殷(商)王朝➡周王朝の儒教の神様の王たち
4063文字:投げ銭せい
周公旦のwikiのリンクから飛ぶと全王が分かりやすい。殷(商)王朝➡周王朝の変りぎわの各王たちを頭に入れておかないと『天皇と儒教や宇宙人』の研究がしずらいのだ。😅
殷(商)王朝の最後の『紂王』(紀元前1046年没)
生贄をしなくなったので革命を起こされ周に倒される。後、創作童話酒池肉林を作られ現在までディスられる。既に善悪アベコベ。
生贄儀式殺人再開
王朝 周
文王
文王(紀元前12世紀 - 紀元前11世紀ごろ)は、中国殷代末期の周国の君主。
周王朝を創始した武王や周公旦の父。
文王(紀元前12世紀 - 紀元前11世紀ごろ)は、中国殷代末期の周国の君主。
殷に恨みをもつ近隣の諸侯たちを徳によって手懐け、次第に殷に対抗できるだけの力を持つに至った。しかし、老齢の昌(文王)は殷との対決を目前にして亡くなってしまう。
昌(文王)の後を継いで次男の姫発(武王)が周の太子として諸侯をまとめ、殷に決戦を挑むことになった。
『牧野の戦い』
古代中国の紀元前11世紀に殷の紂王と周の武王を中心とした勢力が牧野で争った戦い。周軍が勝利し約600年続いた殷王朝は倒れ、周王朝が天下を治めることになった。
武王
武王は、周朝の創始者の文王の次男。殷を滅ぼし、周を立てた『殷周革命』。
⭕️周の文王が天帝より天命を受け周王朝の基礎を作り、ここで寿命がつき、子の武王が『牧野の戦い』で殷に打ち勝ち、周王朝を立てて天に報告した・・。
文王と武王、親子2代で周王朝を建てた・・。
周王朝創立後
殷を滅ぼし天子となった武王は、紂王によって誅殺された比干(紂王の叔父)の墓を改葬し、幽閉されていた箕子(紂王の叔父)を解放し、朝鮮に封じた『箕子朝鮮』。そして微子啓(紂王の異母兄)に殷の祭祀を続けさせ、宋に封じた。(⭕️よく見ろ、すでにこの時代に朝鮮半島は侵略されている)
更に古代の聖王達の子孫を探し出し、
それぞれ封じた。その後、功臣たちの論功行賞を行い、次のように封じた。
武王はこの他にも、南方の呉に逃れた大伯父の太伯・虞仲の子孫を探し出し、改めて呉に封じ、その弟を北方の虞に封じた。
その後、武王は病にかかった。後継者である子の成王はまだ年少であったため、周の行く末を功臣の呂尚と同母弟の周公旦に托し、病した。
武王は夏の禹・殷の湯王・父の文王と並び聖王として後世に崇められている。また、道教においては武王を霊宝天尊の化身とする場合もある。
周公旦(周の摂政)
周公旦は、中国周王朝の政治家でかつ、周の邑の君主。魯の初代の公である伯禽の父。呂尚(太公望)や召公奭と並ぶ、周建国の功臣の一人である。
周が成立すると曲阜に封じられて魯公となるが、天下が安定していないので魯に向かうことはなく、嫡子の伯禽に赴かせてその支配を委ね、自らは中央で政治にあたっていた。
建国間もない時期に武王は病に倒れ、余命いくばくもないという状態に陥った。これを嘆いた旦は自らを生贄とすることで武王の病を治してほしいと願った。武王の病は一時回復したが、再び悪化して武王は崩御した。
武王の死により、武王の年少の子の成王が位に就いた。成王は未だ幼少であったため、旦は摂政となり、三公の太傅となって建国直後の周を安定させた。
その中で『三監の乱』が起きた。殷の帝辛の子の武庚(禄父)は旦の三兄の管叔鮮と五弟の蔡叔度、さらに八弟の霍叔処ら三監に監視されていた。だが、霍叔処を除く二人は旦が成王の摂政に就いたのは簒奪の目論見があるのではと思い、武庚を担ぎ上げて乱を起こしたのである。反乱を鎮圧した旦は武庚と同母兄の管叔鮮を誅殺し、同母弟の蔡叔度は流罪、霍叔処は庶人に落とし、蔡叔度の子の蔡仲に蔡の家督を継がせた。
さらに、引き続き唐が反乱を起こしたので、再び旦自らが軍勢を率いて、これを滅ぼした。
その後、7年が経ち成王も成人したので旦は成王に政権を返して臣下の地位に戻った。その後、洛邑(洛陽、成周と呼ばれる)を営築し、ここが周の副都となった。
また旦は、礼学の基礎を形作った人物とされ、周代の儀式・儀礼について書かれた『周礼』、『儀礼』を著したとされる。旦の時代から遅れること約500年の春秋時代に儒学を開いた孔子は魯の出身であり、文武両道の旦を理想の聖人と崇め、常に旦のことを夢に見続けるほどに敬慕し、ある時に夢に旦のことを見なかった(「吾不復夢見周公」)ので「年を取った」と嘆いたという。
