古代王朝「殷」(天皇のルーツを探る)
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殷王朝の恐ろしい漢字の成り立ちの歴史
殷王朝の時代にも奴隷は当たりのようにいて、中国の高校生用の歴史教科書によると彼らはモノのように簡単に“破壊”された。
>商朝の奴隷制度は非常に残酷で、その一つの表現は「人祭」と「人殉」を実行したことだ。人祭とは奴隷主貴族が神霊と祖先を祀る時に、奴隷を殺して供え物にしたことである。人殉とは奴隷主を死後葬る時に、奴隷を殺し、あるいは活き埋めにして殉葬品としたことだ。
*「活き埋め」は「生き埋め」だと思うけど、中国ではこう書くのかもしれない。
貴族か王かわからんが、たとえば安陽にある大きな墓には400人ほどの奴隷が殉葬されていて、殷の時代には一回の宗廟の祭祀で約500人の奴隷を殺したと教科書にある。
「民」という漢字はそんな社会の中で生まれたのだ。
>「民」とは君主やその家臣に仕える奴隷を意味しています。逃げてしまわないように足をクサリでしばり、目までつぶしてしまったのです。
つまり「民」という漢字は、針のような物で目をつぶされた奴隷が起源だった。
中国文明:殷王朝① 殷王朝の先史/誕生/時代区分
時代区分
殷代は前1600年から前1046年とされている(殷 - Wikipedia)。
下記の区分は考古学の遺物から推測されるおおよその目安。
前期(前1600(または1580)-1400年)
中期(前1400-1300(または1320)年)
後期(前1300(または1320)-1046年)
甲骨文字とはなにか?
中国では、新石器時代から亀の甲羅や家畜の肩甲骨を用いた占い、すなわち甲骨占卜が行われていた。占いの方法は、甲骨に熱を加え、生じたひび割れの形によって将来の吉凶を判断するものである。さらに、殷代後期には占いに使用した甲骨に占卜の内容を刻むという習慣が流行した。これが「甲骨文字」であり、「卜辞」とも呼ばれる。甲骨は木や竹に比べて硬い材料であるため、地中でも腐食しにくく、三千年の時を経て近代に発見された。[中略]
甲骨文字に記された占卜は、その多くが王の主宰によるものであり、王自身が吉凶判断をしたものも多く見られる。また占卜の内容には、王自身の安否や夫人の出産のような王の身辺だけではなく、祭祀や狩猟の挙行、あるいは収穫や降雨の有無、さらには戦争の可否まで含まれており、重要な政策であっても占卜でその実行を決定していたのである。
(甲骨文字・占卜・祭祀について)
神権政治
殷の政治を「神権政治」ということがあるが、この件でその一端を見ることができる。
ということで、甲骨に文字を残したのは占卜の内容を記録するためというよりも、政治のためであったということになる。
王朝の王統 体制/軍事
殷王朝は実の父子相続を基本とする本来の意味での「王朝」ではなかった。つまり世襲する場合もあるがしない場合もあった。
しかしその相続のしくみについては通説が無い(松丸道雄氏は殷王朝は王位継承権を持つ十支族より選ばれたと説明しているが*1、落合淳思氏はこの説を否定している*2 )。
軍事
上記の地図にあるように、殷王朝の支配領域の外に独立した文化が存在している。周(先周文化)は王朝に服属していたようだが、王朝の外には服属していない集団も幾つか存在していた。甲骨文には、𢀛方(縦にエロ)や土方など、「○方」という敵対勢力が現れる。
これらは殷王朝の青銅器文化などを吸収して勢力を増大したのかもしれない。
殷王朝が敵対勢力と戦う場合、地方領主を動員して戦う。敵対勢力が支配領域のある場所を攻撃してきた場合、王朝の軍隊とその地域を直接支配している地方領主の軍隊で応戦する。
祭祀・宗教については次回の記事で書く。
中国文明:殷王朝⑥ 後期 その3 神権政治
犠牲(生贄)
殷代では、祭祀の時に家畜を犠牲として神への供物とした。これは新石器時代などでも、また世界各地でも認められる。
王が主催する祭祀は臣下も参加し、犠牲として殺された家畜は祭祀の後に彼らに振る舞われたようだ。殷代でも家畜は貴重なものであり、これらを(祭祀に使用した)酒と共に臣下に振る舞うことで、「①王の宗教的権威を構築」「②臣下に王の経済力を示す」「③供物の分配を媒介として君臣関係を確認する(強める)」という意義があった(落合氏/p98)。
興味深いこととして、殷代では犠牲の処し方(殺し方)も儀礼の一部になっている。
