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夏、殷、周上古三代の天命観

8268文字
天皇の理解には古代中国の「夏、殷、周の上古三代」を知らなければならず、その中でも周が最重要だ。

儒教の最重要な情報が中国語を翻訳せずとも日本語であった。それも詳しく分かりやすい。ラッキー!!法輪功と儒教の関係はどうなっているんだろうと思いつつ紹介する。先方のブログの内容を検索し、写真など貼り付けわかりやすくした。今回はとても重要な情報です。


夏、殷、周上古三代の天命観について考察する(一)

【明慧日本2019年8月8日】司馬遷は中国の歴史上で最も有名な歴史家で、彼の『史記』は「二十四史」(中国の王朝の正史24書のこと)の第一に数えられ、中国の歴史上における最初の紀伝体の通史として、上古の伝説の黄帝時代から、漢武帝の太初4年まで、合わせて3000年余りの歴史を記載しました。

 『史記』となると、知らない人はいないでしょう。当時、司馬遷は専念してこの大著を執筆した際に、漢武帝の機嫌を損ね、宮刑に処されました。悲しみと憤りの中で、司馬遷は何度も頭を壁にぶつけて自殺しようとしました。しかし、『史記』がまだ編纂され完成されていないと思うと、彼は死の念を打ち消しました。「人はいつか死ぬだろう。死には泰山より重いものもあれば、鴻毛より軽いものもある。私がこのまま死んでしまえば、鴻毛よりも軽いのではないか? 私は必ず生きている間に、必ずこの歴史書を編纂し完成させる」と彼は決意しました。それから、司馬遷はできるだけ自分の気持ちを抑え、個人の恥辱や苦痛を心の中にしまい、また竹簡を広げ、そこに一文字一文字しっかりとした隷書で書き留めました。こうして屈辱の中で、司馬遷は意気込んで執筆し、18年の歳月をかけ、彼が60歳になった時に、ついに52万字のあの大著の歴史書『史記』を完成させました。

 司馬遷がなぜこれほどまでに心血を注き、命を尽くして、この『史記』を完成しなければならなかったのでしょうか? 彼自身の言葉で言うと、それは「天と人間の関係を究明し、古今の変化を理解し、一家言(※)を成し遂げた」(『漢書・司馬遷伝』)と言うことでした。

 いわゆる「天と人間との関係を究明する」というのは、司馬遷、そして、彼が代表する古代中国の歴史家達が歴史を研究する大きなテーマだっただけではなく、それは中国の伝統文化を貫く一本の道筋でもあり、中国伝統文化の大きな主題でもありました。

               漢武帝            董仲舒

 例えば、董仲舒(とうちゅうじょ・中国前漢時代の儒学者)は漢武帝への献策の中で、まず、「臣は謹んで『春秋』の記述に基づき、前代で起きたことを考察し、天と人間との相互関係を分析した状況は、実に恐ろしいものだ」などと言いました。ここの「天と人間との相互関係」を如何にするかは、董仲舒の献策の基本的な内容でした。董仲舒と同じ頃、40歳を過ぎて『春秋』を学び、宰相に抜擢された公孫弘(こうそん こう・紀元前200年~ 紀元前121年)も、漢武帝に儒学教育を創立するようにと提言しました。彼は「詔書を案じ、法令を書いて下す者は、天と人間との関係を明らかにし、古今の義を通わせ、文章が美しく、訓辞が深く厚く…」(『史記・儒林伝』)としなければならない。しかし、普通の官吏にはこれらのことができず、儒学の人材を育成する必要がある、と訴えました。つまり、天と人間との関係を明らかにすることは儒学の基本的な方向性である、と彼は認識していました。前漢末期の有名な儒学者・楊雄(よう ゆう)も「聖人とは、精神を陶冶し、真理を求め、自然の秩序に従い、天下の大利を至らしめ、天と人間との関係を一体として調和させる者である」(『法言・問神』)と言いました。三国の魏の時代になると、何晏(か あん・195年~249年 後漢末期から三国時代の魏の政治家、学者)は王弼(おう ひつ・226年~249年 三国時代の魏の学者・政治家)のことを、「この人とは、天と人間との関係について論じることが出来る」(『世説新語・文学』)と称賛しました。何晏は『論語解集』を著し、儒学者のリーダー的な存在でした。北宋の有名な哲学家・邵雍(しょう よう・1012年~1077)も「天と人間との関係を学ばなければ、学んだこととは言えない」(『皇極経世書・観物外編』)と言いました。

