天皇とハンセン病と部落差別と安倍教とユダヤ人
今回は資料が多いので文字数は良く判らん。
資料を斜め読みすれば意味はわかる。
第一部:日本国内のハンセン病について
ハンセン病を表す日本語
癩(らい)
ハンセン病をいった語。→らい病。
白癩(びゃくらい)
① 皮膚が白くなるハンセン病をいった語。しらはだ。白癩病。白山瘡。
黒癩(こくらい)
ハンセン病の一型の古称。皮膚が斑紋状に赤褐色ないし灰褐色を呈する。
※中臣祓訓解(12C後)「古久美 瘜肉也。又云癭瘇之類也。又云黒癩也」 〔病名彙解(1686)〕
ワシ翻訳:「古久美の肉の腫れ物なり。また言う癭瘇の類なり。また言う黒癩なり」
天つ罪・国つ罪の国津罪
天つ罪・国つ罪は、古代日本における天皇の祖先がどんな人物なのか知るのに重要である。
⚫︎胡久美(こくみ) - 直接には「瘤」のこと。この場合は瘤ができること。別の説では「くる病」のことだともいう。
⚫︎白人(しらひと) - 肌の色が白くなる病気、白斑(俗に「しらはたけ」ともいう)のこと。別の説では「白癩(びゃくらい」(ハンセン病の一種)だともいう。
能楽の原典とされる翁舞
「白式尉」「黒式尉」の由来については、やはり、奈良坂の奈良豆比古社の所伝が気になる。
「白癩」に罹患した「春日王」
そして「夙冠者黒人」(しゅくのかじゃくろひと)と呼ばれた、子の「淨人王」「安貴王」兄弟のことだ。
さらに言えば、「癩」(らい病)には「白癩」(白らい病)と「黒癩」(黒らい病)があったこと。もとより、三人の翁が舞う、奈良豆比古社の「翁舞」は、その物語を踏まえている。深淵過ぎる起源だが、どうしても覗いてみたくなるわけだ。
奈良豆比古神社の所伝とは?
奈良豆比古神社の概要
社伝によれば、光仁天皇の父である施基皇子(志貴皇子)が病気の療養のため「奈良山春日離宮」として当地に居住し、薨去(死去)後の宝亀二年(771年)に施基皇子を祀ったのが当社である。
⭕️施基皇子は天智天皇の御子で、持統天皇や元明天皇、弘文天皇(大友皇子)らの弟にあたる人物です。
壬申の乱の後、天智系の皇統に代わって天武系の皇統が主流になり、天智天皇の御子である施基皇子は争いを避けるため皇位には一切関わらず、和歌など文化人としての人生に専念した。
しかし薨去から50年以上を経て施基皇子の御子である白壁王が即位して光仁天皇となったため、施基皇子は春日宮御宇天皇の追号を受けました。以降この皇統は途絶えることなく続き、現在の皇室は施基皇子の子孫(天智系)となった。
ーー中略ーー
御祭神の一柱に祀られる春日王とは施基皇子の御子の一人であり実在の人物です。しかし当地では半ば伝説的な人物として語られており、重いハンセン病に罹っていたため平城山の奥に隠棲し、後に御子を産んで浄人王と名付けたと伝えられています。
この地は一般社会から疎外され排斥された人々の集まる地であり、そのような人々の中にはハンセン病のような重い病を持った人々もいたことでしょう。事実、当地の近くにハンセン病などの患者を救済する福祉施設である「北山十八間戸」が鎌倉時代に作られています。
このような被差別的な人々がこの境界の地に集まり集落を形成し、人々の結託の象徴として、また苦しい立場にあった彼らの精神的な拠所として、実在の人物に仮託して創出したのが上述の春日王の伝説だったのでしょう。
一方でこのような境界の地に祀られる神悪霊は往々にして災厄天罰をもたらす悪霊や疫病神などの侵入を遮る役目があるもので、当社の神も本来はそのような神格で祀られたのかもしれません。
また当社には「翁舞」と呼ばれる古い舞が伝承されており、国指定重要無形民俗文化財となっています。
社伝では春日王の病気の平癒を祈願して御子の浄人王が舞を奉納したことに始まると伝えられています。
流石に春日王の在世した奈良時代にまで遡るものとは考えられませんが、当社に伝えられている二十五面もの能面の中には応永二十年(1413年)の刻銘のあるものもあり、少なくとも中世の古い舞を伝えていると考えられ極めて貴重です。
当地はまさに「辺境の地」ですが、こういう場所にこそ古く貴重なものがよく残っているのは誠に興味深いところです。
なんと!安倍首相ハンセン病患者家族を救う
安倍の前に小泉まで安倍の前に小泉までハンセン病患者を救ってた。
安倍が国民に謝罪??(;´Д`A
ハンセン病問題を知る 〜元患者と家族の思い〜 - 文部科学省PDF
ともに生きる会ホームページ
日本におけるハンセン病の歴史(江戸時代以前)
日本書紀では推古天皇の20年(613年)、百済から来日した人の中に白癩(びゃくらい)の人がいたので入国を止めたところ、その人は「築山を造るのが得意なので追い返さないでほしい」と言うので、御所の庭に須弥山(仏教において、世界の中心とされる山)を築かせたという話があります。
また833年に書かれた令義解という書物には、「悪疾を白癩という。この病気は体内のいる虫が五臓を食べて睫毛や眉毛が抜け、鼻が崩れ手足の指が落ちるので、床を同じにしてはならない」という記載があり、あきらかにハンセン病の症状を呈しています。
仏教の保護者として知られた藤原光明子( 701~760聖武天皇の皇后)には、こんな話が伝わっています。
光明子は、仏のお告げによって貧しい人や病人のために薬草の風呂を作り、自ら入浴者の垢を洗い流していました。世話をした患者は次第に増えていきましたが、1000人目の患者は全身が膿にただれた重い皮膚病患者でした。しかし光明子は意を決し、自ら口で膿を吸い取りました。するとその患者はまばゆいばかりの光を放ち忽然と姿を消したといいます。この患者は阿しゅく如来が姿を変えていたのです。
国立ハンセン病療養所の邑久光明園は光明子の名前から名付けられています。
こうしたハンセン病患者に対し、その救済に尽力した人もいます。
594年、聖徳太子は「四箇院の制」により四天王寺を建立しました。
四箇院とは敬田院、悲田院、施薬院、療病院のことで、施薬院は薬草の栽培と調合、療病院は病院で、ハンセン病患者もその対象とされていたようです。
1243年、鎌倉時代、律宗の僧忍性(にんしょう 1217~1303)はハンセン病患者救済のため、奈良の般若寺の北に北山十八間戸という施設をつくり、患者救済にあたりました(現在は奈良市川上町に移転)。東西約37m、内部は18室に区切られて1室の広さは2畳ほどでした。ここで療養した患者はのべ1万8千人といわれています。
室町時代から戦国時代にかけて(中略)、村内・外の壁となって外部への差別を生むようになってきました。
今回のnoteはこの記事を読んでからの方が良い。
ハンセン病とユダヤ人
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