例えば「燎」という漢字は「組んだ薪に火をつけた」様子を表しているが、これは犠牲を焼き殺す儀礼である。ほかにも儀礼として幾つかの「処し方」がある。
「改」→「蛇を叩き殺す」様子→犠牲を叩き殺す。
「卯」→「肉を引き裂く」様子
「伐」→「武器の戈で首を切る」
「発」→「弓を射る」
犠牲の処し方に幾つもの種類がある理由はよく分からないが、これらの「儀礼」は後代の中国史では死刑のやり方に出てくる(『史記』に登場する)。
「人牲」(奴隷の犠牲)/殷代は「奴隷制社会」ではなかった
家畜だけではなく、人も犠牲として大量に「使用」されていた。犠牲となる人々は主に戦争捕虜だったが、犠牲の目的で「人狩り」をすることもあったようだ。犠牲にされた人々で最も多いのが「羌」の人々だ。殷からみて北西の人々。
さて、祭祀から話が逸れるが、ここで殷代における奴隷について。
奴隷の中では、祭祀の犠牲にされなかった人々もいた。彼らは王や貴族の家内奴隷になって、主人が死んだ時は強制的に殉死させられて主人の墓に埋葬されるか人牲になった。奴隷の一部は逃亡防止のために足首を切断されていたり(刖)、目を潰されていた(民)。(p104-106)
さて、殷代と西周代は「奴隷制社会」であったという学説があった。
マルクスらの唯物史観の発展段階説の一つの段階に「奴隷制社会」というものがあり、郭沫若らがこの段階を殷王朝に当てはめた。
その論拠となる代表的なものが「衆」だ。甲骨文字の中に「衆」が農作業に動員されていることに着目し「衆」を奴隷とみなした(p100)。しかし、当時の甲骨文字で奴隷は「宰」の字で表されており、農業に従事していた記録もない。その他の論拠もすべて論駁されてしまった。
呪術と祭祀
殷の統治と支配は祭祀によって行われていました。
原始的生活を送っていた時代、人々を結び付けていたのは宗教でした。
宗教儀式=祭祀を掌握することがその地の支配権を獲得することでした。
殷は新たに帰属した国や部族に王室直属の祭祀官を送り込み、次々に勢力を広げていきました。支配地域を拡大していく過程で、その土地の神々を自国の祭祀に吸収し、祭られる神も増えていくことになります。
殷の戦争は呪力と呪力の戦いでした。
戦いには「媚」と呼ばれる巫女を伴いました。巫女たちは軍鼓を打ち鳴らし敵に向かって呪詛を唱え攻撃しました。
甲骨文字には鬼方と呼ばれる強大な異民族を攻撃したときの様子が記されており、動員兵力数万人のうち投入された「媚」は3千人に達したと書かれています。
敵の「媚」を捕らえることは最大級の功績で「蔑暦」と呼ばれたと記されています。敵の「媚」は呪力を封じるために真っ先に殺されました。
また異民族の地を進軍するときは道を整備し、土地かけられた呪詛や悪霊を祓うために異民族の生首をかかげました。祓除を終えたところを「道」と呼び表しました。
甲骨文字は祭祀の過程において発生したもので天意を記すために作られたものです。ごく一部の限られた階層の者だけが読める神聖文字で一般の生活とは無関係でした。
「媚」に含まれる眉の文字は顔料で眼の回りをくまどりし呪術的な化粧を施した象形であり、後世に転じて「媚びる」となりました。
「蔑暦」の「蔑」は「媚」を戈(ほこ)にかけて殺す形で「蔑む」などの語源となりました。リンク(凄いことが書いてある)
「道」に首の文字が含まれているのは祓うために首をかかげたことによります。
殷では女性は巫女として政治に参加し、戦争の最前線で活躍するなどその地位は非常に高く、飲酒は神事でありました。
生きたまま生け贄にされた
さらに調査チームは、出土した兵士や馬の遺骨について、生きたまま生け贄にされたものと考えています。
というのも、紀元前1600年〜紀元前1046年まで続いた殷王朝では、身分の高い主人の葬儀の際に使用人が切腹したり、生き埋めになることを自ら志願する風習が一般的にありました。
ペンシルベニア州立大学(PSU・米)の先行研究によると、殷王朝では、大規模で組織的な人身御供が政治的・宗教的に重要な見世物として機能していたという。
殷の遺跡から出土した甲骨文には、特に人間の生け贄に関する文字を含むものがとても多いです。
また、これらの遺跡から多数の生け贄のための墓が発見されていることも、この記録を裏付けています。
以下は、同大が発表している「人身御供」について記載された殷時代の甲骨文です。
権力者や主人の死に際して、使用人および配下の兵士たちは「志願」して共に死んだとありますが、実際にどんな心情だったかは分かりません。
参考:このリンクは良かった。