数千年来、天と人間との関係をめぐり、人々は長く深く探求し、そして、それに基づき、中華文化の思想観念の体系を作り上げました。人々はそれを天命観、あるいは天命思想と称しました。一方、夏、殷、周の上古三代は中国の天命観の発展する史上において、参照できる確かな文献資料のある最も早い時期で、中国古代の天命観の原点と言ってもいいと思われています。

それでは、当時の中国人はどのように天と人間との関係を見ていたのでしょうか? そのことは次回でお話しましょう。

(続く)

 ※ 一家言(いっかげん・その人独特の意見や主張)


夏、殷、周上古三代の天命観について考察する(二)

【明慧日本2019年8月9日】現在の中国人と違って、上古三代の中国の先祖達は皆、神を信じていました。彼らが信じる神々の中には、自然神もあれば、祖先神もあり、そして、これらの神々の中に、すべてを支配する全能でこの上ない最高の神である、至上神の存在もありました。殷、周の人々は、この至上神に対する呼び方が異なり、殷の人は「帝」、あるいは「上帝」と呼び、周の多くの人々は「天」と呼んでいました。呼び方が異なっても、「帝」、「上帝」と「天」との間の、実質的な内容は同じで、すべて至上神のことを指しています。

生贄を求める神だから誰なのかは明らか(笑)

上古三代の人々から見れば、「帝」、「天」が神々の中の至上神として、万物を育み、潤し、大千世界のすべてを支配します。自然界の風雨、雷と稲妻、水害と干ばつ、農作物の成長と収穫、さらに、王朝の栄えと衰え、人の富貴と貧賎、吉凶と禍福はすべて冥冥の中の「帝」、「天」によって按排(あんばい)され、天命、天意によって決められるのです。このような認識は上古三代の天命観の核心となり、当時の天命観の「第一原理」となりました。

殷を例にすると、当時の国王と貴族は甲骨で占いをするだけではなく、さらに、占った結果を甲骨に刻みました。これらの甲骨卜辞は中国の最古の文字となり、殷の人達の天命観を研究する確かな資料となりました。これらの文字から、殷の人々は万物に神が宿ると信じ、天神、地祇、人鬼(死者の霊)を信奉していたことが分かります。その中の天神とは天上のすべての自然物を神化した者で、日、月、星、風、雨、雷等をも含み、地祇とは地上のすべての自然物を神化した者で、土地神、社稷の神(※1)、山岳、河海および百物の神をも含み、人鬼(死者の霊)とは歴史上の人物が亡くなった後に神化された者で、先祖、先師、功臣およびその他の歴史人物が含まれます。「帝」、「上帝」は自然神と社会神を総合して、抽象し、昇華したもので、自然と人間社会を超越して、天神、地祇、人鬼(死者の霊)の上に位しており、絶対的な権力の化身として見なされました。

今は亡き有名な学者・胡厚宣先生(中国の著名な甲骨文の研究者で、殷の歴史学者)は、「殷の人々の心の中では、至上神が、大自然の風雲、雷雨、水害、干ばつを支配し、農作物の生長、収穫を決定する。「帝」は天上におられるが、城邑(※2)に降りることができ……人間に幸福と災難、病気を下す事ができ、直接に殷王を加護するか、王に災難をもたらすかを決め、世間のすべてを指揮するように命令を出すことができる。だから、殷王は祀典を行ない、政令を定める際に、必ず「帝」の意志を推測してから行なわなければならなかった」と言いました。

