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神道の千木のルーツ?生贄殺人祭の古代滇国の歴史

8605文字

はじめに

古代滇国の生贄殺人祭に🇯🇵日本の神社の千木がある謎!( ;´Д`)

この国はどうして、こんなことになったんだ??

この千木が謎で・・

なので、古代滇国を学ぶことは天皇・日本国の謎を解くために大切だと考え、情報が欲しく片っ端から翻訳していた。火消しやトボけもあり、重なる情報も翻訳してしまったが、その中から選び時系列で並べた。


この日本の記事を先に読むと、古代滇国の設定が理解しやすい知れない。

1.古代滇国があったのは雲貴高原

ここ
海抜1,000メートルから2,000メートル


2.荘蹻 (そうきょう)という伝説の王がいる

中国、戦国の楚の伝説的英雄。荘王の子孫という。威王(在位,前339-前329)のとき、兵を率いて長江揚子江)を遡り、巴・蜀・黔中四川省)から滇池(雲南省昆明市付近)に至る地を楚の勢力下に入れた。ところが、ほどなく秦が南下して巴・蜀・黔中を奪ったために帰路を断たれ、そのまま滇の地で王になったという。しかし威王の時代と秦の侵攻とでは50年近い時差があり、伝説の域を出ない。

➡最近、考古学の証拠が掘り起こされ、伝説ではなくなった。
1 湖南省の考古学が「荘蹻が滇に入った」という証拠を発見した中国歴史文化遺産保護ネットワーク。 2013-1-18 (引用日 2013-02-21)➡︎すぐ下で説明。

この「荘蹻」王の名は中国語では「庄蹻」です。

異体字でもないし、庄」➡「荘」と変換する理由がチトわからない。意味もチト違うし。今回のnoteは中国語に合わせた。


3.庄蹻(荘丘)が滇に入る

戦国時代の楚国の動向

庄蹻の入滇は、戦国時代に楚国が西南へ影響を広げるための行動で、この伝説は常に国民団結の記念碑とみなされ、南西部と内地の間の民族感情を高めた。

概要

戦国時代の楚(紀元前279年)では、頃襄王は将軍の庄蹻に軍を与え、黔中郡を通って西南に侵攻させ、沅水を経て西南に向かって且蘭を陥落させ、夜郎国を征服し、滇池一帯まで攻め込んだ。黔中郡はかつて楚の地であったが、秦に一度攻略された。前277年、秦は蜀郡守の張若を派遣し、再び黔中郡と巫郡を攻略させた。翌年、楚は失敗に甘んじず、また東部兵力を集めて黔中郡の一部の地域を回復し、秦国に対処するために郡を立て直した。

楚の王の頃襄王

黔中郡の反復的な争奪により、庄蹻の帰り道が悪くなり、便り「その王滇たちは、育てるために服を変え風俗に従う」(『史記・西南列伝』)、地元民族の中に溶け込んだ。

庄蹻が滇に入った時期について、歴史には異説があり、『史記』と『漢書』の『西南列伝』は楚の威王の時事とし、『後漢書・西南伝』は楚の頃襄王の時の事としている。

⭕️滇の人々は『西南夷』
黔中郡はかつて楚の地であったが、秦に一度攻略された。
もともと、庄蹻の楚国。

考古学的発見

2012年8月から11月にかけて、湖南省文物考古研究所は湖南省西南辺境にある托口水力発電所工事区域の大塘嶺墓群のこの工事区域の考古遺跡に対して2回目の大規模な緊急発掘を行った。これまで湖南で発見された楚の墓は、西は同じ淮河地方にある虹江市乾城鎮までしか到達しておらず、今回の発掘が行われている托口鎮からは直線距離で20キロほど離れている。

湖南大学岳麓書院の教授の桃初说は、今回の発掘地点は西へ20キロ進んだだけだが、銭城鎮は沅水川の本流に位置し、托口鎮は沅水川の上流に位置し、しかも支流の位置にあり、意味はさらに重要であり、「庄蹻の滇入り」の信憑性と経路の証拠を提供したと述べた。

「庄蹻の滇入り」は雲貴高原開発史上の重要な事件であり、歴史書には多くの記録があるが、学界では楚国の将軍の「庄蹻」の真実性と「滇入り」の経路について議論がある。かつて一部の学者は沅水川を遡って「庄蹻は滇に入った」と断言したが、今回の発見はこの「謎」の解明に役立つだろう。

4.春秋戦国時代の庄蹻入滇の意義とは

庄蹻の滇入りは、春秋戦国時代における歴史的大事件であり、雲貴高原の発展の序章を開いた。 では、庄蹻の入滇とはいったい何なのか?

