荷神社と合祀されたりし、その姿はほとんど見えなくなってしまいました。
現在残っている第六天を起源にしている神社は、魔王を祀っていたなどおくびにも出さず以前から今の御祭神を祀っていたようになっています。
都内に残る第六天
第六天の名を残している都内の神社をピックアップしてみました。
●本木第六天胡録神社
足立区本木南町4-2 現祭神―淤母陀琉命
●代六天根ケ原神社
大田区山王3-15-23 現祭神―面足尊・惶根尊
●大六天根岸神社
大田区大森4-24-4 現祭神―面足尊・惶根尊
●奧戸第六天神社
葛飾区奧戸1-78-8 現祭神―不明
●中落合第六天社
新宿区中落合1-14-37 現祭神―不明
●下落合大六天社
新宿区下落合4-14-15 現祭神―面足尊・猿田彦命
●高井戸第六天神社
杉並区高井戸西1-7-2 現祭神―面足尊・惶根尊
●東中野第六天神社
中野区東中野1-15-9 現祭神―榊皇大神(面足尊・惶根尊)
●中目黒第六天社
目黒区上目黒2-1-1 現祭神―面足尊・惶根尊
※「第六天」はなぜ消えたのか 川副秀樹著より抜粋
残念ながら上記の神社は一つも参拝した事が有りません。(来年の目標かな?)
大六天・第六天など表記は、神社によって違います。
第六天の名前が残っていなくて、大六天をかつて祀っていた神社は関東だけでも6~70社ほどあります。
ただ静岡長野以西には、ほとんどないようです。
まとめ
第六天を名乗っている神社には、参拝したことがないのですが、かつて第六天を奉じていた神社に行ったことはあります。
それが「牛天神 北野神社」の末社で、「高木神社」と言います。
もともとこの高木神社は、文京区小石川付近にあった小日向第六天社が遷座し名前を変えたものです。
現在の御祭神は、宇賀御魂命(うかみたまのみこと 稲荷神)に変わっています。
現在の小石川の付近の一部は、江戸時代から昭和41年までは小日向第六天前町(のちに第六天町)と呼ばれていました。
境内にある案内板には「高木神社は、旧第六天町(現・小日向1丁目)にあった五穀豊穣のかみである第六天社を、道路拡張に伴い、ここに移したものである。」と書いてあります。
第六天がお稲荷様に変身してしまったわけですが、祈る側は神様の名前でなく自分の願いをかなえてくれればそれでよいのかもしれません。
これが日本の神様の大きな特徴なのかもしれませんね!!
ひどい話!( ;´Д`)
コレもどうぞ。
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