具体的に言えば、「帝」は超自然な力を持っており、風を吹かせ、雨を降らせ、自然界を支配することが出来ます。例えば、武丁(ぶてい 殷朝の第22代王)の時の卜辞には、「上帝……旱……降らす」、祖庚(そこう 殷朝の第23代王)と祖甲(そこう 殷朝の第24代王)の卜辞には「……上帝は王を承諾する……ご加護あり」、「3月に帝は雨を多く降らす」、「帝は13月に雷を鳴らすように命じる」、「翌日の癸卯の日、帝は風を吹かさず、夕方に霧を降らす」等がありました。卜辞から、「帝」は神力が大きく、日、月、星、風、雨、雷、稲妻などの諸神を指揮し、雨を降らせ、風を吹かせ、雷を鳴らすように命令することができる、と言うことが分かります。

それだけではなく、「帝」はまた人間社会を制御し、神々を動かして世間のすべてに干渉することが出来、それにより、人間に禍を降すか、加護するかを実現します。卜辞には、「1月に帝は日食を下す」、「帝は鳥害を下さす」、「帝は城邑を絶滅させる」、「帝は禍を降らす」などの占い結果もあり、また卜辞には「帝は殷王に病気を患わせる」、「殷王が城邑を作るが、帝からご加護を受ける」等の内容もありました。そして、「帝からご加護を授かる」というのがあるように、「上帝」は外敵を征討(※3)する勝敗を支配しており、殷王を守ることもできれば、妨害することもでき、殷王の吉凶禍福のすべてを掌握しているため、毎回軍事作戦を行なう前に、殷王は必ず先に上帝にご加護を授けてくださるかどうかを問いました。

(続く)
 ※1 社稷(しゃしょく): 社(土地神を祭る祭壇)と稷(穀物の神を祭る祭壇)の総称。
 ※2 城邑(じょうゆう): 城壁に囲まれた町。 みやこ。
 ※3 征討(せいとう): 服従しないものを、攻め込んで討つこと。


夏、殷、周上古三代の天命観について考察する(三)

【明慧日本2019年8月29日】殷が滅び、周が天下を取り、殷人の「帝」、「上帝」に対する信仰も、それにつれて、周の「天」に対する信仰に変わっていきました。後者と前者は言葉が違っていても、本質的には、すべて全能の至上神を指しています。

至上神である以上、「天」は周の人々の心の中で、当然のことながら、この上なく最高の存在となりました。それは周の人々が「天」を祭る風習からも証明されます。

北京の天壇は、明と清代の皇帝が天を祭る場所だと誰もが知っています。中華民族の最も盛大で荘厳な祭祀の儀式として、そして、人と天との「交流」の形式として、その原点は周を含む上古時代に遡ることが出来ます。

北京の天壇

周の時代では、毎年の冬至の日になると、天子が国都の南の郊外で天を祭る儀式を行ないます。「圜丘祀天」(※1)と「方丘祭地」(※2)はすべて郊外で行なわれるため、郊祀(※3)とも言います。

それでは、周の人はどうして天を祭るのでしょうか? その目的はこのような儀式を通して、万物を育て、潤しを与えてくれる天に感謝の意を表し、そして、至上神からのご加護を祈ることに他なりません。彼らから見れば、世間の万物は天によって育てられ、潤され、しかも、守られていると考えていたからです。もしそうでなければ、どうして天に対して感謝の意を表し、ご加護をお祈りする必要があるでしょうか?!

(続く)

 ※1 圜丘(えんきゅう) 天を祀る祭壇。天が円形だと考えられていたため、天を祭る祭壇は円形となり、天壇とも言います。冬至の日に儀式が行われます。

圜丘

 ※2 方丘(ほうきゅう) 地神を祭る祭壇。大地が方形だと考えられていたため、地神を祭る祭壇は正方形となり、地壇とも言います。夏至の日に儀式が行われます。

方丘

 ※3 郊祀(こうし) 天子が王都の郊外において天地を祀る儀式を行いますので、そのことを郊祀とも言います。

左:神武天皇「鳥見山の郊祀」想像図
とりあえず中国のblog


夏、殷、周上古三代の天命観について考察する(四)

【明慧日本2019年9月2日】

上古三代の人々から見れば、「帝」、「天」は万物を育み、潤し、大千世界のすべてを支配していると考えました。そのため、当時の人々は自然と天に対して感謝と畏敬の念を持っていました。