庄蹻の入滇

まずはっきりさせたいのは、庄蹻は個人の名であり、いわゆる滇に入るとは、雲南に移住した世代であることを意味します。庄蹻は楚の国の将軍であり、楚の庄王でもあります。西暦紀元前279年、庄蹻は楚の襄王の命令で、黔中郡から南西方向に軍隊を率いて侵攻した。庄蹻は沅水を経て、また南西に進軍し、且蘭を攻略し、一挙に夜郎国を攻略し、雲貴の地に入った。

リンク

滇国は雲南にあった。今でも雲南を滇という。なので滇国の翻訳は雲南と変わる。原文が雲南だったら雲南。滇だったら滇に戻した。

黔中郡は秦国の属地だったため、黔中郡が占領されたと聞いた秦国はすぐに軍隊を派遣して争った。蜀郡守の張若はすぐに黔中郡と巫郡の2つの地方を回復した。この2つの場所は庄蹻にとって極めて重要で、楚から雲南に出兵したのは、黔中郡を経て来たからだ。現在、黔中郡は秦に占領されており、彼の帰路を絶ったとも言える。そのため庄蹻は再び兵力を集め、秦国と黔中を争った。しかし、いくつかの争いを経て、楚国は黔中郡の一部の地域を攻略しただけで、すべてを奪うことはできなかった。

長期に繰り返されてきた争奪戦の中で、庄蹻はそこに本拠地として州県を建設し、秦国との長期戦を期した。しかし、楚の国に帰ることができなかったため、彼が率いる軍隊は現地の民族の中に次第に溶け込んでいった。庄蹻はこの状況を見て、その地に自分の政権を樹立し、滇国と呼んだ。

庄蹻の入滇とは何かについては、中国には多くのの文献があります。例えば、「史記」や「漢書」、「後漢書」などです。ただし、「後漢書」では荘蹻が雲南に入ったのは楚威王の時期であり、「史記」と「漢書」では楚の頃襄王の時期でした。

庄蹻の入滇の意義

荘蹻入雲南の意義は中国の歴史、特に西南地区の歴史にとって巨大であり、それは西南地区の発展を促進するだけでなく、中国の多民族融合の象徴でもある。

・・・・・・これ、インチキだと思うな・・・。

庄蹻は楚の国の将軍で、軍を率いて南西方向に進出し、夜郎国を攻略し、雲貴に入るよう命じられた。しかし秦国の軍隊は彼の帰路を断ち切った。彼は秦国と戦いながら、現地に根拠地を築くしかなかった。彼はずっと楚の国に戻れなかったので、所属していた部隊は次第に地元の民族の中に溶け込んでいった。この歴史的事件は、南西部の雲貴高原の開発に積極的な意義を持っている。

まず、楚の人が大量に南西に流入し、同時に比較的先進的な文化と科学技術を持ってきた。当時の黔滇代はちょうど人類青銅文化の最盛期だったが、楚はすでに鉄器時代に入っていた。庄蹻が雲南省に入ってから100年もたたないうちに、黔滇地区の文化を率いて、急速に鉄器時代に入った。そのため人類の発展にとっても、文化文明の発展にとっても、庄蹻入滇はまず黔滇の先進的な科学技術と文化をもたらした。現在出土している古代雲南人墓からは、比較的明らかな楚人の特徴も発見されている。

今日に至るまで、庄蹻が雲南に入る意義は比較的深い影響がある。庄蹻は帰り道がスムーズではない状況の下で、現地で雲南国を設立し、そして人民に服を着替えるように命令して、生活習慣と習慣を変えることは、中国の多民族融合の象徴であり、内陸部の人民と南西部の人民の初めての接触で、異なる民族人民の間の感情を増進し、民族団結友好の豊かな記念碑である。庄蹻入雲南も中国史上稀に見る大規模な漢人が少数民族に溶け込んだ事例の一つである。

ワシ

だからこの絵

滇の人々は西南夷。庄蹻は楚の庄王の末裔。楚国と庄王を確認してないのでキッパリと言えないが、楚国と庄王も同じ夷なのでは?秦国から助けに来た同じ夷で、だから美談。英雄になっているのでは?後の庄蹻の子孫の滇王と滇の人々は漢と戦うことになる。この記事の説明は漢人の文化に同化せよ、このプロパガンダが入っていると思う。

5.滇国

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