「周公」の称号については旦は周の故地である岐山に封じられて周の公(君主)となったのでこう呼ばれるのではないかとの説もある。また、武王が崩御した後に旦は本当は即位して王になっており、その後成王に王位を返したのではないかとの説もある。
『尚書大伝』は、「一年で乱を収め、二年で殷を滅ぼし、三年奄を践み、四年で封建し、五年で成周を営み、六年で礼を制し、七年で政権を返還した」と旦を評する。
前漢末の思想家賈誼は旦を「文王、武王のあらゆる功績を一身にまとい、黄帝より後、孔子より前の人物では右に出るものが無い」と評した。
三監の乱
三監の乱(紀元前1042年から紀元前1039年にかけて発生した反乱)は、周公旦に不満を抱く管叔鮮・蔡叔度・霍叔処等の兄弟や、殷の遺民などが起こした。
殷王朝の滅亡後、周の武王は自身の弟である管叔鮮・蔡叔度・霍叔処を殷の故地に封じ、殷の遺民を監視させた。これを三監と呼ぶ。武王は若くして崩御し、幼い子の成王が即位して、武王の弟である周公旦が摂政となった。ところが、三監は周公旦が成王から王位の簒奪を目論んでいると考え、反発した。三監は、独立志向的な多くの東方諸侯や殷の遺民とともに、滅亡した殷王朝の王子で、東方に封じられていた武庚を盟主に仰ぎ、これに東夷や淮夷等の異民族も加わり、周公旦に対する反乱を起こした。周公旦は反乱を鎮圧するために「東征」と呼ばれる遠征を行い、3年で反周王朝勢力を破り、首謀者らを誅殺し、あるいは失脚させた。この結果、周王朝は中原を支配下に組み入れ、封建制を確立した。
アメリカの中国史研究者であるエドワード・ルイス・ショーネシーはこの反乱を、「西周王朝の存続に対する危機であるのみならず、中国という国家のその後の歴史をも左右するほどの事態だった」と評価している。
「言葉上はワシもそう思うのでこの学者は気になる。日本の歴史も左右する出来事・・」覚えておくようにココにメモ。漢文読めるのね・・・
成王
成王は、周朝の第2代の王。武王の子。
概要
易姓革命後、わずか2年で崩御してしまった父の武王の後を継いで即位する。
当時はまだ周の政治体制は安定しておらず、殷の帝辛(紂王)の子の武庚(禄父)や成王の叔父(武王の弟。管叔鮮と蔡叔度)たちの謀反『三監の乱』などが相次ぎ、国情は極めて不安定であった。
易姓革命
易姓革命とは、古代中国において起こった孟子らの儒教に基づく、五行思想などから王朝の交代を正当化する理論。
概要
周の武王が殷の紂王を滅ぼした頃から唱えられ、天は己に成り代わって王朝に地上を治めさせるが、徳を失った現在の王朝に天が見切りをつけたとき、「革命(天命を革める)」が起きるとされた。それを悟って、君主(天子、即ち天の子)が自ら位を譲るのを「禅譲」、武力によって追放されることを「放伐」といった。
後漢から禅譲を受けた魏の曹丕は「堯舜の行ったことがわかった(堯舜の禅譲もまたこの様なものであったのであろう)」と言っている。後漢(劉氏)から魏(曹氏)のように、前王朝(とその王族)が徳を失い、新たな徳を備えた一族が新王朝を立てた(姓が易わる)というのが基本的な考え方であり、血統の断絶ではなく、徳の断絶が易姓革命の根拠としている。儒家孟子は易姓革命において禅譲と武力による王位簒奪の放伐も認めた。
ほとんどの新王朝では、史書編纂などで歴代王朝の正統な後継であることを強調する一方で、その正当性を強調するために前王朝と末代皇帝の不徳と悪逆が強調される。典型的な例として、桀・紂の逸話が伝わる。また煬帝のように悪い諡号を贈られたり、諡号や廟号自体を贈られない場合もある。一方で、明への反逆者である李自成を討って天下を継承した清のようなケースでは、明の末代皇帝崇禎帝は顕彰され、諡号や廟号も贈られている。
このように、易姓革命論は王朝交代を正当化する理論である。
【まとめる】
この表を作るためのnoteだった。
もう少し確認
おわり
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