天に対する感謝と畏敬の念を表し、天に祈り求めることと言えば、天を祭ると言う重要な形式がありますが、実は封禅(ほうぜん)と言う、もう一つの天地を祭る重要な形もあります。

古代中国では、最も盛大な国事と言えば、泰山での封禅儀式にほかならないでしょう。「封」と言うのは天を祭る儀式のことで、「禅」というのは地を祭る儀式のことです。

泰山。封禅儀式は想像図

古代の人々は数ある山の中で泰山(※1)が最も高く、天下一の山だと考えました。そのため、人間社会の帝王はこの最高の泰山へ行き、天帝を祭り、天命を受けなければならなりませんでした。泰山の上に土を築いて壇を作り、天を祭り、天の功に報いるのを封と称し、泰山の下の梁父等の小山で地を平らにして壇を作り、地を祭り、地の功に報いるのを禅と称しました。この封禅の儀は古代帝王の最高の式典で、王朝が交代し、政権が変わり、あるいは長い戦乱が終結して太平の世に至った時しか、天地を封禅することが出来ませんでした。

昔の書籍の中で初めて封禅について言及したのは、春秋時期の『管子・封禅篇』と言う文章でした。その中には、管仲(かん ちゅう 春秋時代、斉の政治家)は「古代で泰山を封じ、梁父を禅した72家の内、私が知っているのは12家です。無懐氏伏羲氏神農氏炎帝氏黄帝顓頊帝嚳堯、舜、禹、湯、周成王泰山を封じ、それぞれ山を禅しました。皆は天命を受けた後に封禅を行ないました」と言いました。ここから分かるように、封禅の儀式は「三皇五帝」(古代中国の神話伝説時代の8人の帝王)の時代からすでにあったもので、そして、上古三代の帝王の中で、夏の禹帝、殷の湯王、周の成王もすべて泰山で封禅の義を行ないました。

 それでは夏の禹帝殷の湯王周の成王はどうして封禅の義を行なわなければならないのでしょうか? 『五経通義』の中で、「王朝が変わって太平の世に至ったならば、必ず泰山を封じ、梁父を禅し、天命を受け、世を治め、天下平和を天に報告し、神々の功労に報いる」と書かれていました。つまり古代帝王が封禅をする目的は、平和で繁栄した時代、あるいは天から瑞祥が現れた際に、天と地に自らが国を立て直した偉大なる功績を報告し、同時に天命を授かり、世を治めることを表明するものです。これらのことから、彼らにとって、天は自らも含むすべての人が感謝をし、畏敬し、祈り求める対象であることをはっきりと示されました。


(続く)

 ※1 泰山は、中国山東省泰安市にある山で、高さは1545m。 封禅の儀式が行なわれる山として名高い。 道教の聖地である五つの山のひとつである。

泰山
梁父

夏、殷、周上古三代の天命観について考察する(五)

【明慧日本2019年9月3日】上古三代の人々から見れば、天意と天命に従うことは天に対する感謝と畏敬の念を持ち、天に祈り求めることと同じで、それは天からご加護をいただく前提条件でもあると考えました。そのような考え方は上古三代の人々の天命観の基本要素でした。

それなら、どうすれば天意と天命の按排(あんばい)に従うことが出来るでしょうか? それは天意と天命をまず知らなければならないことでしょう。一方、占いは上古三代の人々が神とコミュニケーションを取り、天意と天命を知るための最もよく使われる手段の一つでした。

 『史記・龜策列傳』の中で、このような内容が綴られていました。「昔より、賢明な君主が国家を建て、事業を興そうとした時、卜筮(ぼくぜい:占い)で成功を助けるのをしないことはあるでしょうか? 唐尭(とうぎょう)(※1)と虞舜(ぐしゅん)(※2)の以前については記述ができませんが、夏、殷、周三代の王朝の創立を見れば、すべてが占いの吉祥の兆(※3)を根拠にしたことが分かりました。禹(う:夏朝の創始者)は塗山氏の娘を娶(めと)るのを占って吉を得たゆえに、そこから、代々伝わる夏王朝を作りました。簡狄(かんてき)は燕が落とした卵を呑んで契(せつ:商王朝の創始者)を出産し、占いの兆が吉を示した故に、殷王朝が興りました。農業の神とされた后稷(こうしょく)が占って吉を得た故に、周国の君主はついに天下の王となりました。君主が難しいことを決断する時、占いの結果を参考にして最終的に決断を下すことは、不変的で伝統的なプロセスでした」

 殷王朝を例にすれば、祭祀、戦争、飲食、宴会、気象、農業、収穫、狩り、旅行、災害、ご加護、奴隷の逃亡等の難事について、殷王は殆どすべての事について占いをし、毎日占いをし、その兆によって吉と凶を判断しました。彼らにとっては、占いはとても神聖なことで、占いをする前に必ず斎戒沐浴をしなければなりませんでした。

 殷の人々から見れば、占いの結果は天意であり、上帝の命令であるため、それに反して行動してはならず、その通りに実行しなければなりません。もし、それに反して行動すれば、それは天意に背くことになり、不吉な結果につながると考えていました。

 『尚書・大誥』の記載によると、周武王(周朝の創始者:殷を滅ぼし、周を立てた)が亡くなった後、殷の紂王(ちゅうおう:殷の第 30代の最後の王)の息子の武庚(ぶこう)は、周武王の兄弟の管叔鮮(周の文王の三男)、蔡叔度(周の文王の五男)、霍叔処(周の文王の八男)とぐるになって、淮夷(古代中国東方の異民族の総称)と連携して兵を起こし、周に反乱を起こしました。しばらくの間、周王朝は内憂外患の危機に陥りました。その時、摂政王の周公(しゅうこ)(※4)は多くの意見を押し切り、毅然として出兵して東征し、反乱の平定に踏み切りました。出征する前、彼は文王(周朝の始祖)が残してくれた大宝亀を使って占いをし、結果がすべて吉の兆でした。それでも、一部の諸侯と臣下は依然として武力で反乱を平定する決定に反対しました。彼らは周公に「難し過ぎます。人心も落ち着いていないし、問題は王宮と臣下の家に起きており、しかも、一部の人は我々が尊敬する先輩と兄弟です。彼らを討伐すべきではありません。王よ! どうしてこの占いの結果に反して行動できないでしょうか?」と中言しました。

 周公は、「天は文王を表彰してくださり、この小さな国を繁栄させてくださいました。文王は占いを通じて、天から授与してくださった大きな運命を受けました。今、天は彼の臣民に私たちを助けさせておられ、しかも、私達は占いを通して天のこのご意図を知りました。あーあ! 天の明確なご意見に対して、人間は畏敬の念を示さなければなりません。あなた達はやはり私たちの統治を強化するように協力してください」と言いました。そして、周公は引き続き、「天は私たちの文王に幸運を下しました。私たちはどうして占いの結果を無視し、どうして天のご意思に従わず、文王のご意思に従わず、我々の素晴らしい国土を守らないでいいでしょうか? まして、本日の占いの結果は吉ですので、私は必ず各諸侯を率いて東征します。天命は間違いがありません。卜辞(ぼくじ)はその点をはっきりと説明してくれました」と言いました。

(続く)

 ※1 唐尭(とうぎょう) 中国神話に登場する君主。五帝の1人。 暦を作り、無為の治をなした。 儒家により神聖視され、聖人と崇められた。

 ※2 虞舜(ぐしゅん) 中国神話に登場する君主。 五帝の1人。儒家により神聖視され、堯と並んで堯舜と呼ばれて聖人と崇められた。

 ※3 吉祥の兆 漢字の「兆」は、元々は象形文で、「きざし」(兆候)を意味していた。動物の骨や亀の甲を焼いて占う亀卜(きぼく)の時に、骨や甲に生じる亀裂の形に象り、占いまたはきざしを意味していた。この亀裂の形によって、「兆」の字が作られた。

 ※4 摂政王の周公(しゅうこ) 周朝の王族。本名は姫旦(きたん)、周公旦ともいう。文王の子、武王の弟。武王を助けて殷(いん)を滅ぼし、武王の死後は幼少の成王を助けて政務を執り、周の支配を確立した。東方を征討して洛陽に都し、礼をもって封建制度の規範とした。

おわり

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